2020年6月24日水曜日

われ弱くとも ♪たえなる道しるべの


われ弱くとも (お試しサンプル品④) 
 ♪ たえなる道しるべの   (讃美歌288)   

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。
 『旅人の歌』シリーズ。56番、270番、285番と味わってきて、最後は1954年版讃美歌の288番です。賛美歌21では460番。ちょっと予告、次回からの4曲はクリスマスの讃美歌です。楽しみにお待ちください。さて、旅人の歌。信仰をもって生きてゆくことは、長い旅路を歩いてゆく旅人の姿に似ています。まず、1節と4節は双子の兄弟のようによく似ていますね。1節;「たえなる道しるべの光よ、家路もさだかならぬ闇夜に、さびしくさすらう身を導き行かせたまえ」。4節;「しるべとなりたまいし光よ、今よりなおも野路に山路に、闇夜の明けゆくまで導きゆかせたまえ」。「とても素敵な頼もしい道しるべの光」(119:97-112,ヨハネ福音書5:39-40)がある。それを私もこの手に掲げ持ち、その光に足元を明るく照らされながら歩いている、ああ本当に嬉しい、なんて心強いことかと噛みしめています。それが、私たちクリスチャンの生涯の姿です。足元を明るく照らし出す道しるべの光。それこそが希望と慰めの中身です。わが家と故郷はまだまだ遠い。それなのに日は暮れ、野道や山道を私は物淋しく心細く、トボトボさすらっている。そういう日々はあります。あなたにもこの僕自身にも。足腰弱り果てて、膝もガクガクしてきた。道端のちょっとした小石や凸凹に、よろけて倒れそうになる。そういう日々もあります。あなたにも、また他の誰にでも。けれどなお、主イエスご自身と主からの御言葉の光こそが頼みの綱であり、支えであると、この祈りの人は噛みしめています。
 さて、明るく輝く灯火のような、素敵な大きな人物たちが私たちの周囲にもいますね。信仰の世界でも、芸術や文化や学問や社会的な平和活動の分野でも、スポーツの世界でも。野球の好きな人々にとっては長島茂雄やイチローのような大選手。歌や芸能分野では、昔は美空ひばり、今はモーニングとかAKBなんとかとか。キリスト教の世界でもキング牧師、マザーテレサ、八重の桜、華岡青洲の妻、塩狩峠の青年。「こんなに素晴らしい信仰ですよ。ほらほら、見てください」とその素敵な彼らを私たちはキリスト教の宣伝材料に使おうとします。でも都合が良すぎますね。誇大広告にもなりかねない。「いいけど。でも確かあなたもクリスチャンでしたよね」「え、私ですかあ? いやいやいや、罪深くて愚かで小さくてふつつかで、あまりに恥ずかしいから私のことなんか見ないでください。もっぱら、マザーテレサやキング牧師のことばっかり注目してください」。えええ、それじゃあなんだかイカサマみたいだ。主イエスの時代には、明るく輝く灯火のその飛びっきりの代表選手は洗礼者ヨハネでした。「ヨハネは燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」(ヨハネ福音書5:35)と救い主イエスご自身が仰いました。ほんのつかの間、明るく輝いて見せる者たちがいる。次から次へと現れては消えて、私たちを慰めたり励ましたり喜ばせたり、勇気を与えてくれたりもするでしょう。けれどその人間的な光はやがて直ちに衰えてゆき、彼らは皆、薄暗がりの中へとあっという間に立ち去ってゆきます。私たちもそうです。ほんのつかのま明るく輝く、線香花火程度の光では全然足りない。キング牧師、マザーテレサ、八重の桜、華岡青洲の妻、塩狩峠の青年らを1つに合わせたほどの大きな輝きをほんの束の間、手にしたところで、けれど私たちは幸せにはなれません。救い主イエス・キリストご自身が仰った;「わたしこそが世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光をもつ」(ヨハネ福音書8:12参照)。テレサさんもキングさんもヨハネさんも光を分け与えることができません。