2015年8月23日日曜日

8/23「神ご自身の義か。私たちそれぞれの義か」~幸いである理由2~マタイ5:1-10

                                         みことば/2015,8,23(主日礼拝)  21
◎礼拝説教 マタイ福音書 5:1-10                   日本キリスト教会 上田教会

『神ご自身の義か。私たちそれぞれの義か』
~幸いである理由.2~
         牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)
                        (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
                                                           (マタイ福音書 5:1-10)

3-10節、「幸いである。幸いである、幸いである」と繰り返されます。けれどもちろん、これは一般的な意味での幸福論ではなく、こうすれば幸いになれるという教訓話でもなく、『他のどこにもない格別な幸いを差し出してくださる、格別な神さまがおられます。あなたも、この神さまから幸いを受け取ったらいかがですか』というお誘いであり、勧めです。しかも悪質なサギの類いとも無縁で、しつこく勧誘されることも一個数千万円のしょうもない壺を売りつけられることもありません。びっくりです。さて、幸いというこの格別な贈り物もまた、送り手と受け手との相互のやり取りの中で手渡され、受け取られ、そこでようやくその人のための贈り物となります。何度も申し上げていますが、例えば、「この素敵なボールペンをあなたにあげますよ」「はい、いただきます。ありがとう」と受け取って初めて、その贈り物は成立します。また、宅急便のように受け取られます。「お届けにあがりましたが留守でした。ご連絡ください。○○○運輸」などと不在者通知が郵便受けに何枚も何枚も溜まっている。それだけでは、届け物を受け取ったことになりません。気がついて電話し、届けてもらい、ダンボール箱のフタを開け、「◇○君からのお中元か。うおお、こりゃあ嬉しい」と喜んで初めて、そこでようやく、中身が相手にちゃんと届いたことになります。実は、この『幸いである』という神さまからの贈り物。相手を選んでいません。無差別に、何の区別も分け隔てもなく条件や資格を問うことも一切なく 手当たり次第に贈り物が送られつづけています。例えばちょうど、種をまく人が種を蒔いたときのように。道端にも良い土地にも、土の薄い石地にも、茨の中にも。けれど、ぜひ芽を出させてあげたいと心から願って(マタイ福音書13:3-23参照)。ほとんどの人たちは、自分にその贈り物が送られてきていることに気づきもしません。「お届けにあがりましたが留守でした。ご連絡ください」「お届けにあがりましたが留守でした。ご連絡」「お届けに……」と不在通知の伝票が郵便受けにうずたかく積もって、床の上にまであふれて迷惑なゴミの山にされつづけています。ですからこの3-10節は、不在者通知の伝票に気づいて運送会社に電話した、幸いな人々のリストです。「心の貧しい人たち。悲しんでいる人たち」につづいて、今日の名簿には「柔和な人たち」「義に飢え渇く人たち」の名が記されています。
  あまりに奇妙な宛名リストです。「柔和な人。義に飢え渇く人。憐れみ深い人。心の清い人。平和を造り出す人。義のために迫害されてきた人」など、その該当者たちを、私たちはなかなか探し出すことができませんでした。しかも、さらに奇妙なことには、『他のどこにもない格別な幸いを神さまから受け取った』私たち自身の一人一人の中身です。自分を振り返り、胸に手を当てて、つくづくと考えてみました。先週読んだところですが、「心の貧しい人」とは、施しと憐れみを求めて生きる乞食のことらしいです。林勵三牧師が小説教集(『マタイ福音書小説教集』一麦社,該当箇所)の中で紹介していました。心の貧しさをある日本語訳は「乞食」と翻訳していて、乞食の心得と在り方、ああそのとおりだと思ったと。さてこの自分自身は、神に対して乞食のようになったか、自分のどうしようもない貧しさを隠さず、取り繕うこともせず、その貧しく低い場所から憐れみを求め、「罪人の私を憐れんでください。