2019年1月9日水曜日

1/6「パンと杯の秘儀」コリント人への第一の手紙11:17-29


                     みことば/2019,1,6(主日礼拝)  196
◎礼拝説教 コリント人への第一の手紙 11:17-29    日本キリスト教会 上田教会
『パンと杯の秘儀』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
11:17 ところで、次のことを命じるについては、あなたがたをほめるわけにはいかない。というのは、あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっているからである。18 まず、あなたがたが教会に集まる時、お互の間に分争があることを、わたしは耳にしており、そしていくぶんか、それを信じている。19 たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、分派もなければなるまい。20 そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。21 というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。22 あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。23 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、24 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。26 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。27 だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。28 だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。 (コリント手紙(1) 11:17-29)

 まず23-25節です。「わたしは主から受けたことを、また、あなたがたに伝えた」と一人の伝道者は語りかけます。これがすべての伝道者の基本の働きであり、その中身です。伝道者のというだけではなく、すべてのキリスト教会とクリスチャンの働きと生活の中身です。主から受けた。だから、伝えられたとおりに、それを伝える。しかも救い主イエスご自身から直接に受け、命令されているので、だから命令されたとおりにそれに従い、それを行う。神であり救い主であられるイエス・キリストの唯一無二の権威のもとに私たちは据え置かれているのであり、ですからこの一つの権威の他には何一つ尊ぶべき権威はない。この救い主イエスの権威にだけ、私たちは従いつづけて生きる(マタイ福音書28:18-20,使徒4:19,5:29。さて、その中身です。「すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい』」。次に26節。「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである」。ちぎり分けたパンを掲げて、主イエスは「これは私の体である」とおっしゃいました。杯の中のぶどうの実でつくられた飲み物を掲げて、「この杯は、わたしの血による新しい契約である」と。そして、「飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」とお命じになりました。主イエスからこのように命じられましたので、命じられたとおりに、キリストの教会とキリストの弟子たちはこのパンと杯の食事を繰り返しつづけてきました。これからもそうです。
  「渡される夜」と告げられました。ユダヤの祭司長、律法学者、長老たちから送られてきた群衆の手に渡されたのであり、祭司長とローマ総督ピラトの手に渡され、ついには十字架につけられる死刑の死に引き渡されていきました。パンを「私の体」とおっしゃったのは、そのパンを食べる度毎に、十字架の上で引き裂かれた主イエスの体に私たちが預かるためです。その死と復活の恵みに、私たちが預かるためです。杯を掲げて、「この杯はわたしの血による新しい契約である」とおっしゃったのは、その杯の飲み物を飲む度毎に、十字架の上で流し尽くされた主イエスの血潮に私たちが預かるためです。その死と復活によって成し遂げられた救いの新しい契約と祝福に、私たちが預かって新しく生きるためです。「新しい契約」というその新しさは、恵みに値しない、ふさわしくない者たちが、けれどなおただただ神の憐れみによって、無償で、救いと幸いにあずかるという新しさです。