2019年1月22日火曜日

1/20「私は何をすればいいのか?」ルカ3:3-14


                     みことば/2019,1,20(主日礼拝)  198
◎礼拝説教 ルカ福音書 3:3-14                     日本キリスト教会 上田教会
『私は何をすればよいのか?』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 3:3 彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた。4 それは、預言者イザヤの言葉の書に書いてあるとおりである。すなわち/「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。5 すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされ、6 人はみな神の救を見るであろう」。7 さて、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆にむかって言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。8 だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。9 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。10 そこで群衆が彼に、「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」と尋ねた。11 彼は答えて言った、「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」。12 取税人もバプテスマを受けにきて、彼に言った、「先生、わたしたちは何をすればよいのですか」。13 彼らに言った、「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」。14 兵卒たちもたずねて言った、「では、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼は言った、「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」。         (ルカ福音書 3:3-14)

 3節。彼は、「罪のゆるしを得させる悔い改めの洗礼(=バプテスマ)」を宣べ伝えました。今日でも、洗礼を受けたクリスチャンたちは「私は救われた。私は救われた」と言っています。その救いは、罪のゆるしです。罪は、神にも人様にも逆らい、「私は私は」と言い張って自己主張しつづけることです。ですから罪のゆるしは、それを大目に見て「いいよいいよ。ずっとそのままで。ありのままで、そうやって一生ずっと強情に頑固に、私は正しい、私は正しいと言い張って自己主張しつづけていいですよ」と放ったらかしにすることではありません。なぜなら、その自己主張と強情と頑固さは、その人自身をほんの少しも幸せにしないからです。それでは、ただただ物寂しく、ますます憐れで惨めなままです。ですから罪からのゆるしは、がんじがらめに捕らわれ、縛り付けられていたその自己主張と頑固さから自由にされ、そこから解放されることです。だからこそ洗礼は、川にザブンと沈め入れられるだけではなく、そこで同時に、神の福音の言葉がはっきりと告げ知らされねばなりません。神からの福音の言葉が、「ああ私は」とその人の胸に痛みを覚えさせ、悔い改めて心を神へと向けさせます。その強情で頑固で物淋しいだけの自己主張から解き放って、その人を自由な広々した場所へと連れ出すのです。
  では、どうやって凸凹道が整えられてゆくでしょうか。深く薄暗い谷のようにされた人の心がどのように埋められて高く引き上げられ、山や丘のような人の自惚れて思い上がった思いが平らにされ、曲がった道や悪い道のような人の性根や腹の思いがまっすぐにならされてゆくでしょう。まず7-9節。洗礼を受けて、神を信じて生きる暮らしを今日から始めていこうと願って詰めかけてきた人々に向かって、彼は語りかけます、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。アブラハムの子孫であり、すでに神の民とされている、とてもただしくふさわしい私だと彼らは思い込んでいました。それで自動的に救われ、祝福と幸いを約束され、神の恵みにあずかりつづけるはずの自分たちだと。その彼らに向けて、「まむしの子らよ」と。私たちクリスチャンに対しても、もちろんこの同じ厳しい言葉が語りかけられつづけます。「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから逃れられると、おまえたちにだれが教えたのか。悔改めにふさわしい実を結べ。斧がすでにあなたの木の根元に置かれている」。この、燃え盛る炎のような言葉を耳にして、心をジリジリと焼かれて、彼らは遠くから駆けつけてきました。「ああ、私は間違っていた。このままでは全然ダメだ。神さまを信じて生きるはずだったこの私が、いつの間にか、ただただお体裁を取り繕い、人様の顔色ばかりを窺い、人間のことばかりを思い煩い、おかげで神を思う暇がほんの少しもないじゃないか。しかもそのことを何とも思っていない。これじゃあ、神さまからのせっかくの救いと恵みから私は今にもこぼれ落ちてしまいそうだ」と痛感させられたからです。すでに神の民とされ、そのつもりで暮らしてきたはずの多くの人々が心に痛みを覚えて、彼のもとに我も我もと大慌てで駆けつけました。兄弟姉妹たち。彼らはいま改めて、神の民となるための入り口を通ろうとしています。すでに出発して、ずいぶん長く歩いてきたはずのあの彼らが、改めて、幸いに生きることへ向けての出発点を踏み越えようとしています。もしかしたら、あのときも今日でも、心に痛みを覚えて駆けつけた人たちはそんなに多くはなかったかも知れません。それでもなお、ほんのわずかの人々は気がつきます。