2016年5月3日火曜日

5/1「生きるにも死ぬにも」ローマ14:1-10

                             みことば/2016,5,1(復活節第6主日の礼拝)  57
◎礼拝説教 ローマ人への手紙 14:1-10             日本キリスト教会 上田教会
『生きるにも死ぬにも』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

  14:1 信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。2 ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。3 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。4 他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。・・・・・・7 すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。8 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。9 なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。10 それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。        (ローマ手紙 14:1-10)





  ローマ手紙14:1-10 。この広い世界にはいろいろな人がいるというだけではなく、主イエスを信じるクリスチャンの中にも、いろいろな人がいます。つまり、考え方も感じ方も性分も自分とだいたい同じ人たちもいれば、自分とはずいぶん違う考え方や感じ方、かなり違う性分の人々もいる。1-3節に目を向けてください。同じ神さまを信じているはずの人たちの間で、互いにメクジラ立ててイガミ合い、波風が立とうとしています。言い張って、お互いに腹を立てたり、バカにしたり。そのために相手を軽蔑したり、裁いている。食べ物のことだけなら話は簡単ですが、それは一つの具体例にすぎなかった。「自分とは違う考え方や感じ方をするその人を、あなたは受け入れなさい」と命じられています。なぜなら神さまが、あなたを受け入れてくださっただけではなく、その人のことも負けず劣らずに受け入れておられるのだからと(3)。貧しく至らないその小さな人を侮り、軽んじるとき、神さまご自身が侮られ、神の教会そのものが軽んじられている。そのことに、あなたはどうして気づかないのか(コリント手紙(1)11:21-22,マタイ25:31-46,使徒9:4-5)と。
  この1-10節の中で最も大切な中心点は、4節です。「他人のしもべを裁くあなたは、いったい何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである」。他の信仰や他のさまざまな主義主張と比べて、私たちの信仰の最も大きな特徴の一つは、神さまを『主』と呼び、救い主イエスを『主イエス』と呼ぶことにあります。主という意味は、『主人』であるということです。神さまを自分たちの主人とし、私たちは、この神さまに従って生きる『召し使い』だという意味です。これがこの信仰の最重要の勘所ですので、よくよく覚えておきましょう。もしかしたら、神さまが主人で私たちは召し使いだなどと言われると、なんだか嫌な気がする人もいるかも知れませんね。「だって、クリスチャンは自由だって聞いてきましたよ。あれは、どうなるんですか。嘘だったんですか」と反論したくなるかも知れません。何と答えましょうか。
  いいえ。そもそも何の束縛ももたない、すっかり自由な人間など滅多にいません。例えば、あのフーテンの寅さんでさえ、自由に勝手気ままに生きているのかというとそうではありません。あの彼にさえ、従うべきルールがあり、守り通したい大切なものがあります。「自由になりたい。自由であるべきだ」と人は言います。「あまりに不自由で息がつまる」と嘆いたりもします。『自由』というとき、あなた自身は、どんな自由を思い浮かべるでしょうか。何をしてもいい、何をしなくてもいい。何の束縛も制限もなく、思い通りに好きなように振舞える自由でしょうか。無人島でただ独りで生きるような自由? それは淋しい。王様やボスのような自由? いいえ、王様やボスには、その国の国民や部下たちに対して大きな責任があります。「私は誰の言いなりにもならない。私は、私の思い通りに生きてゆく」という人々もいます。そういう人たちの生き方も尊重しなければなりません。けれど、少なくともそういう人たちは、自分が選んだこと、判断したこと、言ったことやしたことについて、一つ一つ自分自身で全部の責任をすっかり負わねばなりません。できますか? すると、残る最後の大問題は、私たちは責任を負いきれるのかどうかです。そうしようと思い、できると思えるなら、その人はそうすればいい。これが、自由についての根本問題です。他の人々はどうあれ、私たちは神さまを主とし、その神さまに従って生きることを選び取りました。それがクリスチャンであることの中身であり、実態です。