憐れんでください、憐れんでください」(ルカ18:13,マルコ10:47と神さまからの施しを必死に切に請い求めただろうか。果たして、この私は柔和だろうか? 「自分は正しい、正しい。ちゃんとやってきた」と我を張りつづけることではなく、それとまったく正反対に、神さまご自身の義に飢え乾いて、それをこそ本気で探し求め、そのために冷や飯を喰い、迫害されただろうか。憐れみ深かっただろうか。この私は、人の二倍も三倍も格別に心が清いだろうか。平和を造り出してきたか。いいえ、他の人たちのことはよく存じ上げませんけれど、少なくともこの私は、決してそうではありませんでした。この3-10節の宛名リストにまったく該当しないのです。該当しないままに、どうしたわけか贈り物を届けられ、受け取ってしまいました。それでもなお、私たちは憐れみを受け、神ご自身のお働きの只中に招き入れられ、その恵みのご支配の中を生きる者とされました。びっくり驚きです。おかしい、奇妙だ。おかしい、奇妙だ。しかも聖書自身が断言していました;「柔和な人は一人もいない。皆が皆、怒りの子であり、神と隣人とを憎む傾向がある」と(ローマ手紙3:21-28,創世記8:23-参照)
  私たちだけではなく、ただ一人の例外もなく、他すべての人間が3-10節の宛名リストに該当しません(ローマ手紙3:21-27)。元々柔和だった者はただの一人もいなかった。そうですね。初めには、私たちの誰一人として神の義を知らず、それを求めることも重んじることも知らなかった。ローマ手紙10:1-4がはっきりと証言しました;「兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである」。互いに相容れない、まったく正反対の二種類の義が指し示されています。神ご自身の義、そしてもう一方には、「私が私が。それなのにあの人は、この人は」と言い立てて止まなかった私たち人間のそれぞれの義。国家や民族の義、個人個人の義、そして個々のキリスト教会の義、私たちの教会の義、一人一人のクリスチャンの義です。むしろ神ご自身の義をすっかり忘れて、私たちはそれぞれの義を立てようとしつづけています。この814日に、戦後70年の「安倍談話」が閣議決定されて公表されました。この、私たちが選挙で選んでしまった、私たちの内閣総理大臣こそが、自分の義を立てようとし、自分の義にしがみつこうとするこの私たち自身の生臭さや醜さをはっきりと代弁し、私たちの狡さと自己正当化を鏡のように映し出しています。内閣総理大臣安倍晋三は、私たち自身です。「植民地支配」「侵略戦争」「人権蹂躙」「女性たちや子供たちの尊厳、名誉が深く傷つけられた」などと正しく美しい言葉をいくら並べ立てても、それは何の意味も持ちません。「深く頭をたれ、痛惜の念を表す」とか、「言葉を失い、ただただ断腸の念を禁じえない」とか、「痛切な反省」などと語りながら、自分自身の心も腸もほんの少しも痛くないからです。「ヨーロッパ諸国やロシアやどこかヨソの国がアジア諸国を侵略し、植民地支配し、人権やその尊厳を踏みにじった。そういう侵略者に抵抗して日本は日露戦争を雄々しく戦った。アジア諸国はその姿を見て励まされ、勇気づけられた」などとあの彼は語ろうとしていました。そういう美しくご立派な話ではなくて この日本という国が現に確かに侵略し、アジア諸国と沖縄を植民地支配したし、この日本という国が今なお女性や子供や他の民族や、それどころか同胞である多くの日本人の人権やその尊厳をさえ踏みにじってきた」と、本気になって告白せねばなりませんでした。兄弟姉妹たち。私たちの国は、どこかの悪者のためにひどい目にあった被害者や犠牲者ではなく、豊臣秀吉の1592年からの朝鮮出兵も、1894年からの日清戦争も1904年からの日露戦争も1931年からの日中戦争も1941年からのアジア太平洋戦争も皆すべて日本の領土を広げ、ヨソの国の資源を奪おうとする侵略戦争でした。当時は琉球王国と呼ばれ、元々他の国だった沖縄を1609年以降にまず薩摩藩が、続いて明治政府が日本の領土としたのも「向こうからぜひそうして欲しい」と頼まれたわけでもなく、力づくでわが国の領土とし、植民地としたのです。先祖と私たちは当の侵略者自身であり、加害者であり、人権と尊厳を踏みにじりつづける張本人です。今も現に沖縄とその人々を植民地扱いしつづけています。歴史を学ぶとはそのことです。その歴史からほんの少しも学ぼうとしないからこそ、再び70年前とまったく同じことを私たちの日本国はいま直ちに繰り返そうとしています。