2018年9月18日火曜日

9/16「羊飼いの心得をもって」サムエル記上17:28-47


                         みことば/2018,9,16(主日礼拝)  181
◎礼拝説教 サムエル記上17:28-47                  日本キリスト教会 上田教会
『羊飼いの心得をもって』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


17:33 サウルはダビデに言った、「行って、あのペリシテびとと戦うことはできない。あなたは年少だが、彼は若い時からの軍人だからです」。34 しかしダビデはサウルに言った、「しもべは父の羊を飼っていたのですが、しし、あるいはくまがきて、群れの小羊を取った時、35 わたしはそのあとを追って、これを撃ち、小羊をその口から救いだしました。その獣がわたしにとびかかってきた時は、ひげをつかまえて、それを撃ち殺しました。36 しもべはすでに、ししと、くまを殺しました。この割礼なきペリシテびとも、生ける神の軍をいどんだのですから、あの獣の一頭のようになるでしょう」。37 ダビデはまた言った、「ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主は、またわたしを、このペリシテびとの手から救い出されるでしょう」。サウルはダビデに言った、「行きなさい。どうぞ主があなたと共におられるように」。38 そしてサウルは自分のいくさ衣をダビデに着せ、青銅のかぶとを、その頭にかぶらせ、また、うろことじのよろいを身にまとわせた。39 ダビデは、いくさ衣の上に、つるぎを帯びて行こうとしたが、できなかった。それに慣れていなかったからである。そこでダビデはサウルに言った、「わたしはこれらのものを着けていくことはできません。慣れていないからです」。40 ダビデはそれらを脱ぎすて、手につえをとり、谷間からなめらかな石五個を選びとって自分の持っている羊飼の袋に入れ、手に石投げを執って、あのペリシテびとに近づいた。(サムエル記上17:33-40)



7月はじめから3ヶ月間、旧約聖書から説き明かしつづけてきました。残り、あと3回です。神の民とされたイスラエルは、強大なペリシテ人の軍勢と小さな谷を隔てて対峙していました17:1-3。その戦いのくわしい様子は171節から報告されはじめます。兵士の数も戦力も、相手方のほうがはるかに上回るのです。あの時だけではなく、実は、そんなことの繰り返しでした。まるでわざわざそうしたかのように、神の民は、どこの誰と比べても数も少なく力も弱く、あまりに貧弱でありつづけました。そして今回も、ペリシテの陣地からゴリアテという名前の一人の恐ろしい大男が進み出てきました。大男は立ちはだかり、イスラエルの戦列に向かって呼ばわりました。「お~い、弱虫どもめ。一人を選んで、わたしの方へ下りて来させよ。相手を一人出せ。一対一の勝負をしよう。負けたほうが勝ったほうの奴隷になるんだぞお」(17:8-11,16参照)。ゴリアテは40日の間、朝も夕方も出てきて、同じ言葉で呼ばわりました。「お~い、ヘナチョコ野郎ども。一対一の勝負をしよう。負けたほうが勝ったほうの奴隷になるんだあ」。イスラエルの王様も兵隊たち皆も、恐ろしくてブルブルと震え上がりました。「どうしたらいいか分からない。もうダメだ」と絶望し、小さくなってしまいました。けれども、神の民とされたイスラエルの同胞たち。ゴリアテの声を聞きながら、強大な圧倒的多数のペリシテ軍と谷を隔てて向かい合いながら、こわごわビクビクして過ごした4040夜。それは、自分自身の弱さと貧しさをつくづくと痛感させられて、膝を屈め、神さまに向かって本気で祈るべき日々だったのです。祈りの中で、ふたたび神さまと出会うはずの日々だったのです。聖書の中で40という特別な数はそのことを指し示しつづけてきました。例えば、世界を飲み尽くす大洪水がまもなく起ころうとして4040夜雨が降り続いた日々のように。例えば、モーセと仲間たちが荒野を旅した40年間のように。シナイ山に登ったモーセを待って神の民イスラエルが山の麓で過ごした4040夜のように。救い主イエスが試練と誘惑を受けた荒れ野の40日間のように。ちょうど来週ごいっしょに読むことになりますが、預言者エリヤが主の山ホレブを目指して歩いた4040夜の道のりのように(創世記7:12,民数記14:34,出エジプト記24:18,マルコ福音書1:13,列王記上19:8,サムエル記上17:16。それらは祈るための日々でした。主なる神さまの御前に背筋をピンと伸ばし、襟を正し、深く慎んで神さまを思い、神のみもとへと立ち返るべきときです。あの王様と兵隊たちのためにも、ここにいるこの私共のためにも。