標語のように言われつづけた『クリスチャンの自由』(ガラテヤ手紙5:1-15参照)は実は、『神さまへの服従』と表裏一体です。そうであるからこそ、神以外のナニモノにも支配されず、言いなりにされない。そうしたことを、伝道者自身も含めて多くのクリスチャンたちはあまり十分には習い覚えて来なかったかも知れません。今日のキリスト教会のはなはだしい世俗化、衰退、腐敗の根本原因は、ここにあるのかも知れません。神さまに委ね、神にこそ聞き従って生きる信仰だったはずですから。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人による。主に従って生きる召し使いである私たちは、たとえ倒れても立ち上がります。何度でも何度でも。つまずいても、手ひどく打ちのめされても、よろけても、私たちは再び足を踏みしめて立つと約束されています。なぜなら、主である神さまこそが私たちを立たせることが出来るからですし、必ずきっと立ち上がらせてあげようと決心してくださっているからです。これが、クリスチャンであることの希望であり確信です。
  9-10節。「なぜならキリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。それだのに、あなたは、なぜ兄弟を裁くのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神の裁きの座の前に立つのである」。キリストが死に、そして墓からよみがえったことを私たちは知っています。このお独りの方が、今も、私たちのために生きて働きつづけてくださっていることも、よくよく知らされています。すると私たちはもう、自分とはちょっと違う考え方ややり方をする人々を、そう簡単には批判できなくなりました。誰かを軽蔑したり、侮ったりすることも。なぜなら、その人を、神さまが受け入れてくださっているからです。なぜなら、あなたをさえ、神さまが受け入れてくださっているからです。なぜなら、救い主キリストこそがその人に対しても、あなたに対しても、主であるからです。
 さて、それなら、神を主として生きることは、嬉しいことでしょうか。それとも心苦しい嫌なことでしょうか。――嬉しくもあり、心苦しくもありますね。その両方です。なぜなら、私たちは四六時中、朝も昼も晩も釘を刺されつづけるからです。「あなたは、いったい何者であるのか。何様のつもりか?」(4)と。また、「イエスを主と仰いで生きるはずのあなたが、なぜ、そんなことを平気でするんですか? なぜ、それを口に出せるんですか。なぜ、そんな考えを心に抱き続けることができるのですか。なぜ、家族や兄弟や仲間たちに対して、あなたの隣人に対して、そんな態度をとれるんですか」(9-10)と。度々、心が痛みます。何をすべきなのか。何をしてはいけないのか。それは、すでに明らかです。何を語るべきなのか。何を口に出してはいけないのか。はっきりと教えられています。私たちの主である神さまがどんな方で、何を願っておられるのかを、すっかり知らされているからです。
  ヨハネ福音書15:12-17。「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである」。「しもべや召し使いなどとは、もう呼ばない」と主イエスが仰るのです。あなたがたを、これからは友だち扱いすると。なぜなら、必要なことは全部ちゃんと知らせてあるから。なんということでしょう。救い主イエスは、私たちをご自分の友だちとするために、その私たちのためにご自分の命を捨ててくださいました。そうやって、私たちは主イエスの友だちにしていただいたというのです。だから、互いに愛し合いなさい。しかも、簡単に「はいはい。分かりました」とは安請け合いできない仕方で、隣人を愛することが命じられました。いま読んだ12節;「わたしの戒めは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。つまり、自分の命を捨てて、自分の気持ちも欲望も願いも、腹の虫さえ後回しにして そこまでして愛し尊び合いなさい。絶対に無理だ、と言いたくなります。とうてい出来ない、逆立ちしても絶対に無理だと。できないけど、できるようになります。自分の命を捨てて隣人や兄弟を愛することはまだほんの少し先のことだとしても、まず手始めに、「自分の好き嫌いに目の色を変えて飛びつくのではなく、ほどほどのこととしておく。いったん、棚に上げておく。できれば5分か10分間くらい」。「したいからする。したくないからしない。気が進まないからしない。進むからする」というその時々の自分の気分をいったん脇に押し退けることなら、この私たちにも出来そうです。自分の命を捨てることの手始めは、まず、自分の好き嫌いや気分の言いなりにされないことから始まります。自分の腹の思いに言いなりに従うことを止めて、主にこそ従う(ピリピ3:18-19,ローマ16:17-18)。主が『せよ』と命じることをする。『してはいけない』と釘を刺されることはしない。たとえ、したくてしたくてウズウズしてもです。嫌で嫌で渋々でも、です。誰の心にも思い浮かべることのできなかった、まったく新しい自由が差し出されました。想定外の自由です。なぜなら、主イエスから直々に『掟』(ヨハネ15:12,ガラテヤ手紙5:1,13-15) を授けられている私たちですから。