しかも 私たちのあの内閣総理大臣の醜さと狡さは、戦中戦後の日本のキリスト教会の、この私たち自身の醜さと狡さそのものです。――ああ、そうだったのか 道理で、私たちはなかなか柔和になれず、いつまで待っても、心が清くも憐れみ深くもなりませんでした。「幸いである」と太鼓判を押していただいていますのに、けれどその実態はあまりに「不幸せ」でありつづけます。私たちは、先輩たちから何を聞いてきたでしょうか。この国のキリスト教会はどんな談話を残したでしょう。「だって仕方がない、仕方がない」ともっぱら被害者の側面ばかりを物語ってきたでしょうか。それとも、「皇運を扶翼する(=こううん・ふよく。天皇陛下をお助けし、陛下のものである国を強く豊かにするため励むこと)ため、わが国とアジア諸国の平和貢献のため、大東亜共栄圏建設のため、むしろ率先して、植民地支配や侵略や、女性や子供や他の民族や、同胞である多くの日本人の人権やその尊厳をさえ踏みにじることに、私たちのキリスト教会は積極的に加担し、晴れ晴れとして国家のための旗を振り、胸を張って協力さえしつづけた」と正直に語られたでしょうか。
 しかも兄弟たち。二種類の、互いに相容れない、まったく正反対の義があることを、私たちはずいぶん長い間忘れつづけました。神さまご自身の義。そして、私たち人間それぞれの義と。けれど私たちクリスチャンは、キリストの教会は、主イエスご自身から、何と指図されていたのでしょうか。どういう弁えで毎日を暮らすようにと仰せつかってきたでしょうか。「何を食べようか飲もうか着ようか、月々の生活費、老後の蓄え他もろもろ。あるいは教会も右肩下がりでジリ貧で、人数も経済も落ち込み、子供も若者もいなくなって年寄りばかりになってしまった、真っ暗闇でどうしようか。いいや、そんな心配は要らない。これらのものは皆、異邦人に負けず劣らずあなたがたが切に求めているとよく知っている。天の父は、これらのものがことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。たとえそうであるとしてもなお それなら、なおのこと まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられる」(マタイ6:31-33参照)。添えて与えられる約束も御父の御心も、この私共は、すっかり忘れていました。「なによりまず神の国と神の義。一にも二にも、神の国と神の義。三にも四にも五にも六にも神の国と神の義」とよくよく念を押されていましたのに、そっちのけにして他のことばかりを求め、思い煩いつづけています。そのおかげで、その結果として、添えて与えられるはずのすべて一切を私たちはことごとく失いつつあります。私たち自身の没落と失望と死の陰の理由はここにあります。なんということでしょう。けれど、ついにとうとう思い出しました。あの3-10節の、この世のどこにもないほどの、あまりに奇妙で稀有な該当者リストに該当するただお独りのお方を。私たちの救い主イエス・キリストを。乞食のように貧しくなってくださった方がおられました。私たちの貧しさと、滅びてしまうほかない悲惨さのために悲しみ、深く憐れんでくださり、身を屈めて私たちと同じくなってくださった、それどころかご自分を虚しくなさり、十字架の死にいたるまで御父に従順であってくださった、あの柔和なお独りの方を。羊のように物言わず、ただただほふり場に引かれていき、生命を取られてくださったお独りの方が確かにおられますことを。ご自分の平和と幸いを私たちに差し出し、残していってくださり、「あなたがたに平和と幸いがあるように」と、少しも平和ではなかった不幸せだった弟子たちの只中に立って、てのひらと脇腹の傷跡を見せてくださり、「それでもまだまだ少しも平和ではなく幸いにもなれないのか。それではあなたの手を私の脇腹にいれてかき回してみよ。あなたの手を私の手のひらの釘跡に入れて確かめてみなさい。信じないあなたでなく、信じるあなたになりなさい」と疑い深いトマスと私たちに詰め寄ってくださったお独りの方が確かにおられますことを(イザヤ書53:1-12,ピリピ手紙2:5-11,ヨハネ福音書20:24-29参照)。この3-10節のリストを読み上げながら、私たちは何を思い描き、いったい誰を想定していたでしょうか。柔和で、神の義に飢え渇き、神ご自身の義のために迫害され、命さえ取られ、心の清い、平和を造り出し、建てあげ、差し出した、そのようないったいどんな理想的な人間たちを思い浮かべることができたでしょうか。