2021年6月7日月曜日

6/6「ゆるしてやりなさい」ルカ17:1-4

            みことば/2021,6,6(主日礼拝)  322

◎礼拝説教 ルカ福音書 17:1-4                   日本キリスト教会 上田教会

『ゆるしてやりなさい』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

17:1 イエスは弟子たちに言われた、「罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。2 これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。3 あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。4 もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。        ルカ福音書 17:1-4

                                               

11:1 また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。2 そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。3 わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。4 わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』」。 ルカ福音書 11:1-4

 

130:1 主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。

  2 主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。

  3 主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、

主よ、だれが立つことができましょうか。

  4 しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。

  5 わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。

   そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。 (詩篇130:1-5)

 まず1-2節、「イエスは弟子たちに言われた、『罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである』」。神に背かせる罪に誰かを誘い、つまずかせることのはなはだしい災いが、主イエスご自身によって私たちに警告されています。「これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである」と。いつ、どうやって、私たちは誰かをつまずかせてしまうでしょう。いつ、私たちは、神に背く罪を誰かに犯させてしまうでしょう。神を信じるクリスチャンを、あるいは他の人々に対しても不当に苦しめたり、悩ませたりするとき、神に仕えて生きることを邪魔したり、止めさせようとするときに。それだけではありません。神を尊び、隣人を自分自身のように愛し尊ぶように教えられながら、それと相反する私たちの心の思いと、口から出る思いやりのない言葉と、行いや態度によって、憐み深い神の御名を汚してしまうときに。私たちの普段の行いや、人と接するときの何気ない態度や振舞いを私たちの家族や、隣人や、職場の同僚たちがよく見ています。彼らは、「なんだ。それがクリスチャンのすることか」と呆れたり、ガッカリしたりもするでしょう。例えば、ダビデがウリヤの妻を不当に奪い取る大罪を犯したとき、預言者ナタンは、ダビデに向かって「あなたはこの行いによって、おおいに主を侮った」とその罪深さを指摘しました。習い覚えてきた神の国の福音が私たち自身を戒めます、「なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」(サムエル記下12:14,ローマ手紙2:21-24。教えられてきた神の国の福音と矛盾し、それと相容れない生活をしているとき、自分自身の日毎の行ないと態度と口から出る言葉が、キリストの福音を損ない、私たち自身を傷つけ、周囲にいる人々をも傷つけます。

 1-2節と3-4節のどこがどう結びつくのか、どういう関係があるのかを、知らねばなりません。神に背かせ、家族や隣人をつまずかせて苦しめる罪の誘惑はあり、誰にとってもそれは避けられない。けれどなお、弱く小さく、揺さぶられやすい人にその誘惑を来たらせるなら、その者はきびしい懲らしめを神から受けることになる。さて、神に背く罪に誰かが陥ってしまったとき、あるいは自分自身がその恐るべき泥沼に落ちようとするとき、どうしたら良いのか。ただ1つの解決策が神ご自身から差し出されます。3-4節、「あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。罪のゆるしの教えこそ、この信仰と福音の最重要の生命線でありつづけます。主イエスは、「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」とお命じになりました。

 「その人をいさめなさい」と、まず命じられます。なんでも、ただゆるし、ただ大目に見てあげるだけでは不十分です。誰かがあなたに不適切な悪い態度を取り、あなたに害を及ぼしたとき、「それは悪いことだから止めなさい」とその相手に告げる必要があるし、その人の言葉や振舞いや態度のなにがどう悪かったのかを、なぜそうなのかを相手にちゃんと知らせて、いさめたり、叱ったりしてあげる必要があります。そうでなければ、その人は自分がしてはいけない悪いことをしたとは気づかずに、同じ悪い振る舞いをずっとしつづけるかも知れません。それでは困ります。

 次に、「いさめて、もし、その人が悔い改めたら、ゆるしてやりなさい」です。いさめて、その人が確かに悔い改めたなら、それなら、ゆるしてやりなさい。そうでないなら、ゆるさなくてよいし、ゆるしてはいけません。悔い改めがなく、自分はしてはいけない悪いことをしてしまったとはっきりと自覚できなければ、その人が新しくされることもなく、人と人が和解したり、健全な人間関係を回復させ、ふたたび築き上げはじめることもできません。