また、古い罪の自分と死に別れて、その罪深さを葬り去っていただき、神の御前に、神に向かって新しく生きるという新しさです。パンをとって「感謝なさった」のは、ご自身の十字架の死と復活によって救いの御業が成し遂げられ、それによって神の慈しみ深いご支配のうちに私たちが迎え入れられたからです。その格別な幸いを、主イエスが御父に私たちのために感謝なさったのです。主イエスにならって、主のものとされたこの私たち一同も、格別な救いと幸いに招き入れられていることをはっきりと確信し、御父に感謝して生きることができるためにです。「わたしを記念するため、このように行いなさい」と、わざわざ2度繰り返してお命じになったのは、聖晩餐のパンと杯によって、救いの御業を私たちが魂に深く刻み込むためにです。「記念するため。覚えるため」とわざわざ命令なさったのは、聖晩餐のパンと杯なしには、その恵みをよく覚えていることができない私たちであり、それゆえ私たちが救いの恵みからあまりに簡単にこぼれ落ちてしまいかねないからです。私たちを憐れむからであり、「大丈夫だろうか。恵みとゆるしのもとに留まって、幸いに生きてゆくことができるだろうか」と私たちを心配し、気遣うからです。「取って食べよ。飲みなさい」と命じられるままに、差し出されるパンを食べ、杯を飲むなら、私たちは幸いに晴れ晴れとして生きることができます。「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで主の死を告げ知らせるのである」と語りかけられています。「救い主イエス・キリストがこの私のためにさえ死んで復活してくださった。本当にそうだ」と、その死と復活の力が私たちの魂に刻みつけられ、その力を受け取り、その力に突き動かされて、神を讚美し、神に感謝し、信頼を寄せ、一途に聴き従って生きる者とされてゆく。キリストがふたたびこの世界に来られるときまで、キリストの教会は最後の食卓を再現し、パンと杯の聖晩餐の食卓を永遠に守りつづけます。それは、この世にあって生きている限りは、私たちはいつもずっと道に迷いやすい、とても弱く危うい存在であり、それゆえ主からの助けと支えを必要としつづけるからです。キリストの死と復活の力を覚えつづけ、それによって、神が生きて働いておられますことに目覚めつづけて、そこでようやく私たちは堅くしっかりと立っていることができるからです。神さまに感謝をし、よくよく信頼をし、神にこそ聴き従いつづけて生命を受け取るために。

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 23節以下を読む前に、まず今日は17-22節を読みました。およそ2000年ほど前、信仰をもつ兄弟たちの家々でのごく少人数の集会から、礼拝が少しずつ整えられ、形作られていきました。その途上では、「ここからここまでが礼拝」という区切りや境界線はあいまいでした。けれど最も大切なことは、なにしろ玄関先で靴を脱いでその家に入ったときから出てくるまで、初めから終わりまでずっと、彼らは、『神さまの御前で、神さまに向かって共々に集まっている』ということです。そこで、伝道者は兄弟たちを叱りつけるとても苦々しい言葉を語りかけはじめます。けれど驚くべきことに、その苦くて心を突き刺す言葉こそが私たちを慰め、励まし、生きる喜びと勇気を贈り与えつづけます。我が子を愛してやまない親の愛だからです。17節以下;「ほめるわけにはいかない。あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっている。あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか」。このタイミングで直ちに、パンと杯の23-26節。つづいて、大問題箇所である27-29節です。「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」。ふさわしくないままでパンを食し、ふさわしくないままで主の杯を飲むとは、いったいどういうことでしょう。パンと杯にあずかる時の、その礼儀作法やしきたりや手順のことではありません。むしろパンと杯の前後の、それどころか目の前にパンと杯があってもなくても、自分の家にいて家族の前でも、どこで誰と何をしていても、互いの具体的な付き合い方、いつもの腹の据え方こそが大問題です。兄弟姉妹たち。なんと 貧しく小さな人々があなどられることと、神ご自身とその教会があなどられ、軽んじられることとは一体であり、ひと組だったのです22節。マタイ18:5-6,25:40,ローマ手紙14:15参照)。それぞれの利己心や虚栄心を先立て、自分はふさわしい、適格者だとうぬぼれ、結局はとても偉そうで自分の満足しか考えてないと。27-29節で「主に対して罪を犯し、裁きを自分自身に招くことになる」と厳しく痛烈に批判されていた『ふさわしくなさ。