2019年1月14日月曜日

1/13「荒野で呼ばわる者の声がする」ルカ3:1-6


                      みことば/2019,1,13(主日礼拝)  197
◎礼拝説教 ルカ福音書 3:1-6                        日本キリスト教会 上田教会
『荒野で呼ばわる者の声がする』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

3:1 皇帝テベリオ在位の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイツリヤ・テラコニテ地方の領主、ルサニヤがアビレネの領主、2 アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。3 彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた。4 それは、預言者イザヤの言葉の書に書いてあるとおりである。すなわち
「荒野で呼ばわる者の声がする、
『主の道を備えよ、
その道筋をまっすぐにせよ』。
5 すべての谷は埋められ、
すべての山と丘とは、平らにされ、
曲ったところはまっすぐに、
わるい道はならされ、
6 人はみな神の救を見るであろう」。             (ルカ福音書 3:1-6)

 
  救い主イエス・キリストが神の国の福音を宣べ伝えはじめます。その直前に洗礼者ヨハネは、私たちがこの救い主を迎え入れ、この救い主を信じて生きはじめるための道備えをしました。今日のこの箇所です。『すべてのキリスト教会とその伝道者らは、洗礼者ヨハネにならって、この彼のように道備えをし、主イエスをこそ指差して働きつづけるのだ』と世々の教会は習い覚え、受け止めてきました。人々が救い主イエス・キリストを自分自身の王さま・ただお独りのご主人さまとして迎え入れ、この救い主イエスをこそ信じて聴き従い、そのように生きはじめるための道備え。また、そのように一日ずつを生きつづけるための魂と在り方の道路整備と点検、保守保全。これこそが、キリストの教会がキリストの教会であるための意味と中身です。
 1-2節。洗礼者ヨハネと呼ばれた預言者が働き始める時期が告げられます。その時、その所で、そこに生きる人々を支配していた大小様々な支配者・権力者の名前のもとにです。神に仕える一人の預言者の働きと、そのとき人々の上にどんな者たちが権力と支配を及ぼしていたのかということは大いに関係があるからです。まず、ユダヤの国は植民地とされ、ローマ帝国の強大で圧倒的な支配のもとに置かれていました。その強大なローマ帝国の皇帝テベリオ。テベリオから派遣されて植民地ユダヤを治めていたポンテオ・ピラト総督。またユダヤ地方はいくつかの地区に分割されていて、ピラト総督のしたでそれぞれの地区の支配を担当する領主たちの名も列挙されます。ガリラヤ地区の領主ヘロデ、イツリヤ・テラコニテ地区の領主ピリポ 、アビレネ地区の領主ルサニヤ。また人々の宗教的指導者である大祭司としてアンナスとカヤパ。ただ「アンナスとカヤパが大祭司であったとき」という言い方は少しおかしいのです。正式には大祭司は一人しか任命されない規則です。けれど、先の大祭司だったアンナスはローマの権威によって辞職させられた後でもなお民衆の間に大きな影響力を保っていたらしく、それで、このような書き方がされています。そういう世の中で、預言者は神の言葉を告げ知らせはじめます。告げ知らされた神の言葉はこれらの支配者たちにも及び、彼らにも大きな影響を与えることになります。例えば、やがて救い主イエスの裁判に関わってしまう総督ポンテオ・ピラト、大祭司カヤパ。また洗礼者ヨハネを投獄し、彼を殺害してしまう領主ヘロデなど。世界を支配するローマ皇帝さえも例外ではありません。
  3節。「彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた」。ヨルダン川のほとりの全地方に行ってと書いてあります。けれど他の福音書では、「ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えた。すると、エルサレムとユダヤ全土とヨルダン川付近一帯の人々がぞくぞくとヨハネのところに来て」(マタイ福音書、マルコ福音書)などと報告しています。およそ同じことを報告しています。それほど広い範囲を歩き回ったわけではないかも知れません。けれど、彼の語った福音の言葉は口伝えにどんどん広められ、ほんのわずかの間にエルサレムの都に、さらにはユダヤ全域の多くの町や村にまで届いたでしょう。
  「罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマ(=洗礼)を宣べ伝えた」。罪のゆるしを得させる悔改めの洗礼と告げられ、改めて、私たちは洗礼と聖晩餐について考えさせられます。私たちの教会の信仰告白は、「主の委託により正しく御言葉宣べ伝え、聖礼典を行い、信徒を訓練し、終わりの日に備えつつ主の来たりたもうを待ち望む」と信仰の中身を言い表しつづけています。洗礼と聖晩餐という二つの聖礼典を正しく執り行い、適切に用いるとはどういうことでしょう。なぜ、主から「せよ」と命じられ、命じられるままに洗礼と聖晩餐を執り行い、用いつづけてきたのでしょう。そこには、はっきりした目的と中身があります。「罪のゆるしを得させる」という救いの目的と中身があり、それに向けての「悔改めの洗礼」であり、「悔い改めと感謝のパンと杯」です。ただ形ばかりの虚しいものに成り下がってしまわないために、神の言葉がそれらに結び付けられ、聖霊なる神ご自身の力がそこに生命を吹き込みつづけます。そうであるので、執り行われ、用いられた洗礼と聖晩餐は「罪のゆるし」という救いの実を結びつづけます。神ご自身のご意思とお働きによってです。神に逆らって生きてきた私たちが、胸を深く刺し貫かれ、痛みを覚え、打ち砕かれ、自己中心の強情さを捨て去って、神へと立ち返ります。御心にかなって生き始めよう、ぜひそうしたいと願い始めます。宗教改革者は、「悔い改め」を、ただ形ばかりの悔い改めではなく、信仰の最初の出発点にあったただ一回きりの悔い改めでもなく、日毎の悔い改めであり、一日一日と生涯ずっとつづき、積み重ねられてゆく悔い改めだと説き明かしました。神へと立ち返りつづけて生きる私たちです。