「あ、これは私のことが語られている。蝮の子、それはこの私自身のことだ」と。救われている「つもり」。神の民とされている「はず」。けれど現実には、その毎日毎日の実態としては、家族の前やいつもの職場では、この私自身はどうなのか。あなたは? 確かに、神さまからの救いと平和にあずかっているのでしょうか。形だけではなく中身も、日曜日ばかりではなく月曜日にも火曜日にも水曜日にも、神の民とされているのでしょうか。そのことがあのとき、あの場所で。そして今日ここで、この私たち一人一人にも激しく問われ始めています。――主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ。ちっとも整えられておらず、凸凹で曲がりくねっている。倒れた木の幹や根に行く手をすっかり塞がれている。埋められなさい。平らにされなさい。まっすぐにされ、ならされなさい。深い谷によって道が途絶えている。けわしい山と丘が立ち塞がっている。道は荒らされ、曲がりくねっている。まさか、これらすべてはこの私自身のことでは? 
  9-14節。そこで群衆が彼に、「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」と尋ねた。彼は答えて言った、「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」。取税人もバプテスマを受けにきて、彼に言った、「先生、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼らに言った、「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」。兵卒たちもたずねて言った、「では、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼は言った、「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」。胸を深く刺し貫かれたのは、ごく一部分のパリサイ人や律法学者たちばかりではなかったということです。そうではなく、遠くから噂を耳にして、「自分のこの目で見たい。この耳で、しっかりと聞き届けたい」と願って集まってきた群衆です。その中に、またわざわざ「取税人たち」と「兵卒たち」の名が挙げられています。取税人の中にはユダヤ人ではない外国人も混じっていました。またユダヤ人であっても、その共同体からは弾き出され、軽蔑され、憎まれ、仲間はずれにされていました。兵卒たちは、およそユダヤ人ではない外国人たちです。そもそもの最初から、ユダヤ人ではない外国人が神の国の福音へと招かれていたことに目を止めさせられます。「わたしはどうしたらいいのか」と、誰も彼もが切羽詰って問いかけます。この自分自身がどんなに罪深いかを知らされ、どんなに重い病いに犯されているのかをこれでもかと突きつけられたからです。恵みに値しない、ふさわしくない、貧しい罪人として尋ねています。とても重い病気を患う病人として医者に問いかけています(マルコ2:17「丈夫な人に医者はいらない。いるのは病人である。わたしが来たのは」参照)。その答えを自分はぜひ知りたいと。次には、預言者から聞かされた生き様は私たちの予想とは違っていました。とてもできないような格別に難しい行ないが要求されたわけではありませんでした。拍子抜けなほどにも、あまりに普通で、単純素朴で、とても簡単です。「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」。例えば、「全財産を売り払い、貧しい者に分けてやれ」などと厳しく容赦なく命じられたのは、あの飛びっきりに大金持ちの青年ただ独りでした(ルカ18:22-23。それは、あの彼が財産に特別に執着しており、しかも自分は憐れみ深く気前も良いと自惚れていたからでした。もし下着を一枚余分に持っているなら、それを分けてあげたらどうだ。さて、難しいでしょうか。もしそうなら、その難しさは、その貧しい者の身になって感じることが難しいからです。もし仮に、自分の親しい友達なら、あるいは自分の親や兄弟や、愛する息子や娘たちなら、もっともっといくらでも分けてあげられます。「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」。これはどうでしょう。いいえ、これはただ当たり前のことを当たり前にせよと、普通に言われているだけです。「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」。そのとおりです。律法の中で最も大切な『公平と隣人たちへの憐れみと、神への忠実』(マタイ23:23。あまりに当たり前で普通ですけれど、胸に手を当ててよくよく思い出してみますと、そんな簡単なことさえ出来ずに欲張り、むさぼろうとして、誰かを脅かしたり、誰かからだまし取ってしまったことが何度もあったことを思い出させられます。私もそうです。あなたは? 自分の給与で満足していなさい。簡単だったはずなのに、他人の家のものを眺めて不平不満を募らせた私たちです。だからこそ、「私たちの日毎の糧を今日も贈り与えてください」と父なる神さまに願い求めつづけるようにと教えられました。それは、満ち足りることを知り、また、必要なもの以外は欲しがってはならないことを知るためでした。その日毎の糧について古い信仰問答はさらに問いかけます、「有り余る財産をもった富む人々はどうして一日分を神に求めることができるだろうか」。「富む人々も貧しい人々も、自分たちの持っているものはすべて神が用いさせてくださらず、また、その恵みによって自分たちに有益なものとしてくださらなければ何の役にも立たないこと知るべき」(ジュネーブ信仰問答 問277-279参照/箴言30:7-9,出エジプト記16:19-30,ルカ福音書12:15-21と答えます。そう、知恵も力も、もちろん私たち自身の一日分ずつの生命も全く同じです。そうしたい、そうしようと思いさえすれば誰にでもできることが勧められています。福音の扉が大きく開かれていることに、誰もが気づかされます。