  その恐ろしい惨めな戦いの場所に、羊飼いの小さな一人のごく普通の少年が出てきました。「はい。じゃあ僕が戦います」。兄さんたちは、この末っ子の弟を見て「生意気だ。でしゃばりな奴め」と腹を立てました。イスラエルの王様も彼を見て、ふんと鼻で笑いました。「できるはずがない。お前は小さな小僧っ子だ。あっちは小さな子供のときから強くて立派な兵隊だったんだから」33節参照)。ゴリアトも、彼の姿形を見てバカにしました。誰も彼もが、その人の服装や姿形や、履歴書に書いてあるようなことを眺めるようにして、お互いを見ていました。八百屋の店先に並べられたキュウリや白菜や大根を値踏みするようにして、互いに見比べあっていました。「人からどう見られるか。どんなふうに思われるか」とクヨクヨ気に病む人は、自分自身でもやっぱり、人から見られている通りに自分でも自分自身を見ています。人の目に映っている、見られている通りの自分、それがこの自分だと。冗談じゃない。そんなものが自分であってたまるものですか。この一人の少年は違います。これまでずっと自分が見つめてきたものに、今も同じくやっぱり目をこらしています。自分が生きてきたいつもの生活を振り返って、それに照らして、自分がいったい何者であり、何を頼りとして、どこにどんなふうに足を踏みしめて立っているのか、どこへと向かっているのかを見ているのです。この少年と、ほかの兄さんや兵隊たちや王様とでは、見ているものが全然まるっきり違います(サムエル記上16:7,17:37,コリント手紙(2)4:16-18,5:16-17参照)34-37節。「ううん、どうかなあ」と疑わしげに首を傾げている王様に向かって、少年は言いました、「しもべは父の羊を飼っていたのですが、しし、あるいはくまがきて、群れの小羊を取った時、わたしはそのあとを追って、これを撃ち、小羊をその口から救いだしました。その獣がわたしにとびかかってきた時は、ひげをつかまえて、それを撃ち殺しました。しもべはすでに、ししと、くまを殺しました。この割礼なきペリシテびとも、生ける神の軍をいどんだのですから、あの獣の一頭のようになるでしょう。(自分はこんなに強く賢いとか役に立つなどと自慢話をしているわけではありません。そんなこととは全然違います)。ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主は、またわたしを、このペリシテびとの手から救い出されるでしょう(つまり主ご自身こそが、誰からでもどこからでも、必ず私を救い出してくださいます)」。これが、あの少年の心得です。クリスチャンは皆、この《羊飼いの少年の戦いの心得》を授けられています。あなたも、ここにいる私たち全員も。助けることも支えることも、やりとりです。片方だけがいくら「助けてあげたい。支えてあげたい」と思っても、それだけでは出来ません。「助けてあげたい」「はい。どうぞよろしく」これでようやく助けることが成り立ちます。分かりますか。「助けてあげたい。助けてあげたい。私はここにいる」(イザヤ65:1)と神さまは呼ばわり続けました。今もずっと、「助けてあげたい。支えてあげたい」と呼ばわりつづけています。ところがサウル王もイスラエルの兵隊たちも皆、あまりに賢くなって、あまりに世間の常識を身につけすぎて、するといつの間にか、神さまの助けになんか見向きもしない人になりました。神さまの声も姿も目に入りませんでした。その耳にも届きませんでした。その中でたった一人だけ、あの小さな羊飼いの少年が、神さまからの助けと支えを受け取りました。「はい。ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」と。
