2018年9月3日月曜日

9/2「天からの恵みのパン」出エジプト記16:1-21,31-36


                              みことば/2018,9,2(主日礼拝)  179
◎礼拝説教 出エジプト記16:1-2131-36            日本キリスト教会 上田教会
『天からの恵みのパン』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC



16:1 イスラエルの人々の全会衆はエリムを出発し、エジプトの地を出て二か月目の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にきたが、2 その荒野でイスラエルの人々の全会衆は、モーセとアロンにつぶやいた。3 イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。4 そのとき主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう。5 六日目には、彼らが取り入れたものを調理すると、それは日ごとに集めるものの二倍あるであろう」。6 モーセとアロンは、イスラエルのすべての人々に言った、「夕暮には、あなたがたは、エジプトの地からあなたがたを導き出されたのが、主であることを知るであろう。7 また、朝には、あなたがたは主の栄光を見るであろう。主はあなたがたが主にむかってつぶやくのを聞かれたからである。あなたがたは、いったいわれわれを何者として、われわれにむかってつぶやくのか」。8 モーセはまた言った、「主は夕暮にはあなたがたに肉を与えて食べさせ、朝にはパンを与えて飽き足らせられるであろう。主はあなたがたが、主にむかってつぶやくつぶやきを聞かれたからである。いったいわれわれは何者なのか。あなたがたのつぶやくのは、われわれにむかってでなく、主にむかってである」。9 モーセはアロンに言った、「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたは主の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたからである』と」。10 それでアロンがイスラエルの人々の全会衆に語ったとき、彼らが荒野の方を望むと、見よ、主の栄光が雲のうちに現れていた。11 主はモーセに言われた、12 「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」。・・・・・・15 イスラエルの人々はそれを見て互に言った、「これはなんであろう」。彼らはそれがなんであるのか知らなかったからである。モーセは彼らに言った、「これは主があなたがたの食物として賜わるパンである。                                   (出エジプト記16:1-15)


(予備的な説明;「オメル」16,33,36節)という聞きなれない重さの単位が出てきました。巻末に「度量衡換算表」が付録でついている聖書もありますが、なくても大丈夫。16-18節で「おのおのその食べるところに従って集め、人数に従ってひとりに一オメルずつ取りなさい」と説明されていることで分かります。少食の人も多喰いの人もいるでしょうけど、だいたい平均して、一人が一日食べる分量を一オメルといいます。末尾32-36節で、「その一人が一日で食べる分を壺に代々保存して、子孫に見せてあげなさい」と指示されます。信仰教育のためにです。では、読み味わっていきましょう――)