この救い主イエスにならできる。だから主イエスを信じる人々もまた「あなたがたは世の光である。あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい」(マタイ福音書5:14-16)とも約束されました。まことの光である主イエスを信じ、このお独りの方に聴き従って生きているし、その福音の光によって私たち自身の生き様や口から出る1つ1つの言葉も腹の思いも照らされつづけており、そのようにして、主イエスの福音の光を周囲の世界や人々に反射させることもできるから。主イエスの言葉と行いとを聞いて、信じた。それこそが、私たちが「世の光」「光の子」と呼ばれる中身であり、理由です。そうそう、もう1年分の放送メニューを組み立ててあるんですけど、来年の9月の終わり第51回目は子供讃美歌の「♪光の子になるため」を味わう予定です。賛美歌21-509番。子供讃美歌の121番;「1 光の子になるため付いて行きます。この世を照らすため来られた主イエスに。(くりかえし)主のうちに闇はなく、夜も昼も輝く。心の中をわが主よ、照らしてください。2 主の輝き見るため進み行きます。示された小道をみ神のみもとに。3 主のふたたび来る日を待ち望みます。信仰を守り抜き、み前に立つ日を」。この子供讃美歌を歌うたびに思います。ああ、そうだったのか。主イエスに付いてゆく。この主が私の心を照らして、暗がりに隠してあった心にも光を当てる。主の輝きを見るために進んでゆく。主を待ち望んでいるし、やがて主イエスの御前に立つ私だと。主イエスの明るく暖かな光をおすそ分けしていただきながら、私たちも、その同じ光の中を歩いてゆくことができる。それが神さまからの約束です。ね、素敵でしょ?
 2節を飛ばして先に3節;「あだなる世の栄えを喜び、誇りておのが道を歩みつ、虚しく過ぎにし日を、わが主よ、忘れたまえ」。この世界で高い地位や名声や財産や大きな栄誉を受けること。人々から誉められたり、感謝されたり、信頼を寄せられたりすること。人から誉められるだけでなく自分自身でも、まんざらでもない。「なかなかたいした人物だ。オレって」と。けれど、その自慢の種や誇りやプライドが自分自身の目をくらませ、歩んでいく足取りを危うくさせる。かけがえのない人生の時間を虚しく浪費させもする。こうした調子の指摘や警告はキリストの教会の中で繰り返し繰り返しなされつづける。伝道者たちがそのように語りかけるだけでなく、いくつもの讃美歌がそのように歌うだけでなく、やはり聖書自身が私たちにそれを警告しつづけます。これは、いったいどうしたわけでしょう。「クリスチャンは誇りやプライドを持ってはいけないんですか?」と度々文句を言われ、嫌な顔をされます。さあ、なんと答えることができるでしょう。聖書自身は、これについて何を語りかけるでしょう。高い地位や名声や大きな栄誉を受けること。人々から誉められたり、感謝されたり、信頼を寄せられたりすること。それらは良いものです。良いもので、とても魅力的なので、私たちの心を虜にしてしまいます。薬物依存症のように、それなしには生きていけない人間を作り出してしまいます。心の自由をすっかり奪ってしまう誘惑ともなります。分かりますか。どんな手を使ってでもそれを手に入れたくなるし、できなければあまりに惨めな虚しい気持ちになります。しかも『誇りやプライド』の中身は『これがあるから私は生きていける』という安心材料であり、頼みの綱です。腕が自慢の職人や料理人はその腕1本が生きてゆくための頼みの綱です。もし怪我でもして、その大切な腕が使えなくなったら、たちまち生活に困り始めます。お金が十分にあるし、銀行に預けてあるから安心だ。すると、その安心材料は直ちに不安材料ともなります。その銀行が倒産したらどうしよう。健康で元気でピンピンしているから安心。じゃあ病気になり年老いて働けなくなったらどうしよう。皆が好意をもってくれて色々助けてくれるから安心。すると、その人々から嫌われ見放されてしまったらどうしようか。