2015年8月30日日曜日

8/30「平和を造り出す人たち」~幸いである理由3~マタイ5:7-12,コリント手紙(2)5:18-21

    みことば/2015,8.30(主日礼拝) 日本キリスト教会 上田教会  22

◎礼拝説教 マタイ福音書 5:7-12,コリント手紙(2) 5:18-21 

『平和を造り出す人たちは』 
~幸いである理由.3~
               牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)
                       ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC



  5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
                                                    (マタイ福音書 3:13-17)

5:18 神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。19 すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。20 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。21 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。                                          (コリント手紙(2) 5:18-21)


7-12節。「平和を造り出す人たちは幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」。まず真っ先に白状しておかねばならないことは、先祖とこの私たちは、つまりキリストの教会は、平和を造り出すことにことごとく失敗し、むしろ平和を破壊し続けてきたということです。「怒りの子であり、平和の破壊者である者たちこそが、どうしたわけか神の子と呼ばれる者たちとされてしまった」「神の子にされたのに、それでもなお平和を壊しつづけている」。この奇妙でアベコベで、心痛む事実こそがキリスト教の歴史であり、私たち自身の過去と現状です。例えば中世の時代には、異端審問と魔女狩りがキリスト教会の権威と名のもとに盛んに行われ、私たちキリスト教会はおびただしい数の無垢な人々の命と名誉を奪い、彼らを闇の中に葬りつづけました。また例えば、造船と航海の技術が飛躍的に進歩して世界中を渡り歩くことができるようになった大航海時代に、貿易商人たちと結託して、奴隷を売り買いしつづけて莫大な富を稼いだのは私たちキリスト教会の仕業です。先住民族から土地と財産を搾取し、黒人奴隷たちを道具やモノとして使い捨てにしつづけた人々は皆クリスチャンでした。アメリカ南北戦争終結直前から活動を活発化させた白人至上主義秘密結社、KKKのメンバーは昼日中、表通りで他の人々が見ている前では善良なクリスチャンです。家の中や自分の家の敷地内で、あるいは薄暗がりの中や、白い覆面を被り白いマントに身を隠している間は恐ろしい獣でありつづけました。彼らの活動が排除された後しばらくして第二のKKKが起こりました。これからも第三、第四、第五のKKKの活動とつづくでしょう。毎週日曜日に教会で美しく清らかな教えに耳を傾けつづけ、家に帰ると、彼らはしつけと称して黒人奴隷たちをムチ打ち、殴ったり蹴ったりしました。それでも心はほんの少しも痛みませんでした。美しく清らかな教えと、暴力や差別や非人道的な虐待行為と、それらはなんの不都合もなく両立しました。ほんの60年ほど前、ようやく黒人自身からの抵抗運動がアメリカ合衆国で起こり()、やがて南アフリカ共和国でも続き()、人間を奴隷として売り買いしたり隔離して閉じ込めることが悪いとようやく公けに認められました。KKKを語るならば、私たちはこの日本の国の身分差別についても告白せねばなりません。被差別部落の起源については諸説ありますが、中世あるいは古代以前からあったと見られます。動物の肉や毛皮を扱う人々を汚れた仕事をするとして差別した宗教的側面があり、移り住んできた外国人を差別した歴史的な経緯もあります。「豊臣秀吉や徳川家康など政治的指導者が民衆を支配しやすいように差別される階級をわざと作った」という通説が長く信じられてきましたが、それは間違いだったようです。なぜなら九州や中国、四国、近畿地方に被差別部落が集中し、支配者の行政府周辺にはかえってほとんどそういう部落が存在しないからです。むしろ権力者からの差別操作であるよりも、民衆自身が分け隔てをし、自分たちと少し違う人々を軽蔑したり排除したり、憎んだりするようです。明治4年に身分制度が公けに廃止された後も、今日に至るまで結婚や就職などにも大きな影響を与える差別・排除の実態は根深く残ります。すると、それは日本に住むアジア諸国からの移住者を軽蔑し、排除し、憎む現代の「ヘイト・スピーチ。在日外国人の排斥運動」()とよく似た点があります。小中学校、高校、あるいは大人の職場でのいじめ、介護や福祉の現場、精神科病院の内部などでの陰湿化・悪質化する虐待とも通じ合います。恥ずかしいことですし、恐ろしいことです。大人たちがそれをしつづけているので、子供や若者たちも真似をします。それは、少しも幸いではない心の貧しさであり悲惨さです。