 出エジプト記16章から始めて、聖書全体にわたって、救い主イエスについて記されている福音を説き明かします。神の民とされたイスラエルの人々は、エジプトの国で400年もの長い間、奴隷にされていました(創世記15:13奴隷とは、人間ではない品物や道具のように、ただ他の人たちの思うままに、ただ便利に都合よくコキ使われつづける存在です。今の日本には「奴隷」はいませんけれど、「奴隷のように扱われ、踏みつけにされつづける弱い立場の人々」は大勢います。原子力発電所で働いている下請けの下請けの下請けの労働者たち、外国人技能実習生という耳障りのよい名目と建前で搾取され、安く便利に使い捨てにされつづける多くの出稼ぎ労働者たち、アルバイトやパートで働く労働者たち。大人ばかりでなく、小中学生や高校生の間にも、他の子供たちからまるでモノや道具のように扱われ、踏みつけにされる子供たちがいます。その人たちがどんな気持ちで暮らしているか、嬉しいか悲しいかと誰にも気にかけてもらえない。なんと危うく、心細く惨めなことでしょう。私たちの先祖は、そういう扱いを受けつづけた人々でした(出エジプト3:7-10。神さまが憐れんでくださって、そこから連れ出してくださいました。助け出していただいて、とても嬉しかった。ありがとうございますありがとうございますと大喜びしていたはずの人々は、けれどエジプトから出て荒れ野の旅をしはじめて二カ月ほどたったとき、今度は、嫌な顔をして文句を言い始めました。「腹が減った。ああ、嫌んなった嫌んなった。こんなことならエジプトの国で奴隷だったほうが良かった。あのまま死んでしまってたほうが、よっぽどましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋があり、パンも腹いっぱい食べられたのに。神さまのせいだな。神さまの言うことなんか聞かなければ良かった。ああ、ヤダヤダヤダ」って。ブツブツ文句を言う彼らの声は、もちろん神さまの耳に届きました。12節。主なる神さまが仰います;「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう」。ビックリですね。パンも肉も腹いっぱい食べさせ、『神さまが本当に主であってくださり、責任をもってちゃんと養ってくださる方だ』とよくよく分からせてあげる。こういう神さまなんです。神さまは、私たちをこういうふうに取り扱いつづけてくださっています。よくよく覚えておきましょう。
  そういうわけで、主イエスが教えてくださった『主の祈り』の中の六つの願いです。最初の三つは神さまについての願いであり、残りの三つは私たち自身についての願いです。私たち自身についてのその最初の願い;「私たちの日用の糧を今日も与えてください」。三度三度飯を喰い、生活費を工面し、生きてゆく現実のことです。「おい 誰のおかげで飯を喰わせてもらっていると思ってるんだ? 誰に養ってもらっている」と愚かな父親たちはさも偉そうな顔をして家族に問いただします。俺様が汗水たらして働いて、そのおかげでお前たちは暮らしている。だから俺様の言う事を聞き、命令に従え、と言いたいのです。本当にそうでしょうか。もし本当にそうなら、その夫や父親の言うままに、召使や奴隷のように従う他ありません。「いいえ。自分の甲斐性で、自分自身の力と働きで生きている」と思っている人々も大勢います。その人たちには自分の思うままに生きる権利があります。もし、本当にそうならば。私たちクリスチャンは、ずいぶん違う腹の据え方をしています。「神さまのおかげで生きているし、神さまに三度三度飯を食べさせていただいているし、月々の生活費、子供の養育費、電気代水道代にいたるまで、すべて一切含めて、神さまにこそ養っていただいている」と教わり、そのように本気で信じています。だから、神さまにこそ従って、神さまを自分のご主人さまとして生きることができます。一日一日健やかに生きてゆくために必要なものを日毎に神さまに求め、神から受けること。必要なものは様々あります。生命や健康、家族や仲間たち、働き場所、お金、そして食べ物。それらすべて一切を私たちは「どうぞ恵みによって与えてください」と神さまに願い求め、「ありがとうございます」と神さまに喜び感謝し、神さまご自身から、ただただ恵みによってだけ受け取ります。
 16-17節で、「それぞれ必要な分だけ、それぞれ自分と家族が食べる分だけ、一日分ずつ集めなさい。次の日にも、ちゃんと集めることができる。だから、次の朝まで残しておいてはいけませんよ」と命じられました。22-26節。六日目と七日目には、特別なことが命じられ、不思議なことが起こりました。六日目には二日分のマナを集めることが出来ました。それは、神さまから命令されたとおり、煮たり焼いたりして、次の日まで残しておいて、次の七日目に食べることができました。それで七日目は、もっぱら神さまのためにだけ使うことができたのです。礼拝をして、神さまがどんな神さまで、私たちをどんなふうに取り扱ってくださるかを教えられ、「ああ本当にそうだ」と喜びと感謝を心に刻んで。
  「これはいったい何だろう」15節)と目を丸くしながら、うずらやマナを自分と家族がその日に必要な分だけ集め、水を汲み、煮たり焼いたりして食べる。欲張って必要のない分まで掻き集め、自分勝手にむさぼり食べようとするとそれは腐ったり、嫌な臭いがしはじめ、神さまからも叱られる。彼らの一週間ずつの暮らしぶりと今日の私たちの暮らしぶりは、よく似た所があるでしょうか? それとも、かなり違うでしょうか。神さまに対する彼らの信頼や感謝と、神さまに対する私たちの信頼や感謝は、よく似ているでしょうか。それとも、いつの間にか、ずいぶん違ったものになってしまったでしょうか。あの人たちの暮らしは、今日の私たちから見ると、ずいぶん単純で、気楽で、素朴すぎるような気もします。時代遅れで古臭すぎる、今では通用しない考え方なのでしょうか。例えばここで、ぶどう園で朝早くから雇われて夕方まで働いた労働者たちは、腹を立てはじめます。「何を言っている。暑い中を私たちは一日中汗水流して働いた。嫌な思いも我慢して、ストレスも山ほど溜め込みながら、くたくたになるまで働いた。したいことも我慢してしなかった。したくない仕事も嫌々渋々やらされた。ただニコニコして拾い集めただけの彼らと、この私たちとを同じに扱うとは。うずらとパンの彼らの取り分を減らせ。それとも、私たちの賃金をもっと多く支払え。えこひいきじゃないか」(マタイ福音書20:12参照)と。あなた自身の腹の据え方はどうでしょう? たしかに、現実の生活こそが重大問題です。毎日のいつもの現実を、どう現実的に理解するのか。三度三度の飯を食べていけるかどうか。毎日毎日の生活費や給料を工面できるかどうか。子供や家族やわが身を養っていけるかどうか。父親が主人、大黒柱? いいえ、それは配偶者、それは夫。(大切な愛する家族ですけれども)一家の父親や夫に飯を食わせてもらっているわけではありません。それは大黒柱ではありません。(敬うべき人々ですけれども)会社の経営者から月々の生活費を貰っているわけではありません。(それぞれ精一杯に働いていますけれども)自分自身の甲斐性と働きで、自分で自分を養っているわけでもありません。あの彼らも自分自身も神様ではなく、主人でも大黒柱でもなかったのです。だからこそ12節で、主なる神さまはあの彼らに「私こそがあなたに食べさせ、満足させる。そうしたら、そこでようやく神こそが主であることを、あなたも知るようになる」(出エジプト記16:12,申命記8:9-10参照)と。本当でしょうか? ここにいる私たちの多くは何不自由なく十分にパンを食べ、満ち足りて暮らしています。じゃあ私たち自身は、神さまに感謝し、神さまにこそよくよく信頼を寄せて生きる者とされたでしょうか。そうなる場合と、そうではない正反対の場合と、両方がありえました。ですから聖書はきびしく警告しつづけます、「あなたは食べて飽き、麗しい家を建てて住み、また牛や羊がふえ、金銀が増し、持ち物がみな増し加わるとき、おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう。・・・・・・あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。もしあなたの神、主を忘れて他の神々に従い、これに仕え、これを拝むならば、――わたしは、きょう、あなたがたに警告する。――あなたがたはきっと滅びるであろう」(申命記8:12-19)。自分の力と手の働き、という名の偽りの神です。「どうして神ではないものを神としつづけ、神を捨てて、人間にばかり聴き従い、自分の腹の思いをさえ神としつづけ、私が主であることを認めようとしないのか。どうして信じないのか。」と神さまは、その人たちの姿を見て、ひどくガッカリし続けました。
  32-36節は、神さまへの信仰と信頼を自分自身が受け取り、子供や孫たちにも手渡してゆくための良い手本です。壺に一人が一日食べる分のマナを保存し、代々に渡って蓄える。なぜか。何のために? 災害時のための非常用保存食料としてではありません。素敵な博物館をやがて建てるときのための展示品としてでもありません。連れ合いや、自分の大切な子供や孫や、その子供の子供の子供に見せるためである。「これは何?」とその子たちが興味津々に質問するなら、そこで、あなたとその人との間で信仰の手ほどきが始まるでしょう。他の何にもまして大切な、生きてゆくための教育としつけが、そこからいよいよ始まるでしょう。ご存知でしたか。今でも、わたしたちの手元に、この壺は残されています。『わたしたちが一日一日と生きてゆくために必要な糧を、神さまどうぞ今日も与えてください』という名前の同じ壺が、一人一個ずつ手元に与えられています。主イエスが教えてくださった祈りの第四番目の祈りです。受け取っている糧の具体的・日常的な一つ一つを、子供らと共に「これは何だろう」(15)と驚きつつ、吟味してみましょう。あなたや家族のためにも贈り物は必要かつ十分であり、しかも豊かだったのです。