弁えのなさ』に、私たちも目を凝らす必要があります。弁えるべき中身は2つです。(1)主の体のことと、(2)自分自身と。自分についての弁えとは、恵みに値しない罪人である自分が、けれど憐れみを受けて救われたことです。主の体とはキリスト教会であり、それは救い主イエスの死と復活によって救われた罪人の集団です。神に対して畏れと慎みをもたねばなりませんが、同時に自分たちに対しては「たかだか罪人の集団に過ぎない」といつも弁えねばなりません。「~であるべき。それなのにあの人は、この彼は」などと人間的な理想像を勝手に持ち込んではなりません。自惚れて他者を裁いたり見下してしまうパリサイ人の過ちに、この私たちは陥ってしまいやすいからです(ルカ福音書18:9-14参照)。「教会は罪人の集団であり、なおかつキリストの体」と教えられつづけ、私たちも習い覚えてきました。それでもなお、まさかこの自分が神の教会を見くびり、神ご自身に恥をかかせつづけているなどとは夢にも思わない。それは、大いに有り得ます。27節以下の恐ろしい警告は、軽はずみに上っ調子に誤解されやすく、とても危険です。それでも読む必要があり、読みながら自分自身をつくづくと振り返る必要があります。「私だけじゃなく、この人もあの人も誰もが皆、ふさわしくないままに憐れみを受け、受け入れがたいところを受け入れられ、許しがたいところをなおゆるされつづけて。この私自身も、まったくそうだった。ただ恵みによって。うっかり忘れていたけれど」と。パンと杯にあずかることによって「主のからだと血とを犯し、その飲み食いによって自分に恐ろしい裁きを招く危険があります。それでもなお罪人であり、とても重篤な病人(マルコ2:17「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」参照)である私たちは 礼拝の御言葉と聖晩餐の食卓によって支えられ、清くされ、養われつづけて生きる必要があります。しかも、神の御前に正しくふさわしい者など一人もいません。うっかりそれを忘れ果てるとき、私たちはたびたび繰り返して『パリサイ人の病気』にかかり、はなはだしく心を曇らせつづけました。自分は正しい、ふさわしいと自惚れて、他人を軽々しく見下しました。そんなことがあってはなりません。500年も前に、聖晩餐のパンと杯についてこう説き明かされました。『この聖なる宴会は、病める者には医薬である。罪人には慰め。貧しい者には贈り物。しかし健康な者、義しい人、豊かな者には何の意味もない。自分を正しい、ふさわしいとうぬぼれて、好きだ嫌いだなどと自分の腹の思いを先立ててばかりいるこの私には、神の恵みも憐れみも祝福も平和も丸つぶれにされつづけ、水の泡とされつづける。唯一の、最善のふさわしさは、彼の憐れみによってふさわしい者とされるために、私たち自身の無価値さとふさわしくなさを彼の前に差し出すこと。彼において慰められるために、自分自身においては絶望すること。彼によって立ち上がらせていただくために、自分自身としてはへりくだること。彼によって義とされるために、自分自身を弾劾すること。彼において生きるために、自分自身において死ぬことである』。それゆえ私たちは、むしろ自分は何一つも良いものを持たない小さな貧しい者として慈しみ深い贈り主のもとに来ましょう。重い病気を患う半死半生の病人として良い医者のもとに来ましょう。神にも家族や隣人にも背きつづける不届きな罪人として、けれどなお義の創始者のもとに来ましょう。そして死んだものとして、死にかけている者として、生命の与え主であられるお方のもとに来るのだと弁えましょう。神によって要求され、命じられている最善のふさわしさとは、自分自身のふさわしくなさです。それをつくづくと噛みしめる信仰のうちにあります。
だからこそこの信仰は、一切の希望と幸いをキリストにかけ、私たち自身には何一つ信頼を置かないことです(Jカルヴァン「キリスト教綱要」41741-42節)。そして神への信頼と愛です。しかもその信頼と愛とは、不完全なままで神に差し出されても十分とされます。神ご自身が、その不十分で小さな愛と信頼とをいよいよ増し加え、整えてくださるからです。なぜでしょう。なぜならば、私たちが神を選んだのではなく、神が、救い主イエス・キリストが私たちを選んで、神を信じて生きる者たちとして私たちを立ててくださったからです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださって、私たちの罪のためにあがないの供え物として御子をおつかわしになりました。ここに愛があるからです。私たちが全幅の信頼を置いて仰ぎ、信頼し、一途に聞き従うに値する神からの愛があるからです(ヨハネ福音書15:16-17,ヨハネ手紙(1)4:10参照)。なんという喜び、なんという幸いでしょう。