2017年12月27日水曜日

12/24「新しい神殿が建てられる」マタイ24:1-2

                みことば/2017,12,24(クリスマス礼拝)  142
◎礼拝説教 マタイ福音書 24:1-2                    日本キリスト教会 上田教会
『新しい神殿が
建てられる』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
24:1 イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。2 そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。       (マタイ福音書 24:1-2)
                                               
3:16 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。17 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。(コリント手紙(1)3:16-17)


 1-2節。エルサレムの都の中にあるとても素敵で立派な美しい神殿を出てゆくとき、弟子たちは「先生。ちょっとご覧ください」と主イエスに声をかけました。他の福音書では、「先生、ご覧なさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」(マルコ13:1と話かけたと報告しています。弟子たちは、だいたいそういう気持ちでした。すると、思いのほかトゲトゲしく厳しい言葉が主イエスの口から出てきました。2節です、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないのか。よく言っておく、その石一つでも崩されずに、そこに他の石の上に残ることもなくなる」と。実は、主イエスは弟子たちに同じようなことを何度も言い続けてきました。「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」(マルコ13:1,ヨハネ2:19などと。人間たちが建てた古い神殿を壊して、そのあとにまったく新しい神殿を建てあげることが、救い主イエスというお方の大きな目標でありつづけました。はじめに人間たちが神のものである祈りの家を建てたとき、そこに神さまがいてくださることを心から願いました。願いと祈りをこめて神殿を、神のものである祈りの家を建てたのです。けれど目に見えない神を見えないままに信じて生きることは、とても難しいことでした。神に喜んでいただこう、周りの人間たちにも喜んでもらおうと願って、神殿はどんどん見事に立派に大きくて美しくて素敵な建物になっていきました。けれど、その立派さとは裏腹に、神を信じて生きるはずの人間たちの心は脇道へ脇道へと逸れていって、だんだんと神さまを見失っていきました。神を信じて生きるはずの一日一日の生活も、信じる人々の心の思いも、どんどん神さまから離れて、ただ形ばかりの中身のない虚しいものになってしまいました。神さまご自身も願いました、「神を信じて生きる、嬉しくて心強い生活をもう一度取り戻させてあげたい」と。人間たちが建てた古い神殿を壊して、そのあとにまったく新しい神殿を建てあげるとはそのことです。神ご自身が住んで、そこに確かにいてくださる神殿を、神ご自身の手でまったく新しく造り上げること。
  このとき、主イエスご自身の十字架の無残な死がほんの数日後に迫っていました。人間の手で造ったのではない、神ご自身の手によるまったく新しい神殿。クドクドと何回聞かされても理解しがたいことですが、それは救い主イエスが私たち人間の罪を背負って死んで、墓に葬られ、その三日後に墓からよみがえることでした。そのようにして、ご自身が新しい神殿の土台となり、神殿そのものとなり、神の祈りの家に生命を吹き込み、神を信じて生きる人々の一つ一つの体を神殿としてその中に住んでくださることです(コリント手紙(1)3:16,6:19,エペソ手紙2:21,ペテロ手紙(1)2:5。聖書にはっきりとそう証言されているので、私たちもそれをそのまま信じました。そのようにして、神を信じて生きる生活が新しくはじまりました。この上田教会も、神さまによってまったく新しく建てられた新しい神殿の一つです。この土地で伝道を開始したのはわずか140年ほど前のことですが、そこから始まったのではありません(伝道開始1876108日)。そうではなくて、2000年前のあのときに 「この古い神殿をこわして、わたし自身が三日のうちに、それを起す」と救い主イエスの断固たる宣言のもとに新しい土台を据えられ、建てあげられてきた、神ご自身のものである新しい神殿の一つです。いえ、もう少していねいに語るなら、アブラムとサライ夫婦が神の招きに応じて旅立ったときから、あるいはアダムとエバが土の塵から造られ、「地を耕し守る」ためにエデンの園に連れて来られたときから、神のものである神殿ははっきりした土台を据えられていました。だからこそ救い主イエスの系図はアブラハムへとさかのぼり、さらにアダムへとさかのぼります。神ご自身の救いのお働きの大きな大きな流れの只中に、私たちの教会も、私たち一人一人の生活も据え置かれている。それは直ちに、キリスト教会の歴史そのものでもあります(創世記2:4-,12:1-3,マタイ1:1-,ルカ3:23-。神ご自身から約束されたとおりに、クリスチャン一人一人も神さまによってまったく新しく建てられた新しい神殿の一つ一つです。聖書は証言します、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」。びっくりですね。しかも本当のことです。