塩狩峠のあの青年ではなく、八重の桜でも華岡青洲の妻でもなくマザーテレサでもキング牧師でもネルソンマンデラでさえなく、あなた自身や、信仰歴70年、8090年のご立派な大先輩のことでもさらさらなく、周囲の素敵そうに見える理想的なクリスチャンの誰彼のことでもなく。しかも少しも柔和でなかった、心も手も清くも潔くもなかった、憐れみ深くもなかったどうしようもない私たちに、ただお独りの該当者イエス・キリストが、その幸いと平和を贈り与えてくださったことを思い起こし、知り、魂に深々と刻み込むまでは、それまでは、私たちはいつまでたっても不幸せなままです。いつまでたっても、ちっとも平和ではありえない。いいえ、それどころか、はっきりと断言されていたとおりに、すべての人の中で最も哀れむべき存在でありつづける他ないでしょう(コリント手紙(1)15:19参照)。なぜ、私たちすべてのクリスチャンがただ一人の例外もなく皆、全員、幸いでありうるのか。教えられ、はっきりと習い覚えてきたとおりに、キリストが教会の頭であり、この私共一人一人がその体の肢々と現に確かにされているからではありませんか。そうでありますのに、一体なぜ、この私たちは度々、不幸せなのか。頭であるはずのキリストをそっちのけにし続けているからではありませんか。大勢で集まって、ワイワイガヤガヤ賑やかに盛り上がっても、「えいえいおう」と掛け声かけあって一致団結しても、「立派な教会であり、素敵な私たちだ」と胸を張って見せても、その結果、再び高度経済成長期のように右肩上がりになって若者も子供たちも教会にドッと押し寄せても、ありえないほど商売繁盛したとしても、それで私たちは幸せにも平和にもなれるはずがありません。だって、すでにいただいているからです。彼は仰いました。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている」。また、こう約束なさいました、 「あなたがたは今信じているのか。見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ福音書14:26-28,16:31-33。まだ間に合います。キリストの幸いの内に沈め入れられた私たちであり、その体の肢々であるわたしたちだ、本当にそうだと思い起こせるなら。なぜなら平和の柔和な王、救い主イエスが約束されていたとおりに、子供のロバに乗ってエルサレムの城門をくぐったからです(マタイ福音書21:1-10,ゼカリヤ9:9)。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」と、この只お独りの王さま、救い主イエスが私たちをさえ招き入れてくださったからです。「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ福音書11:27-30現に、主イエスの軛を負い、主イエスに学びつづけている私たちであるからです。それゆえ、私たちもまた彼のように、柔和で心のへりくだった者へと日毎に、一日また一日と作り替えられてゆく。柔和で寛大な憐れみ深い取り扱いを受けるうちに、怒りの子だった私たちは、救い主イエスの柔和さとへりくだりに触れ、それらをだんだんと習い覚え、へりくだった柔和な人となっていく。これが神さまからの約束です。つまり、順序が逆でした。ただ恵みと憐れみによって神のご支配の只中に据え置かれ、慰められ、分不相応に 地を受け継ぐ者たちとされ、神の義に満ち足りるようにさせられ、神ご自身をはっきりと見させられ、ただ恵みと憐れみによって神の子たる身分を授けられた。そんなにしていただく資格も道理もほんのカケラもなかったのに そうした幸いの中に据え置かれて、その結果として、私たちは3-10節に言い表されるような人々となっていく。だんだんと少しずつ。格別に幸いな人たちよ。キリストご自身の幸いを贈り与えられ、「お届けにあがりましたが留守でした。ご連絡ください」という不在通知の伝票に気づき、電話して贈り物を届けていただいて、「あらまあ」と喜びにあふれた幸いな人たちよ。キリストご自身の幸いと平和を受け継いだ人々よ。これでようやく私たちは、自分たち自身に贈り与えられ、委ねられた、法外で分不相応な幸いと平和を、存分に、満ち足りるまで、喜び祝うことができます。喜び喜べ、すでに十分すぎる報いを私たちは受け取っています。