2017年12月18日月曜日

12/17「偽善者の不幸」マタイ23:1-36

          みことば/2017,11,17(待降節第3主日の礼拝)  141
◎礼拝説教 マタイ福音書 23:1-36                 日本キリスト教会 上田教会
『偽善者の不幸』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
23:1 そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、2 「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。3 だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。4 また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。・・・・・・8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。9 また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。10 また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。11 そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。12 だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。・・・・・・27 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。28 このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。                  (マタイ福音書 23:1-28)
                                               


  この23章全体は、主イエスが神殿の境内でお語りになった最後の説教です。律法学者たちとパリサイ派の人々をきびしく非難していますが、むしろそれらはすべてのキリスト教会とクリスチャンに向けて語られた戒めであると受け止めましょう。律法学者とパリサイ派の人々こそが、とても悪い、それゆえとても良い役に立つ手本であり、普段の私たち自身の姿を映し出す鏡でありつづけるからです。彼らのふり見て我がふり直せ。「主イエスがこの自分自身に向けて語りかけてくださっている。それは愛情深い警告だ」と受け止められるなら、私たちは幸いです――
  まず1-4節については、少しよく考えてみる必要があります。『モーセの座に座っている』2節);聖書に基づいて信仰を教える務めを担っているということです。それならば、(牧師や長老や執事やなにかの委員だけではなく)クリスチャンである私たち皆が、その同じ一つの務めを担っていることを思い起こしましょう。もし誰かが、信仰をもって生きることに関して何事かを誰かに教えたり指図したりするとき、それを聞いている私たちクリスチャン皆は、それが果たして聖書の信仰に基づいて語られているのかどうかを自分自身で判断することができます。よく分からないときには、「失礼ですが、それは聖書の何ページに書いてありますか?」とその人に質問しましょう。神の御心にかなっていると分かったならば、その人に聴き従うことができます。聖書から来た教えではなく、主イエスを信じる信仰から来た教えでもないならば、決して聞き従ってはなりません。また、「それらしいことを言うだけで自分では実行しない」ということと、「重い荷物を人々に持ち運ばせるが、自分では指一本も動かさない」ことについては、大きな疑問が残ります。そもそも、『神が私たちに背負いきれないほどの重く苦しい荷物を運ばせる』などと聖書の何ページに書いてあったでしょうか。いいえ、どこにも書いてあるはずがありません。そんなブラック企業の悪徳雇用主のような神ではないからです。私たちの神は、私たちが支えなければ倒れてしまう神ではなく、私たちが担いで運ばなければ動けない神でもないからです。神を侮ってはなりません(イザヤ1:11,46:1-2,55:1-2。その人々の語る言葉も行いも、両方共が間違っていることも大いに有り得ます。主イエスご自身が、別のときに、「あなたがたは私の語った言葉によってすでに清くされている。わたしにつながっていなさい。もし人が私につながっており、また私がその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」と、はっきりと保証なさったからです。その人々が語りつづけている言葉と理屈は、もしかしたら主イエスから出てきた、また自分自身と人々を主イエスへと向かわせる言葉ではないかも知れないからです。「重い荷物を人々に持ち運ばせて自分では指一本も動かさない」ことも、そうした福音の中身に反しています。主イエスからの、主イエスご自身の荷物であるならば、それは軽い荷物であり、安らぎをもたらすはずの喜びと慰めにあふれる荷物であるはずだからです。もし重くて苦しすぎるのなら、その荷物はどこか別のところから来た別の荷物であるかも知れません。