もし、それが頼みの綱であり安心材料ならば、その人々から嫌われないように、皆から良く思われるように気をつけて、周囲の人々の顔色と空気を必死に読みつづけて生きていかねばなりません。うんざりするでしょ、息が詰まりますね。だから、「天に宝を積みなさい」と勧められました。ただ恵みによって救われたのだから誇りは取り除かれた。うぬぼれることも卑屈にいじけることも、あなたはもうしなくていいと教えられました。それでも、どうしても誇りたくて誇りたくて仕方がないなら、主なる神さまをこそ誇りなさい。それならいい。それ以外はやめておきなさいと(ローマ手紙3:21-28,コリント手紙(1)1:26-31)。そうすると歌の3節「わが主よ、忘れたまえ」。虚しい生き方をしてきましたが、それをジクジク叱ったり嫌味を言う神ではありません。それじゃあクリスチャンになって、誉められたりけなされたりして一喜一憂する虚しさや惨めさとキッパリ縁を切れたのかと問われるなら、どうです? そうでもない。いまだに、同じように、つまらないことでうぬぼれたりいじけたりしつづけている。忘れて、新しくなりたいのは、むしろ自分自身のほうです。それなら、「わが主よ忘れてください」ではなく、「主よ、私に、あの虚しい在り方を忘れさせてください。『誇る者は主をこそ誇れ』と聖書に書いてあるとおりの私になりたいのですと共々に願い求めたいのです。「世間的に見て繁栄している、豊かに満ち足りて快適に暮らしている、若くて体力もあり、健康で元気で、だから幸せ」と、信仰とは別の腹積りで、ずいぶん違う心得をもって歩いていた日々があり、そういう虚しい日々を思い起こす中で、この人はいっそう主への信頼を強めています。ああ。わたしは勘違いしていた。勘違いしながら、うぬぼれたり僻んだりしていた。けれど今は、この一筋の光こそが私の頼みの綱であると。
さて、2節。「行くすえ遠く見るを願わず、よろめくわが歩みを守りて、ひと足またひと足、導き行かせたまえ」。びっくりです。「ええ嘘ォ!」と誰もが驚くようなことを、この祈りの人は歌っています。「行くすえ遠く見ることを、私は願いません」と。5年後、10年後に、私がどうなっているか。私が死んだ後、愛する連れ合いや子供たち孫たちがどんなふうに生活を立てているか。困っていないだろうか、などと僕も気に病みます。それがどうでもいいというわけではありません。とても大切なことなんだけれど、だからこそ神さまにすっかりお任せして、それで安心、と晴々して歌っています。たとえ今、私の足腰や膝がガクガクヨロヨロしているとしても問題なし。このよろめく足を、私たちのおぼつかない危うい歩みを、けれど主こそが、ひと足、またひと足と導いてくださるなら。それなら安心だ。それなら心強い。ぜひそうしていただきたい。この1点をこそ願い、確信し、信頼し、感謝し、さらに願い求めています。
行くすえ遠く見るを願わず、よろめくわが歩みを守りて、ひと足またひと足、導き行かせたまえ。ここを歌う度毎に、びっくり驚かされます。ああ、そうだったそうだったと思い返します。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。一日分ずつの必要な糧、そこには今日一日の生命さえ含まれていたのでした。これもまた数ヶ月、数年分ずつではなく、一日また一日とただ恵みによって神さまから贈り与えられていたのです。神さまが決めておられる日が来て、「はい。ここまで」と言われるとき、私たちは「分かりました。今日までありがとうございました」と感謝を述べて立ち去ってゆくのです。それがいつなのか、いつまでなのかは私たちには知らされておりません。ずいぶん長く旅路を歩んできた私たちです。そうそう、別れを告げる長い説教の中でモーセは仲間たちに、「あなた自身のこれまでの歩みを振り返ってみよ」と語りかけました。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」(申命記8:2-4)。ああ本当だ。喜びと感謝があふれます。