 「暑い中を一日汗水流して働いた。それなのに」と腹を立てたあの淋しい労働者たちは、ですからとても残念でした。「私がいただく分の財産の分け前をください」と受け取って家を出ていき、天からの恵みのうずらも、天からの恵みのマナも恵みの水も虚しく使いつぶしてしまったあの放蕩息子は、残念でした。「何年もお父さんに仕えて働きました。それなのに」と、父の家にいながら不平不満をくすぶらせつづけた兄さんも残念でした。「私だけに働かせて、何とも思わないんですか」と渋い顔をしたマルタ姉さんも残念でした(マタイ6:31-33,20:1-16,ルカ10:35-42,15:11-32。あのとても残念な彼らは、出エジプト記16章を読んだことがなかったらしいのです。申命記8章も、うっかり読み飛ばしていました。箴言307-9節の手ほどきをしてくれる人も、そばに一人もいませんでした。ときどき『日用の糧を今日も』と口ずさんでも、なんのことか、あまりピンと来ませんでした。だからこそ、ついにとうとう救い主イエスははっきりと仰いました。「よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」(ヨハネ福音書6:47-51と。救い主イエスご自身こそが天から下ってきた生きたパンであり、命のパンです。だからこそ、ここに今日、聖晩餐のパンと杯が用意されています。このパンを食べ、杯を飲み干す私たちは、そのようにして十字架の上で引き裂かれた主イエスの肉を食べ、そこで流し尽くされた主イエスの血潮を飲み干し、そのようにして主イエスの死と復活にあずかって新しい生命に生きる者とされます。つまり、主の死と葬りにあずかって私たちの内の古い罪の自分が日毎に滅ぼされつづけ、罪の奴隷状態から解放されつづけ、復活の主と共に新しく生きることになるからです。『神の国に入れられる』とは、このことです。その新しい生命がすでに始まっており、私たち自身も、罪と肉の思いに対して死んだ者であり、日毎に死につづける者であり、キリスト・イエスにあって神に対して、神の御心とお働きの只中を生きる者たちとされました。「全信頼を神におくこと。その御意志に服従して、神に仕えまつること。どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めること。すべての幸いはただ神から出ることを、心でも口でも認めること」(「ジュネーブ信仰問答」(1542年),問7-13参照)ができる私たちとされつづけるからです。神さまからの憐れみの約束です。なんという幸いでしょう。