  ヨルダン川で洗礼を授けながら彼が宣べ伝えた「~してはいけない」「~しなさい」という具体的な勧告と福音の教えについて、まず簡単にまとめられています。4-6節です。それは預言者イザヤの言葉の書に書いてあるとおりであると。すなわち「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされ、人はみな神の救を見るであろう」。荒野で呼ばわる者の声がする。遠い昔にイザヤがそのように呼ばわり、洗礼者ヨハネも呼ばわり、すべての預言者たちが荒野で呼ばわりつづけます。ここもそうです。ご覧ください。居心地よく整えられ、暖房ストーブでほどよく温められた素敵な礼拝堂があり、けれどここもまた荒れ果てた世界の一部分であり、私たち自身もまたそれぞれに荒れ果てた物淋しい土地を魂に抱えて生きる、物淋しい荒れ果てた者たちだからです。「主の道」とは、救い主イエスが近づいて来られるための道であり、このお独りの方に伴われ、導かれて、私たちが神のみもとへと歩んでいくための一筋の道です。「整えよ。まっすぐにせよ」と呼びかけられているのは、ちっとも整えられておらず、凸凹で、倒れた木の幹や根に行く手を塞がれているからです。「埋められ、平らにされ、まっすぐにされ、ならされ」と指図されるのは、深い谷によって道が途絶えているからです。けわしい山と丘が立ち塞がっているからです。道は荒らされ、曲がりくねっているからです。この私たち自身の心の有り様です。「すべての谷。すべての山と丘。人はみな」と呼びかけられたのは、すべての人の魂の中に荒野があって、救い主をお迎えするための道、神へと向かって歩んでいくはずの道のどれもこれもがすっかり荒れ果てているからです。そこで預言者は、直ちに「まむしの子らよ」と呼びかけます。(これは7節以下ですから来週くわしくお話しますけれど)パリサイ人や律法学者たちにというだけでなく、国の支配者、指導者たちにというだけではなく、集まってきた群衆に向かって、またもちろん今日ここに集められた私たち一人一人に対しても、「まむしの子らよ」と。
 6節で、「人はみな」と予告されます。人はみな神の救を見るであろう。元々の言葉では、「肉でできた者たちは皆」と書かれています。つまりユダヤ人だけでなく、外国人も。人間様だけでなく、すべて命ある生き物たちはと。ユダヤ人ではない外国人も含めて語りかけられますが、その中でやはり、元々神の子供たちとされていたユダヤ人には一層きびしく語りかけられます。これも来週取り扱う箇所ですが8節、「だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ」。洗礼を受けようとしてぞくぞくと詰めかけてきたユダヤ人たち、つまりアブラハムの子孫たちに、「自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。お前たちのためにも、斧がすでに木の根元に置かれている」と。おかしなことが起きています。『洗礼』はこの最初のときから今に至るまでずっと、神の民の一員とされるための入門の儀式です。《救いへ至る入口。神の民として生き始めるための、出発点》としての洗礼。奇妙な事態です。すでに神の民とされているはずの彼らが、「ああ、私は間違っていた。このままでは全然ダメだ。神さまを信じて生きるはずだったこの私が、いつの間にか、ただただお体裁を取り繕い、人様の顔色ばかりを窺い、人間のことばかりを思い煩い、おかげで神を思う暇がほんの少しもないじゃないか。しかもそのことを何とも思っていない。これじゃあ、神さまからのせっかくの救いと恵みから私は今にもこぼれ落ちてしまいそうだ」と痛感させられました。すでに神の民とされ、そのつもりで暮らしてきたはずの多くの人々が心に痛みを覚えて、彼のもとに我も我もと大慌てで駆けつけました。兄弟姉妹たち。彼らはいま改めて、神の民となるための入り口を通ろうとしています。すでに神の民としての暮らしをし始めて、ずいぶん長く歩いてきたはずのあの彼らが、改めて、信仰生活のその出発点を踏み越えようとしています。しかも、「斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる」などと脅かされて。あんまりです。およそ生身の伝道者が語った説教の中で、このメッセージこそが一番ひどいと思います。この一言だけでも彼は説教者失格でしょう。思いやりや慰めのカケラもなく、あまりに無礼で冷酷非情。だいたい、こんな箇所を礼拝説教に取り上げるのは危険です。聖書朗読として読み上げるのも、あまりに危なっかしい。もし今週と来週それをしてしまったら、その次からは、人っ子一人この教会に来なくなるかも知れません。なぜなら、誰の好みにも性分にも合わないだろうからです。「せっかく一週間分の慰めや元気やパワーを頂こうとしてきたのに、台無しだわ。もう二度と来ませんから」などと非難轟々の扱いを受けるでしょう。すると例えば誰かが言い始めます、「あの洗礼者ヨセフはこう言っていますが気にしないでください。別に、私たちのことを蝮の子らと呼んでいるわけじゃありません。斧がすでに置かれているとしても、それはこの私たちの足元じゃなくて、どこか遠くの他の誰かの足元です。私たちとは何の関係もありません。だからもちろん、今のままのあなたでいいんです。なんの文句もないし、あなたにも私にもどんな落ち度もありません安心安心」と。