 「そんな馬鹿な」と言われるかも知れません。けれど実は、あのイスラエルの王様も兵隊たち一人一人も、どの一人も皆、ほんのちょっと前までは《小さな小さな羊飼いの少年》でした。そして今では、そのことをすっかり忘れてしまっています。ここにいる誰もが皆、《ごく普通の、どこにでもいるような、一人の羊飼いの少年》でした。自分が羊飼いの少年だったことを忘れてしまっている人たちを、熊やライオンから、次々と立ち塞がるゴリアテたちの手からいったいどこの誰が救い出してくれるのかがすっかり分からなくなってしまった人たちを、《淋しいクリスチャン。悲しいクリスチャン。ただただ形ばかりの、心の中だけのクリスチャン》といいます。淋しいクリスチャンの中には、二等兵もいれば中隊長もいます。淋しいクリスチャンの中には、強いものも弱々しいものも、すごく賢いものもいるでしょうねえ。淋しいクリスチャンの中には、豊かなものも貧しいものも、健康なものも病気で弱っているものもいるでしょう。その淋しく悲しいクリスチャンの中の、一番強く、一番賢く、一番優れていたものはあのサウル王だったでしょう。さあ見てごらんなさい。怖がっていたのは、見習い兵士や二等兵たちばかりじゃない。隊長や将軍たちも、あのサウル王だって、今や小さ~くなって縮みあがっている。青ざめて、ガタガタブルブル震えています。
 38-40節。王様が自分の最新兵器と高級で上等な装備を貸してくれようとしたとき、あの少年は断りました。ご立派なヘルメットも剣も盾も胸当ても膝当ても、何も要らない。慣れておらず、体のサイズにも合わず、使いにくいからと。本当でしょうか。・・・・・・じゃあ、それなら、もし仮に体にピッタリあって使いやすかったとしたら、それなら貸してもらったほうがいいでしょうか。使い慣れていない。それなら、王様の武器や装備を貸してもらって、2、3ヶ月か半年くらいか十分な練習期間をもらえて使い慣れることができるなら、それなら最新兵器と高級で上等な装備を借りたほうが得策でしょうか。どう思います? 私たちはいつか、多くの実地訓練や研修を積み重ね、いくつもの戦場を生き延びて、立派な一人前の戦士となるでしょう。中には軍曹、中隊長、将軍へと登りつめる者もあるかも知れません。そうであってもいいし、そうでなくてもいい。でも、恐ろしく強い大男のゴリアテが攻めてきたときに、あなたはどうするでしょう? あまり大きくない中くらいのゴリアテ、小さなゴリアテたちも次々に攻めてきます。一人二人で、あるいは団体で攻めてくる日もあります。こう言いたいのです、《あの羊たちの、たった数匹の群れも神の軍隊。ここも、生きて働いておられる神の軍隊。主なる神こそがボクを守って戦ってくださる。熊の手ライオンの手からも、あの大男ゴリアトの手からも、どこの誰からでも、主こそが守ってくださる》と、その肝心要の大切なことを忘れないならば。よくよく覚えているならばです。分かりますか。もし、そうでないなら。「この丈夫なヘルメットがあるから。そして、この高級で上等な剣と盾が私を守ってくれるから」とうっかり勘違いしてしまうならば、もしそうなら、あなたが手にしようとしている青銅のヘルメットと、健康と力と人々の賞賛と、何不自由ない豊かな生活のための様々な剣と盾は、あなたにとって、大きな災いとなり、恐るべき罠となるでしょう。かえって、あなた自身の戦いを苦しく危うい場所へと追い詰めてしまうでしょう。「これまで羊たちの世話をして、羊たちを守って暮らしてきた。強くて恐ろしい獣たちとも戦って、生き延びてきた。でもそれは自分が勇敢だったからでも、賢かったからでもない。すばしっこくて世渡り上手だったからでもない。骨惜しみせずに頑張ってよく働いたからでもない。熊の手からもライオンの手からも、主なる神さまこそがこの私を守ってくださったからだ。その同じ神さまが、あの大男からも他のどんな大男からも守ってくださる。この新しい戦場、この新しい敵に対しても、私の主なる神さまこそがこの私を必ずきっと守って戦ってくださる」34-37節参照)。最新の装備と高級な武器を身につけてもいい。あるいは上品そうでお洒落な背広にネクタイでも、作業着姿でも、エプロンに長靴でも、必要ならどんな格好をしてもいいでしょう。『主に守られ養われつづけてきた羊飼いである』という心得を、もし、よくよく覚えたままで見失わないでいられるならば。瀬戸際に立たされる肝心要の場面で、このいつもの心得を、ちゃんとよくよく覚えていることができるのかどうか。それが、私たちの生き死にの分かれ道でありつづけます。もし本当にそのご立派な兜や盾、胸当てがとても役に立って頼りになるならば、わざわざ他に代表選手を募るまでもなく、それを身につけて王様が自分で一体一の対決に名乗りを上げるはずじゃないですか。そんな装備も武具も少しも役に立たない、見栄えが良いばかりのただの飾り物でした。