 また例えば第二次大戦後にも、私たちの国はアメリカ合衆国と結託し、自分たちの利益を増し加えるため、もっぱら利権と富をむさぼるために、多くの戦争と戦争援助をし、それで金儲けをしつづけました。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イランイラク戦争、中東戦争。現代イスラエル国のための武器と経済の援助。敵対するテロリストたちとの泥沼の戦い。キリスト教会はそこにいつもいて、政府や資本家たちと一緒になって大きな役割を担ってきました。それらは宗教戦争でもあり、むしろ実態としては金儲けと利権のための戦争でありつづけました。自分自身を振り返り、胸に手を当てて、つくづくと考えてみました。果たして、この私は柔和だろうか? 神さまご自身の義に飢え乾いて、そのために迫害されただろうか。憐れみ深かっただろうか。この私は、人の二倍も三倍も格別に心が清いだろうか。平和を造り出してきたか。いいえ、他の人たちのことはよく存じ上げませんけれど、少なくともこの私は、決してそうではありませんでした。3-10節の宛名リストに該当しないのです。該当しないままに、どうしたわけか贈り物を届けられ、受け取ってしまいました。それでもなお、私たちは憐れみを受け、神ご自身のお働きの只中に招き入れられ、その恵みのご支配の中を生きる者とされました。驚きです。すべてを、すっかりお話しましょう。神さまがこの世界とすべての生き物たちをお造りになったとき、世界は平和と喜びに満ちていました。「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである」(創世記1:31-2:3神さまご自身の真実さと慈しみ深さに信頼し、その御心になかって生きようとするところに『平和』の生命と意味がありました。やがて人間は神に背き、自分たちの正しさに執着し、それを押し立てようとしました。神に背き、自分たちの正しさにしがみつこうとすることが、『罪』の始まりです。創世記3章に始まった神への反逆は、雪だるまを転がすようにどんどんどんどん大きくなっていきました。やがて地上に罪と悪がはびこり、人が心に悪いことばかりを思い図るようになったのを見て、神さまは後悔なさいました。地上の生命を一掃し、滅ぼし尽くし、ゼロからの再出発をと。それがノアの箱舟事件です(創世記6:1-9:17)。大洪水の後、箱舟から出た生き物たちが最初にしたことは神さまへの礼拝でした。そこで、生き残ったノアと家族とすべての生き物たちが神さまから聞いた言葉は驚くべき内容でした。「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。地のある限り、種まきの時も、刈入れの時も、暑さ寒さも、夏冬も、昼も夜もやむことはないであろう」(創世記8:21-22)。人が心に思い図ることは幼い時から悪い。けれども、と。地上の悪と罪深さを一掃し、滅ぼし尽くし、ゼロからの再出発をという『やりなおし計画』は大きく修正されました。生き残ったノアたちに向かって、「人が心に思い図ることは幼い時から悪い。けれども」。それは人の罪をゆるして救うという神さまからの憐れみの救いであり、その宣言でした。罪人を憐れみ、その罪をゆるし、罪から救い出す。
  けれど、その救いと祝福のうちにすべての生き物たちを招き入れるための道具とされた神の民は、この私たち自身は、心があまりに頑固でした。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(創世記12:2-3あなたは祝福の基となる。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される。誰の目にも明らかだったはずでした。アブラハムとサラと、その親戚一同のためだけの祝福ではなく、ただ人間様のためだけの祝福でもなく、鳥も獣も草花もバッタもアリもミミズなど地上のすべてのやからはあなたによって祝福に入る。そのことを願って、あなたがたを選び出した。けれど選び出された神の民イスラエルは、直ちに自惚れて、図に乗ってしまいました。選ばれた少数精鋭のエリート集団だと。私たちのための神さまであり、私たちのための祝福であると。大間違いです。神の民イスラエルは心があまりに頑固で、了見が狭くなりました。たびたび自惚れました。その了見の狭い、思い上がってしまった頑固者の代表選手は、預言者ヨナです。「悪の都ニネベに出かけていって、彼らの滅びを宣告せよ」と命じられ、どうしたわけか預言者ヨナは神の命令に逆らって逃げ出します。捕まえられ、ようやく観念し、ニネベの町に滅びを告げました。すると、王さまも役人も、人も獣もみな悔い改めた。神は彼らの罪をゆるした。ヨナはここで、神の命令に背いて逃げ出した理由を告白する、「こうなることが分かっていました。神が悪人どもをゆるすだろうと。それが嫌だったので逃げました」。さすが預言者、ヨナは神の本質を的確に見抜いていました。「わたしは、急いでタルシシに逃れようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。それが嫌で嫌で、我慢なりませんでしたァ(ヨナ書4:2参照)。神さまはヨナを諭します。「あなたの怒るのは良いことか、それは正しいだろうか。あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」(ヨナ書4:10-11参照)。神さまが12万人あまりの人と多くの家畜を惜しむ。しかもそれは、左右を弁えない人々だと仰る。左右を弁えないなら、前後ろも何もかも弁えない、あまりに迂闊で粗忽で粗末な人々です。にもかかわらず、滅びるままに捨て置くのに忍びない。皆さん、どうぞ大喜びに喜んでください。こういう神さまであり、こういう救いの取り扱いです。本当のことです。