                            

 けれどどんなになだめられても、上手に気を紛らせられても、ほんのわずかの人々は気がつきます。「あ、これは私のことが語られている。蝮の子、それはこの私自身のことだ」と。救われている「つもり」。神の民とされている「はず」。けれど現実には、その毎日毎日の実態としては、家族の前やいつもの職場では、この私自身はどうなのか。あなたは? 確かに、神さまからの救いと平和にあずかっているのでしょうか。形だけではなく中身も、日曜日ばかりではなく月曜日にも火曜日にも水曜日にも、神の民とされているのでしょうか。そのことがあのとき、あの場所で。そして今日ここで、この私たち一人一人にも激しく問われ始めています。自分自身を振り返って、よくよく考えてみなければなりません。――主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ。ちっとも整えられておらず、凸凹で曲がりくねっている。倒れた木の幹や根に行く手をすっかり塞がれている。埋められなさい。平らにされなさい。まっすぐにされ、ならされなさい。深い谷によって道が途絶えている。けわしい山と丘が立ち塞がっている。道は荒らされ、曲がりくねっている。まさか、これらすべては、この私自身のことでは? 

罪のゆるしにあずかるための、悔い改めの働きかけが、
ついにとうとう神さまの側から始められています。
山や丘である私たちを低くかがめさせ、
薄暗い谷間である私たちを高く引き上げ、
曲がりくねった凸凹の険しい荒れ果てた道であるこの私たちを
なだらかで広々とした道にしてくださろうとして、
ぜひ、なんとしても、
たとえどんな代償を支払ってでもぜひそうしたいと願って(ローマ手紙5:5-11,8:31-32,ヨハネ福音書14:6-7,テモテ手紙(1)1:15,ピリピ手紙2:5-11を参照)
神さまは、すでに準備万端に待ち構えておられたからです。