  ローマ手紙14章を読んできました。その8節に、「生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」とはっきりと断言されています。生きるにしても死ぬにしてもとは、生まれて死ぬまでのすべての生活・すべての領域です。晴れ晴れして元気いっぱいのときにも、体調もすぐれずウツウツとして沈み込む日々にも、いつでもどんなときにも、「私たちは主のものなのである」。クリスチャンとされた私たちは、もはや私自身のものではない。わたしが私の主人なのではなく、他の誰彼が私の主人やボスなのでもなく、主イエスこそが私の主人であると。この後ごいっしょに歌う讃美歌Ⅱ-28番は、神さまを信じて生きることの幸いと心強さを十分に歌っています。まず1節、「闇を照らす主よ、み光を慕う。わが魂の縄目、解き放ちたまえ」。私の魂は罪人が捕らえられて荒縄でグルグル巻きにされて身動きできないように、罪と悲惨の荒縄でグルグル巻きにされて、身動きできません。自分でその太いロープを解くこともできず、他の誰に頼んでもそこから自由にしてもらうことができませんでした。「主よ、この荒縄を解いてください」と懇願しています。主なら、きっとそれができるし、してくださると期待をかけています。4節、「わが主に従い、たじろがず歩もう。主の清き山に、どうかこの私を導いていってください。主が導いて、手を引くように連れて行ってくださるので、だからこんな私であっても、必ずきっと辿り着ける」と確信しています。たじろがずに旅路を歩んでゆくことができる確かな根拠は、ここにあります。主への信頼です。歌は、祈りです。自分自身の魂に向けてこのように語りかけ、噛みしめ、味わっています。この格別な幸いと自由を、この祈りの人は、いつもの具体的な生活の中で受け取りました。自分自身を振り返る中で、ようやく分かりました。「そうだったのか」と。この人にも、心の空がどんより曇る日々があったのです。悪い思いや恐れが茨のように生え伸びてきて、自分の心がすっかり覆い尽されそうになる危機を、まざまざと思い起こしています。恨んだり妬んだり、いじけたり、ひがんだり怒ったり恐れたりして、鬱々と過ごした日々を思い起こしています。白雪姫の義母のように、朝も晩も心の休まるときがなくなっていた日々。それで、「ああ、そうだったのか」と気づいています。もしも、主にこそ従い、主のあとにこそ続いて歩こうとするならば、虫が好くとか好かないとか、気が合うとか合わないなどと気難しいことを言いはじめる暇もなく、誰とでもいっしょに歩いていけます。喜び歌いながら生きる私たちとされる。たとえ、いろいろな悩みや願いを抱えた種々雑多な私たちであってもなお。なぜなら復活なさった主イエスは、生きている人のためにも、死んだ人のためにも、主となられたからです。元気はつらつの人のためにも、さっぱり元気がでない人のためにも主となられたからです。晴々した人のためにも、悩みと乏しさにクヨクヨしつづける人のためにも、臆病で心細い人のためにも、主となってくださったからです。もちろん、とても頑固で強情なあなたや私のためにさえ。