 救い主イエスの弟子たちも、かなり心が頑固で、そのため救い主イエスを信じることも、その救いを受け取ることも、なかなかできませんでした。そうか、元々は怒りの子であり、平和を造り出すどころがその破壊者でありつづけた人々が、けれどやがてどうやって平和を造り出す者たちへと変えられていったのか。そのことを語ろうとしていました。十字架におかかりになる前の晩、主イエスは食事の席で弟子たちに仰いました、「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている」(ヨハネ福音書14:26-28。十字架上で殺され、墓に葬られ、その三日目に復活した主イエスは弟子たちのところにご自身の平和を携えて現れました。『平和』とは、誰もが皆、安らかであることです。つまならいことで目くじら立て合ったりイガミ合ったりせず、誰をも恐れたり恐れさせたりせず、人に対して恥じ入ることも恥じ入らせることもせず、互いに受け入れ合う広々とした場所です。けれど主イエスの弟子たちは、平和とは正反対の薄暗く狭苦しい場所で、小さくなってガタガタ震えていました。だからこそ主イエスはそこに現れ、「安かれ」とお命じになりました。安かれ、私があなたがたに与えておいたあの平和が、ちゃんとあるように。「そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスはまた彼らに言われた、『安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす』。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう』」(ヨハネ福音書20:19-23)
 さて、罪のゆるしの究極の作法と流儀を、教えられてきた通りにそのまま伝えましょう。コリント手紙(2)5:18-21です、「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」。最大のポイントは、19節、『その罪過の責任をこれに負わせることをしないで』という流儀。そのようにゆるされた私共は、『その罪過の責任をこれに負わせることをしないで』という同じ流儀と同じ作法で、神さまのゆるしを家族や隣人や友人たちに伝え、手渡してゆきます。『平和を造り出す幸いな者』の正体と中身は、主イエスのあの約束です。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」(ヨハネ福音書14:26-27。平和と幸いの中身は、それゆえ主イエスご自身です。乞食のように貧しくなってくださった方がおられます。私たちの貧しさと、滅びてしまうほかない悲惨さのために悲しみ、深く憐れんでくださり、身を屈めて私たちと同じくなってくださった、それどころかご自分を虚しくなさり、十字架の死にいたるまで御父に従順であってくださった、あの柔和なお独りの方を。羊のように物言わず、ただただほふり場に引かれていき、生命を取られてくださったお独りの方が確かにおられます。ご自分の平和と幸いを私たちに差し出し、残していってくださり、「あなたがたに平和と幸いがあるように」と、少しも平和ではなかった不幸せだった弟子たちの只中に立って、てのひらと脇腹の傷跡を見せてくださり、「それでもまだまだ少しも平和ではなく幸いにもなれないのか。それではあなたの手を私の脇腹にいれてかき回してみよ。あなたの手を私の手のひらの釘跡に入れて確かめてみなさい。信じないあなたでなく、信じるあなたになりなさい」と疑い深いトマスと私たちに詰め寄ってくださったお独りの方が確かにおられます(ヨハネ福音書20:24-29参照)。主イエスが造って、贈り与えてくださった『神を愛し尊び、隣人を自分自身のように愛し尊ぶこと』という主イエスの平和を、後生大事に抱えつづけ、そっくりそのまま手渡す。だから、ここはキリストの教会であり、私たちはクリスチャンです。つまり順序が逆でした。ただ恵みと憐れみによって神のご支配の只中に据え置かれ、慰められ、分不相応に 地を受け継ぐ者たちとされ、神の義に満ち足りるようにさせられ、神ご自身をはっきりと見させられ、ただ恵みと憐れみによって神の子たる身分を授けられた。そんなにしていただく資格も道理もほんのカケラもなかったのに、そうした幸いの中に据え置かれつづけて、その結果として、私たちは3-10節に言い表されるような人々となっていく。だんだんと少しずつ。格別に幸いな人たちよ。キリストご自身の幸いを贈り与えられ、「お届けにあがりましたが留守でした。ご連絡ください」という不在通知の伝票に気づき、電話して贈り物を届けていただいて、「あらまあ」と喜びにあふれた幸いな人たちよ。これでようやく私たちは、自分たち自身の法外で分不相応な幸いを、存分に、満ち足りるまで、喜び祝うことができます。喜び、喜べ。なぜなら主は近いからです。事々に、感謝をもって祈りと願いとをささげ、求めるところを神さまに申し上げましょう。もし、そうするならば、主イエスの平和と幸いが私共の心と思いとを、キリスト・イエスによって守ってくださるからです(ピリピ手紙4:4-7参照)