 「一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。「7」という数字は、「770倍」など聖書の他の箇所でもそうであるように、「無制限に、どこまででも何度でも」という意味で用いられています。「とても頻繁に」「しばしば」などと(マタイ7:2,12:45,18:22,ルカ11:26,1サムエル2:5,ルツ4:15,12:6,ミカ5:5。 

もちろん、主の祈りの中の6つの祈願の中でも、罪のゆるしの願いこそ根源的な願いでありつづけます。「われらに罪を犯すものを我らがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」。このように願いつづけなさいと主イエスから命令されていることの目的は、自分自身が抱えてしまう罪から、私たちが、日毎に救い出していただくためにです。また、互いにゆるしあって平和に生きる私たちとなるためにです。たぶん、この願いが、主の祈りの6つの願いの中で一番わかりにくいでしょう。わたしたちが他人の罪や落ち度や悪い行ないをゆるしてあげることと、わたしたち自身の罪や落ち度や悪い行ないを神さまにゆるしていただいていることとは、深く結びついています。切り離すことのできない1つのことだと言っていいほどです。けれど、「ゆるしますから、私のこともゆるしてください」という取り引きや条件ではありません。順番が違います。(1)まず、神さまがこの私の罪や落ち度や悪い行ないを、すっかりゆるしてくださった。だから、(2)わたしたちも今では、他人の罪や落ち度や悪い行ないをすっかりゆるしてあげることができる、という順番です。神の恵みの順番・恵みの秩序です。その証拠に、神さまから、ゆるされないはずの大きな罪と落ち度をゆるしていただいていると覚えているからこそ、他人の罪と落ち度をゆるしてあげることもできます。ゆるされていることを忘れてしまうとき、わたしたちは心が狭く貧しくなり、他人に厳しく、冷たく、薄情になってしまいます。ゆるせないで、いつまでも怒って、恨みに思って、見下しつづけるので、自分がどんどん貧しくなってしまいます。マタイ福音書18:21-35の『仲間をゆるせない悪いしもべ』のたとえ話が分かりますか。心が少しは痛みますか。あのしもべは、いったい誰のことを指し示しているでしょうか。

この自分、また自分たちに対して罪を犯した相手を、ゆるしてあげること。「私の罪をゆるしてください」と神に願い求めながら、「私も、他者の罪をゆるします」と神に告白しています。これが、罪をゆるされている罪人であることの明白なしるしです。家族や隣人、知り合いや職場の同僚などが自分に対してなしたほんの小さな悪意、意地悪な態度、過ち、攻撃をどうしても許せない。そのとき、その自分は、救い主イエスによって成し遂げられ、贈り与えられたはずの、まったく自由で十分な究極のゆるしがいつの間にか、すっかり分からなくなっています。それこそが大問題です。その人をゆるしてあげることが自分にはどうしても出来ない。そのとおりです。生まれつき怒りの子であり、心がひどく頑固な私たちですから。けれど、神には何でもできます。神ご自身こそが、この私たちを、『ゆるすことができる者』へと新しく造り変えることがお出来になります。聖霊なる神が私たちの体のうちに宿っていて下さり、そこで生きて働いていてくださることの、目に見える、生きたしるしです。聖霊なる神が私たちの体の中に住んでくださっていることは、このお方が私たちの生活の中にもたらしてくださる実りによって分かります。「けれど、どうしてもゆるすことができません。ゆるすことができる私とならせてください」と、神に願い求めつづけることができます。その願いは、必ず叶えられます。しかも、憐み深い天の主人から、このように命じられています、「あなたの敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈れ」。また、「悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」(マタイ5:44-45,18:32-33。誰かのちょっとした振る舞いや、悪い言葉や態度がシャクに触り、カンに障ります。なんだか虫が好かない。気に入らない。自分自身のことをすっかり棚に上げて、その1つ1つをあげつらいたくなります。それゆえ聖書は、同じ1つのことを繰り返し語りかけます、「あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか」「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう」「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている」(1コリント3:3,1ヨハネ3:18-19,4:20と。詩篇の詩人は、自分のはなはだしい罪をゆるしてくださった憐み深い神に、このように信頼と感謝をささげています、「主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます」(詩130:1-5