 ぼくは思い起こします。自分が初めてキリスト教会に、つまり神ご自身のものである祈りの家に足を踏み入れたときのことを。またその祈りの家の礼拝の席に、内心ドキドキしながら初めて腰掛けた日のことを。地上には今や神を信じる人々の手によって数多くの美しく立派な神殿が建てられました。バチカン宮殿や亀岡八幡宮や東京スカイツリーのように、神の栄光と威厳とをそのまま地上に現したかのような壮大華麗な神殿や建築物も数多くあります。そういう神殿を喜ぶ人々もいます。「立派だ。見事だ。心が洗われるようだ。これこそ、神の偉大さと尊厳にふさわしい」。また、その一方で、そういう神殿とそこに集う人々の厳粛さや華やかさを恐れ、「こんな私では」とたじろいで悲しむ人々もおります。思い浮かべてみていただきたいのです。心に痛みを覚えて、自信を失い、恐れと不安を抱える一人の人が、ある日ふと《神のものである神殿》の前に立ち止まります。買い物帰りか、あるいはいつもの散歩の途中に。ああ、こんな所にキリスト教会が建っていたのか。「この中では何をしているのだろう。どんなことが起こっているのだろう」。そおっと中を覗き込んでみます。入り口脇の案内板の片隅に、「誰でも自由に来てみてください」と書き添えられている。誰でも、自由に来てみてください? 本当だろうか。例えば「○○さんのハーモニカを聴く会」とか何かのちょっとした催し物の際などに、あるいは床板を張り替える大工仕事を教会から頼まれて、その人は、その神殿に足を一歩踏み入れることができるでしょうか。建物の中に入っていって、そこに、自分のためにも用意されている嬉しい居場所を見出すことができるでしょうか。そうであってほしいのです。神さま、どうぞその人と私たちとをあわれんでください。その心細い一人の人のためにも、神さまご自身が、どうか広々とした平らな道を開いてくださいますように。
  神さまによって新しく建てられた、私たち人間が心に思い浮かべるような立派さや美しさとはずいぶん違った神殿。それは、救い主イエスが神でありながら生身の人間の姿をもってこの世界に生まれてくださったことと似ています。家畜小屋の家畜たちのエサ箱の中に、布切れ一枚にくるまれて、小さな赤ちゃんの姿で生まれてくださいました。どんな姿で来ることもできながら、宝石で着飾った華麗な王様の姿ではなく、武装した強い戦士の姿でもなくて、裸んぼうの一人の小さな赤ちゃんです。誰をも恐れさせたり、いじけさせたりしたくなかったからです。ほっと安心して暖かで安らかな心でいてもらいたい、と願ってくださったからです。
  神さまによって新しく建てられた神殿。それはまた、一人一人のクリスチャンの誕生とよく似ています。生きてゆく中で、私たち一人一人も良いものを身につけてきただけではなく、なくてもいいような悪いもの邪魔なものも数多く身につけてきてしまいました。風呂に入って石鹸でゴシゴシ体を洗っても取れないようなこの世の垢です。臆病さ、ずる賢さ、偏屈で意固地でわがままで、自惚れて人を見下してしまいやすかったり、いじけて僻んだり妬んだりしてしまうことや、体裁や体面を気に病み、「誉められた」と言っては喜び、「けなされた。分かってもらえなかった、ひどく誤解された」と言っては渋い顔をして心がどんより沈み、そんなことの繰り返しで、人の顔色ばかりを窺って空気を読み続けること、そのほか色々。それは、人間の手による古くて薄汚れてしまった神殿です。神を信じて新しく生きてゆくためには、それらは邪魔でした。けれど自分自身では、その邪魔な古い神殿を打ち壊すことも、新しく建て直すこともできませんでした。人間に出来ることではなかったからです。けれど神にはできます。神に出来ないことは何一つないからです。そのことを願って、信じて、神さまにこの私を新しくしていただきたいと期待して、この私たちはクリスチャンにされました。聖書は証言します;「もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。・・・・・・もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」(ローマ手紙6:5-8
  神さまによってまったく新しく建てられた神殿。頭も心も堅く頑固になってしまった一人のおじいさんもそうでした。ニコデモという名前の、頭がカチンカチンのおじいさんでした。けれどその彼も心の奥底で激しく願っていたのです。新しい自分になりたいと。彼は世間様の目を恐れて、夜中にこっそり主イエスの所に訪ねてきました。主イエスはおっしゃいました、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」「人は年をとって、シワシワのハゲ頭のおじいさんおばあさんになってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって、オギャア、オギャアと生れることができましょうか。バカバカしい」「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」「どうして、そんなことがあり得ましょうか。あるはずがない」と渋い顔をしてニコデモは帰っていきました(ヨハネ福音書3:3-9参照)。なアんだ、だめだったのか。せっかくわざわざ訪ねてきたのにニコデモは残念だったなあ、あともう一歩か二歩のころだったのに、などと私たちはがっかりしました。けれど早合点でした。ずいぶん後になって、いつの間にかあの頑固者のおじいさんさえもが主イエスの弟子になっていました(ヨハネ福音書19:38-40参照)。そういう人もたくさんいます。ですから私たちもうっかり早合点しないように、「この人はこういう人だから」などと軽々しく決めつけてしまわないように気をつけています。どんな石頭でも頑固者でも、とても臆病になってしまった人も、見栄っ張りな人も疑い深くても、誰でも神を信じて生きはじめることができるかも知れません。新しい神殿にしていただいて、建てあげていただけるかも知れません。どうやって? さあ、私たちには分かりません。神さまだけがご存知です。人間に出来ることではなかったからです。けれど神にはできます。神に出来ないことは何一つないからです。そのことを願って、信じて、神さまにこの私を新しくしていただきたいと期待して、この私たち一人一人はクリスチャンにされました。私の大切な愛する連れ合いも、息子や娘たちも、家族の一人一人も友だちも、そうやって神さまがしてくださったらいいのにと願い続けています。

               ◇

 昔、だいぶん年上の友だちが話して聞かせてくれました。「遠い南の小さな島に、小さな小さなわら葺屋根の小屋が建っているんだよ」と。その友だちは若い頃、軍隊に徴用されて戦争に行き、たまたまその島に上陸しました。そして一軒の小屋を見つけたのです。その小屋には窓もない。ドアもない。イスさえ置いてない。強い風がちょっとでも吹くと、屋根も柱も壁も吹き飛ばされてしまうそうです。雨が滴り落ちて、粗末な床板を濡らします。けれども、その小さな小さなわら葺屋根の上には、断固として十字架が掲げられているのです。主の慈しみに生きる人々がいて、彼らもそこから呼ばわります。「わが神、主よ。私たちの祈りと願いを顧みて、今日私たちが御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、わら葺屋根のこの所に御目を注いでください。なぜなら、ここはあなたが『私の名をとどめる』と約束してくださった所です。わたしの祈りの家とすると約束してくださった所です。天にいまして耳を傾け、聞き届けて、私たちの罪をゆるしてください。捕われて遠くの土地に連れて行かれても、天が閉ざされて苦しみと悩みに打ちひしがれるとしても、そこで私たちが心に痛みを覚えて祈るならば、あなたに立ち帰ってあわれみを請うならば、そのどの祈り、ふつつかで貧しいどの一つの願いにも耳を傾けてください。どこからでも私たちを連れ戻し、救い出してください」(列王記上8:23-53参照)と。子どもたちも老人も、「わが神、わが主よ」と呼ばわります。身を屈めさせられた小さな人も呼ばわります。お父さんもお母さんも呼ばわります。健康な人も呼ばわり、病気の人も、その人の世話をし寄り添って生きる家族も呼ばわります。淋しい人も、孤独な人も、生きる希望や喜びを見失いかけていた人さえも、「わが神、主よ。どうか私たちの祈りと願いを顧みてください」と呼ばわります。それまで神を知らなかった者たちであっても、主の大いなる救いの御業を耳にします。「まず1回来てみなさいよ」と誘われ、呼ばわりはじめます。誰に遠慮することもなく、恐れることもおじけることもなく、晴れ晴れとして、そこから呼ばわることをしはじめます。それらは、やがて大きな大きな歌声になるでしょう。耳を傾けてゆるす神に向かって。慈しみの主に向かって。