      ()アメリカ合衆国。公民権運動。1607年の入植当時から北アメリカでの奴隷制度は開始された。1964年に公民権法が制定されるまで、アフリカ系アメリカ人に対する公民権の適用と人種差別の解消を求める大衆運動は続いた。法制定後もなお、差別・偏見による暴行などの犯罪は増加・過激化している。インディアン、メキシコ系、アフリカ系、アジア系、アラブ系住民に対する根深い差別が残る。
       ()南アフリカ共和国。人種隔離(アパルトヘイト)政策とその撤廃を求める市民運動。1948年に差別・隔離政策が確定される以前から様々な差別立法が存在した。国内での根強い抵抗運動と共に、国連総会は1952年以降毎年非難決議を採択し、1973年に国際連合総会で採択された国際条約において「人道に対する罪」と糾弾され、1994年にようやく人種隔離政策は撤廃された。
       ()201438日の浦和のサッカー試合場で、「日本人以外はお断り」の横断幕が掲げられつづけたことを球団経営者も選手も監督も観客も、サッカーファンでなくたって、決して忘れてはならない。「観客なしの試合」という厳重処罰がチームに科せられたことも。国連規約人権委員会が日本政府に対してヘイトスピーチの禁止を求める勧告(20147)。国連人種差別撤廃委員会が日本政府に対してヘイトスピーチの法規制を促す勧告(同年8)。京都の朝鮮学校に対するヘイトスピーチをめぐる訴訟で、最高裁が「人種差別」と認定する決定を出す(同年12)。民主党などが人種差別撤廃施策推進法案を国会に提出し、法案審議が始まる見通しだった。が、「表現の自由」との兼ね合いなどで合意できず、与党は審議入りを見送るとした(2015827)。ああ。