だからです だからあの少年も、王様の素敵なヘルメットや剣や胸当てや鎧を断りました。今まで通りに、羊飼いのいつもの道具だけを持っていきました。それがふさわしい。杖と、滑らかな5つの小石と、石を入れる袋と、石投げ紐。今まで通りに、今までずっと支えられてきた通りに、『主に守られ養われてきた一人の羊飼い』として立ち向かうのです。だって、ほら。あの青ざめてガタガタ震えているサウル王を見てごらんください。王は、何と言って少年を送り出したでしょう。37節、「どうぞ主が、あなたと共におられるように」。主が共にいてくださるのかどうか。共にいてくださる主が、その人を現実に守ってくださるのかそうではないのか。生きて働いてくださる神なのか、ただの飾り物のように手も足も出せない死んだ神なのか。生きて働く神さまがそこにいっしょにおられて、なおかつ、あなたを助けることも支えることも救い出すこともなさらないで知らんぷりしているなどということが本当に有り得るのかどうか。ですからこの『主が共におられるように』というほんの一言の見送りの言葉には、その人の生きるか死ぬかを分ける程の決定的な意味があったのです。主が、あなたと共におられるように。けれどあの物の分かった賢い王様は、その肝心要の生命線を、今ではすっかり忘れていました。『神さまが、あなたといっしょにいてくださる』。――ただの決まりきった挨拶だ、建前だ、単なるお題目だ社交辞令の根も葉もない気安めにすぎないなどと思っていたのかも知れません。信じてもおらず、だから自分自身のためにも仲間や家族のためにさえ本気で願い求めることもできずにいます。それでは神を信じて生きてきたことが水の泡です。戦い始める直前、46-47節、少年はこう呼ばわりました、「イスラエルに神がおられることを全地に知らせよう。またこの全会衆も、主は救を施すのに剣と槍を用いられないことを知るであろう」。剣や槍の類いはいっさい必要ない。では、主なる神は私たちに救いを贈り与えてくださるために、いったい何を必要とされるのか?  世界のすべてを造られる前に私たちを救いへと選んでくださっていたこと。救い主イエスの死と復活によって救いの御業を成し遂げ、やがて終わりの日に救い主イエスによる審判をへて、御子を信じる者たちを御国へと招き入れてくださることによってです。その希望と確信によって、それだけでです。他には何一つも付け加えてはなりません。例えばローマ手紙8:31-32、「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか(いいえ決して、あるはずがない)」。それは確信であり、感謝であり、心からのひたすらな願いでありつづけます。小さな子供たちのためにも、若いお父さんお母さんたちのためにも、教会の働き人たちのためにも、悩みを抱えた病弱な人たちのためにも、長く生きて経験を積んできた年配の人たちにとっても、この《羊飼いの心得》(注1)こそが肝心要です。《主こそが第一に、先頭を切って、しんがりを守って、全責任を負って戦ってくださる。戦い抜いてくださる》とこの私も知る。よくよく魂に刻み込んで、一日また一日と生きること。


        《補足/羊飼いの心得》   (注1)
  1.これまでの日々をよくよく覚えておくこと。熊の手、ライオンの手から主なる神さまこそが私を守ってくださった。だから、見知らぬ大男の手からも、どこの誰からも、主こそがきっと守り抜いてくださると。
  2.どこかの王様が素敵な武器や見栄えの良い装備を貸してくれようとする場合、立ち止まって、考えてみること。
  3.借りて使ってみてもいいが、当てにしすぎないこと。
  4.むしろ、羊飼いのいつもの道具を忘れず持参すること。杖と石投げ紐と袋。
  5.そして河原で、スベスベした小石を拾うこと。
  6.1つは、主が私と共にいてくださり、しかも私をとても大切に思っていてくださるという小石。
   つは、主が私のためにも強くあってくださるという小石。
   1つは、たとえ私が弱くても臆病でも、あまり賢くもなくたいした働きもできないかも知れないとしても、だから、ちっとも恐くないし、恥ずかしくも何ともないという小石。
    つは、この私は、今ここにおいても主の恵みの真っ只中にあるという小石。そしてサムエル記上17:47,申命記31:8,コリント(1)1:26-,詩23,ヨハネ10:11-,ルカ15:3-,ペトロ(1)2:24-25を、自分の心によくよく刻み込んでいること。