2016年5月24日火曜日

5/22こども説教「シモンのしゅうとめのために」ルカ4:38-41

 5/22 こども説教 ルカ4:38-41
 『シモンのしゅうとめのために』

4:38 イエスは会堂を出てシモンの家におはいりになった。ところがシモンのしゅうとめが高い熱を病んでいたので、人々は彼女のためにイエスにお願いした。39 そこで、イエスはそのまくらもとに立って、熱が引くように命じられると、熱は引き、女はすぐに起き上がって、彼らをもてなした。             (ルカ福音書 4:38-41)

  もうすぐ主イエスはシモン・ペテロ(=「ペテロ」は岩という意味のアダ名。主イエスが彼にこのアダ名を付けた。ヨハネ福音書1:42とその仲間たちと出会い、彼らを弟子にします5:1-11。彼らの顔を見る前から、弟子にすることを決めておられました。シモンの家に立ち寄ったのも、たまたまではありません。もし仮に彼女のために誰一人も「熱を下げてあげてください」とお願いしなくたって はじめから、熱を出して寝込んでいたしゅうとめを癒してあげるためでした(*)
  遠い昔に神さまを信じる旅へとアブラムとサライが招き入れられたとき、彼らは「国を出て、親族に別れ、父の家を離れて」、そのようにして主なる神さまに従いはじめました。漁師たちや取税人が主イエスの弟子とされたときにも、彼らは、「舟も網も父親も後に残して」、手ぶらで、主イエスに従いました(創世記12:1,マタイ4:18-頼りになる後ろ盾や相談相手や支えや、役に立つ仕事道具がないほうがよかったのです。どうして、何のために? 主イエスにこそ聞き従い、困ったことや難しい悩み事があるときには主イエスにこそよくよく相談に乗っていただくために、主イエスをこそ頼りにし、頼みの綱として新しく生きはじめるためには。それでも、弟子になるために家族や仲間や友だち皆とすっかり縁を切って、というわけではありませんでした。例えばアブラムとサライには、おいのロトとその家族がついてきたし、主イエスの弟子たちの場合にも、父は後に残してきたのに漁師たちの母親はどうしたわけか主イエスに従う旅にいっしょに参加していました(マタイ20:20を参照)。しばらくして取税人のマタイを弟子にしたときにも、取税人仲間たちとお別れパーティを開きましたし、その後も彼の仲間たちと主イエスとの親しい友だち付き合いがつづきました。あの彼らも、ぜひ主イエスと出会わせてあげたかったからです。その中から、主イエスを信じる者たちが一人また一人と起こされていきました(ルカ15:1-3,マタイ9:10,21:32を参照)。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31という約束のとおりです。ですから、シモンのしゅうとめの病気を癒してあげたのは、しゅうとめのためでもあり、やがて主の弟子となるシモンのためでもありました。主イエスは彼女の枕元に立って、熱が引くように命令すると熱は引き、しゅうとめはすぐに起き上がって、彼らをもてなしました。主イエスに仕える働きは、一個のキリスト教会としても一人一人のクリスチャンとしても、いつもこのようです。主イエスに感謝する気持ちで、皆をもてなしました。主イエスに喜んでいただきたくて、皆の世話をしたり、親切にしてあげたり、誰かを助けてあげたりもします。ずいぶん後になって、主イエスからこう打ち明けられました。「喉がカラカラに渇いている人にコップ一杯の水をあげてくれたね。病気の人を見舞ってくれたね、牢獄に訪ねてくれたね、腹が減っている人に食べさせてくれたね。見知らぬ小さな一人の人にしてくれたこと。それら皆は、この私にしてくれたことだ。ありがとう、とても嬉しかった」(マタイ10:42,25:34以下を参照)と。