なぜなら、ご自身がこうおっしゃいました;「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(ヨハネ15:3-4,マタイ11:28-30ちょうど良かった もうすぐ定期総会です。総会前の数週間と当日の長老と執事の選挙のとき、このことを思い起こしていてください。一年前の総会の選挙の際にどんなことが起こったのかも、はっきりと思い出しておきましょう。救い主イエスの「魂に休みを与える。荷は軽い」というこの証言(マタイ11:28-30に反することを、私たちはしてはいけません。神の恵みを無にしてはならないからです。ですから、(1)重すぎる荷物を自分自身で背負ってはいけません。また、(2)他の兄弟姉妹に「この人には重すぎるだろう。担がせると苦しくて困るかも知れない」と分かっていながら、なお荷物を無理矢理に背負わせてはいけません。その人のためにならず、教会のためにもならない上に、自分自身はとても悪いパリサイ人の仲間入りをしてしまうからです。私たちの千倍も万倍も神ご自身が生きて働いておられると分かっているならば、『ごく軽い荷物だけを、軽くて安らかだと分かって喜んでいる人にだけ』背負わせてあげましょう。もし、そうでないなら、神さまに対して申し訳ない。仲間たちにも自分自身にも大きな災いを招きます。そのようにして、もし仮に誰一人も荷物を担う者がいない場合にどうなるのか。神ご自身のものである教会なので、もちろん神ご自身が軽々といくらでも担ってくださいます。神が生きて働いておられるとはそのことです。
  4-12節。「経札(きょうふだ。新共同訳では、「聖句の入った小箱」。申命記6:8「あなたの手につけて、あなたの目の間に置いて覚えとし」,13:9」;聖書の言葉を書いたものを身につけておく道具。「教師。先生」などと呼ばれることはある程度は仕方のない場合もあります。けれど、きびしく戒められていることは覚えておきましょう。宴会やさまざまな席で「上座。上席」に座ることも同様です。そこには、「人様からよく見られたい。尊重されて特別扱いされたい」という欲望やウズウズする自尊心が働きます。神の御前にいることをうっかり忘れてしまわないように、自分自身の身と心をよくよく慎んでいなければなりません。ときどきお互い同士で、「このご立派な偉い先生のとなりに私なんかが座らされて、なんだか」とモジモジしあったり。ええ? 「畏れ多くて」とかしこみ崇めていい相手は、ただただ神さまだけ。先生はただ独り、私たちはみな兄弟同士。尊ばれるべき天にいます御父もただ独り、教師もただ独りキリストだからです。そのことを差し置いてしまいやすい性分を抱える私たちだからです。12節、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」。そのとおり。
  少し省略して、23-28節。「はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。・・・・・・あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである」。23節で「律法の中で最も重要な公平とあわれみと忠実とを見逃している」。公平とあわれみと忠実とは『隣人を愛すること』と『主を愛すること』の中身を言い直しています。神の御前での公正と憐れみであり、ただただ神に対する忠実です。神から憐れんでいただいた私たちなので、同じく隣人に対しても公正と憐れみとを差し出しつづけねばならない。なにより、主なる神への忠実が私たちにそれを促す。また、隣人を愛し、神への忠実に生きるはずの私たちが制度やしきたりや格式や体裁を取り繕うことばかりに終始し、人に見せることばかりに気をとられ、白く塗った墓に成り下がっているではないか。白い墓そのものではないか。それは、私たち自身のことです。もちろん私たちの教派団体を含めて 今日のキリスト教会の衰退の理由は、なにより、神さまから憐れみを惜しみなく注がれつづけてきたことを忘れてしまったからかも知れません。神への忠実に生きるはずの私たちであることを、そのためすっかり見落としてきてしまったからかも知れません。もう25年も前のことですが、一人の親しい先輩が教会の機関誌に素敵な文章を残してくれました、「わが日本基督教会も今や気息奄々(きそくえんえん=息も絶え絶え)、この時代からはさびしく取り残された遺物のようです。あれも駄目、これも駄目と批判に明け暮れているうちに気づいてみると自らがやせ衰えていたというわけなのです。・・・・・・日本基督教会は、これまであまりにも自らを誇りすぎてきました。神学的にしっかりしている、教会的だ、告白的だというふうに。自画自賛ほど恥ずべきものはありません。傲慢、これほど厄介な罪はありません。罪の中の罪、罪の根であります。言うのもつらいことですが、日本基督教会はいま再起不能に近い状態にあります。しかし私たちはこのときこそ感謝すべきなのです。ようやく恵みの道が見えてきたのですから。『主がこれを負わせられるとき、ひとり座って黙しているがよい。おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ』、『いや治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか』(哀歌3:28-30,コリント手紙(2)12:9,リビングバイブル訳)」(説教「満ち足りるまでにはずかしめを受けよ」宇田達夫,「福音時報」19925月号)
  29-39節。数多くの預言者たちが主なる神のもとから遣わされつづけ、ある者は殺され、十字架につけられ、ある者は会堂でむち打たれ、町から町へと迫害され、主に仕える多くの働き人たちの血が流されました。「それらの血の報いがことごとく私たち自身に及ぶ。みな今の時代に及ぶ」と主イエスがおっしゃいます。それらの中でとくに二人の人間の死が指摘されています。アダムとエバの息子「アベル」のこと。また、バラキヤの子「ザカリヤ」のこと。(1)まず創世記4章。アダムとエバには二人の息子たちがいました。カインとアベルです。兄さんのカインの献げものは神に顧みられませんでした。神に対して腹を立てたカインは、妬んで弟のアベルを殺してしまいました。カインの献げものがなぜ神に顧みられなかったのかは、後から分かります。神さまに対してとてもとても腹を立てて、怒りにゆがんだ顔を地面に伏せたときに。「どうして顔を伏せるのか。どうして怒るのか。もし自分が正しいなら顔をあげたらどうだ。罪が門口でお前を慕い求め、待ち伏せしているぞ。お前はその罪を支配しなければならないが、できるのか? 無理だろう」(創世記4:6-7参照)と神から諫められました。それは感謝の献げものではなく、「人に見せて自慢するための献げもの」でしたし、神をあなどり、人を見下すための傲慢の献げものでした。「なんということをしたのか」と神から問い正されて、「わたしの罰は重くて負いきれません」と人殺しのカインは嘆きます。憐れみと保護のしるしを刻まれて、カインは主の前を去りました。私たち皆は、この憐れなカインの末裔です。神の憐れみなしには生き延びることなど誰にもできません。(2)歴代志下24:20-22。この「ザカリヤ」は祭司エホヤダの子であったようです。彼は、主がお告げになったとおりに主の言葉を告げ知らせました。「神はこう仰せられる、『あなたがたが主の戒めを犯して、災を招くのはどういうわけであるか。あなたがたが主を捨てたために、主もあなたがたを捨てられたのである』」と。そのために人々は主の神殿の庭で彼を撃ち殺しました。

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 そして、十字架のときがすでに目と鼻の先に近づいています。あとほんの数日のうちに救い主イエスご自身の血が流され、もちろんその尊い血が、この私たち一人一人にまで及んでいます。35-39節、「地上に流された義人の血の報いが、ことごとくあなたがたに及ぶであろう。よく言っておく。これらのことの報いは、みな今の時代に及ぶであろう。ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」。神の民、新しくされたイスラエルの人々よ。また、生ける神が住んでくださる神の神殿、神ご自身のものである祈りの家とされた新しいエルサレムよ(=それは、神を信じて生きる私たちすべてのクリスチャンのことです)。よくお聞きください。告げられたとおりです。私たちも預言者たちを殺し、主のもとから遣わされた働き人たちを石で打ち殺してきた者たちの仲間です。めんどりがそのヒナを翼の下に集めるように、神は私たちと私たちの子供らを何度も何度も集めようとなさいました。けれど先祖と私たち一人一人は、神の招きに応じようとしませんでした。にもかかわらず、私たち自身と、その家族と、「上田教会という名前の神の祈りの家」も、神の祈りの家すべても、神によって見捨てられたりは決してしません。聖書は語りつづけます。神の独り子イエス・キリスト。その十字架の死と復活による救いと。それは神さまから私たちへの愛の出来事だった、と聖書は語ります。「キリストは罪人たちのために、ただ1回苦しまれた。ただしい方が、ただしくない者たちのために苦しまれた。あなたがたを神のもとへ導くために」(ペトロ(1)3:18)。あの苦しみは罪人たちのためでした。罪人たちとは誰のことでしょうか? ただしい方がただしくない者たちのために苦しまれた。ただしくない者たちとは誰のことでしょう? あなたがたを神のもとへと導くために。あなたがたとは誰と誰と誰のことでしょうか? 主イエスはあざけり笑われました。「十字架から降りて、自分を救ってみろ。他人は救ったのに、自分は救えないのか。今すぐ、十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。けれど兄弟たち。私たちの主イエスは、『十字架から降りない』ことを決断なさいました。『自分で自分を救うことを決してしない』と腹をくくったのです。神であられる救い主の尊い血潮が流され、その血がたしかに私たちにまで及び、その血によって私たちは罪から救い出されたのです(ヘブル9:11-28。そのことを、あなたも信じられますか? あの時、神様ご自身の面子も体裁も丸つぶれでした。神さまご自身の品格も格式も尊厳も、すっかり泥にまみれていました。主の名によってこられたお独りの方によって、泥にまみれてメンツも格式も体裁も投げ捨ててくださった主イエスによって、かえって他のどこにもない格別な祝福がもたらされました。その代わりに、偽善者のための呪いと不幸せが、私たちのもとから運び去られつづけます。なんという幸いでしょう。