            ◇

 そう言えば、「わたしたちは何をすればよいのですか」と切羽詰って質問した人々が他にもいました。見比べてみると、この彼らとよく似ています。例えばペンテコステの日に、「イスラエルの全家はこの事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」と主イエスの弟子たちから告げられた人々は、強く心を刺され、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と尋ねました。主の弟子は答えました、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、洗礼を受けなさい」。例えばまた牢獄の看守は、牢獄の中でのとても幸いな光景を目にして、その幸いと祝福にぜひ自分もあずかりたいと心底から願いました。「わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。弟子たちは言いました、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。それから彼とその家族一同とに、主イエスの弟子たちは神の言を語って聞かせました。牢獄の看守は真夜中にもかかわらず、ふたりの打ち傷を洗ってやり、その場で自分も家族も、ひとり残らず洗礼を受け、神を信じる者となったことを家族みなと共に心から喜びました(使徒2:36-38,16:30-34。洗礼者ヨハネの前の群衆も同じです。ただ「マムシの子らよ」と叱られ、ただ「差し迫っている神の怒りから逃れられると誰が教えたのか。すでに斧が木の根元に置かれている」と脅かされただけではありませんでした。思い上がりを打ち砕かれ、その代わりに、へりくだった低い心を贈り与えられ、死と滅びの危機を自分自身のこととしてまざまざと思い知らされ、今にも失われようとする自分自身の生命を惜しみ、嘆き、それだけではなく、幸いに満ちて生きる道をも指し示されました。しかも不思議なことに、難しくはありませんでした。とても簡単なことでした。なんと驚くべきことに、「マムシの子らよ。斧がすでにあなた自身の木の根元に置かれている」というあまりに苦い呼びかけこそが、あの彼らのための、彼らがなんとしても聞くべき慰めであり、力を与え、ふたたび立ち上がらせる福音だったのです。もちろん、この私たち自身にとってもです。罪のゆるしを得させるための、悔い改めを生み出す良い知らせだからです。ああ本当に彼は救い主を人々が迎え入れ、この救い主を信じて生きるための道備えをしました。罪のゆるしを得させる悔い改めの洗礼を。やがて来られる救い主は「ご自分の民をそのもろもろの罪から救う方である」(マタイ1:21と、あらかじめ定められていました。救い主イエスを信じて、罪から解き放たれつづけて新しく生きることが始まります。主は恵み深い神、あわれみあり、怒ること遅く、慈しみ豊かで、災いを思い返される神だからです(ヨナ書4:2)。すぐ目の前に、ほかのどこにもない飛びっきりの幸いが差し出されていました。それをぜひ自分も欲しいと彼らは願い、願った通りに受け取りました。この私たちも、慈しみ深い主なる神さまから同じ一つの希望と祝福を受け取りました。受け取りつづけています。