【割愛した部分の補足】
(*)四つの福音書からの、すこしずつ違う報告。例えば、「しゅうとめの癒し」と「シモンたちを弟子とすること」について、ルカ福音書は癒しが先、マタイとマルコ福音書では弟子とすることが先に報告されています。例えば十字架上の主イエスの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」発言を、マタイとマルコは報告し、ルカとヨハネは報告しませんでした。しかも 聖書の内容に十分な信頼を寄せることができるかどうかが、この信仰の決定的な分かれ道になります。なにしろ、神について知るための、ほぼ唯一の情報源なのですから。聖書自身の中に、互いに食い違い、矛盾し合う内容が他にも多数。聖書全体としては何をどう語っているのかを的確に判断できなければ、道に迷いつづけます。あるいは聖書を棚上げして、それぞれ好き勝手に気の向くままに、絵空事の神を思い描きつづける他ないでしょう。それでは、あまりに虚しい。エチオピア人の宦官と主の弟子とのやりとりを思い出せますか。「読んでいることがお分かりですか?」「いいえ。誰かが手引きしてくれなければ、どうして分かりましょう」(使徒 8:30-31)。聖書全体の本意を受け止めるためには、適切な道案内や手引きや地図がどうして必要なのです。
実は、それぞれの福音書は主イエスの十字架上の死後30年ほども後になって書かれました。初めには、ただ主イエスの行動と発言の簡単な備忘録のようなものがありました。やがてキリスト教への迫害が強まり、主イエスの最初の弟子たちが年老いたり、殉教したり行方不明になったりしていき、放置すれば大切な出来事の記憶がすっかり失われてしまいかねませんでした。そこで、弟子たちは『福音書』という形で記録をまとめはじめました。教会会議で全66巻の聖書正典が決められていきました。人間たちの会議を用いて、そこに神さまご自身の御心が働きました。人間たちの手や働きが用いられながら、そこに神さまの御心が過不足なく十分に示されている。その意味で、『聖書は神の言葉である』と信じられ、重んじられています。ですから四つの福音書はそれぞれ矛盾したり、順序や内容が少しずつ食い違う報告を含みます。一つの出来事が四つの視点・角度から見つめられているからです。創世記1章と2章、また列王記と歴代誌などもまた互いに同じような関係にあります。生身の人間たちの手と言葉が用いられて、互いに補い合いながら、神さまの一つの現実やお働き、神さまの御心が報告されています(⇒イザヤ書55:10-11,ヨハネ福音書5:39-40「聖書の中に永遠の命があり、しかも聖書は主イエスについて証言をしている」,20:30-31「(ヨハネ福音書だけでなく聖書66巻全体は)イエスが神の子キリストであると信じるため、信じて、イエスの名によって命を得るために書かれている」,テモテ手紙(2)3:14-17「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれ、人を教え、戒め、正しくし、義に導く。それによって神を信じて生きる人が、あらゆる善い技に対して十分な準備ができて、整えられた者になるために書かれた」)。




 ◎とりなしの祈り 
 イエス・キリストの父なる神さま。神さまの御心によくよく信頼を寄せ、従順に聴き従って生きる私たちにならせてください。なぜなら救い主イエスが、「私の平和をあなたがたに与える」「その平和があなたがたにあるように」と仰ったからです。罪の責任を問うことなく、私たちをゆるし、私たちを主イエスの平和の使者としてくださったからです。「神さまと和解させていただきなさい」と、この私たちのためにも何度も何度も仰ったからです。
 ですからまず私たち自身に、神さまとの平和を取り戻させてください。ほんのささいなことにも一つ一つ目くじらを立て、頑として言い張ったり、ついついトゲトゲしく振舞ってしまう私たちの心の狭さと罪深い思いを、どうか憐れんで、取り除いてください。主イエスからの平和を、私たちの頑固さや臆病さにこそ十分に注ぎかけてください。そのためにぜひ、へりくだった、低くてやわらかい心と聞き分ける耳を、この私たちにもぜひ贈り与えてください。そのあとで、広い世界と様々な人々の様々な暮らしにも私たちの目を向けさせてください。なぜなら主よ、おびただしい数の人々が置き去りにされ、片隅に押しのけられつづけているからです。九州のとても大きな地震と、それだけでなく5年前からつづいている東日本震災被災者たちのはなはだしい苦境。他にも、貧しく心細いままで放って置かれている人々がたくさんいます。またとくに、米軍基地を押し付けられ、いまだに植民地扱いされ、ないがしろにされつづける沖縄の同胞たちと、その彼らをないがしろにしつづける身勝手な私たちとを憐れんでください。この国の政府はいつものように「断固、厳重に抗議する」と、口先では、国民の前では言い続けながら、けれど奇妙なことに 同様の事件が相変わらず、この70年間ずっと同じく繰り返されつづけています。このあまりに惨めで悲惨な現実に、どうか私たちの目と心を向けさせてください。私たちの都合のために、彼らをいけにえに差し出しつづけて良いはずがないからです。とても悪いことだからです。どうか今日こそ、ただ自分自身と家族と親しい仲間たちのことばかりではなく、また自分の国や民族や自分自身を愛する以上に、その千倍も万倍も、他の国と他の民族を尊び、隣人を尊び、神さまの御心をこそ心を尽くし、力を尽くし、精神を尽くして愛し尊ぶ者たちとならせてください。神さまのお働きに信頼し、それをこそ願い求め、あなたの慈しみの御心に従って生きる私たちであらせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン