2020年6月4日木曜日

私を導く讃美のうた ♪主われ愛す


 『われ、弱くとも』 ~私を導く讃美のうた~ (試供品①)
   ♪ 主 われを愛す (讃美461番,21-484)   金田聖治

 こんばんは。讃美歌を読み味わい、ごいっしょに歌いましょう。
 第1回目は『主われを愛す』です。聖書が説き明かされるだけでなく、1曲1曲の讃美歌も、ちゃんと十分に説き明かされる必要と価値があります。いくつかの讃美歌の心を自分の魂に刻み込むなら、それは、自分自身の心で聖書を読むためのとてもよい道案内となるでしょう。もし、心で味わいはじめるなら、讃美歌が歌っている通りの、その福音の現実を実際に、また具体的に生きることもできます。ね、素敵でしょう。先に言っておきますが、歌の背景とか、どういう人がいつどんなときどういう気持ちで作ったかということはあまり話しません。興味がある人は自分で調べてみてください。そういう解説書もいくつか出ていますね。ここではむしろ、歌そのものと聖書自身が証言する福音から読み味わっていきたいと願っています。歌を作った人々もまた聖書をよく味わいつづけ、そこで養われた信仰から歌がにじみ出てきたはずだからです。聖書自身から溢れ出てきた信仰の生命がそこにあります。だからこそこの「主われを愛す」という歌も、元々の歌詞では「聖書はこう言う。聖書はこう言う」としつこく繰り返していました。150年も昔からの古い讃美歌。びっくり仰天です(外国から来たクリスチャンの友だちに「ええっ、そんな昔の歌を歌ってるの。あたしのおじいちゃんのおじいちゃんの、そのまたおじいちゃんの時代よ」と嫌な顔をされたことがありました。その通り。大昔からの歌です。だからカビが生えて古臭くて、時代遅れになっているのか。じゃあ、新しくて今風でポップならいいのか。うーん。心を鎮めて、よくよく考えてみなければなりません。確かに、カビが生えて使い物にならなくなる歌も沢山ある。けれど、何百年何千年たっても新しいままの、生命にあふれた歌もある。だって、それを言うなら聖書もそうでしたね。かなり古いし大昔だ。もし、カビが生えて時代遅れだと思うなら、その人は自分の好みにあった別の、現代的で今風のものを探せばいい)
 さて、主われを愛す。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」。大昔の歌、150年前から歌いつづけてきました。
  まず1節を見てください。主われを愛す。主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ。「矢でも鉄砲でももってこい。何があってもへっちゃらだ。怖いものなんて自分には何もないぞ」っていう人がもしいるなら、その人は嘘をついてゴマカシテいるか。それとも世間のことも自分自身のことも何も分かっていない大バカ者か、そのどっちかだと思います。怖いものが山ほどあり、強がって見せても誰でも皆とても心細い。人間は弱くて脆い存在だし、この世界は恐ろしいものがたくさんある危険な世界でもあるからです。それでも、「恐れはあらじ」って歌っています。社交辞令ではありません。嘘ついて、やせ我慢したり取り繕っているわけでもありません。自分自身の弱さや脆さを知らないわけでもなく、この世界には危険が満ちていることもちゃんと分かっています。それでもなお、晴れ晴れとして「恐れはあらじ」って歌っています。素敵ですね。もし本当にそういうふうに生きることができるなら、どんなに心強いことでしょう。「主が私を愛してくださっている。主はとても強いので、だからたとえこの私が弱くても、小さくても貧しくても、恐れはない」と歌っています。ポイントは2つです。『主が私を愛してくださっている』ことと、『主が十分に強い』ということ。もっぱらその2つをこそ頼みの綱として噛みしめつづけています。ここで例えば、「主は私を愛してくださってるし、私自身も主を愛しているので」とは言わない。言いたくても言えないのです。主イエスから「私を愛しているか。愛しているか、愛しているか」と3度も続けて問われて、ひどく心を痛めた弟子がいました(ヨハネ福音書21:15-)。挫折したばかりのペトロです。他の弟子たちも私たちも同じです。主を誠実に愛しぬく弟子なのかどうか、本当かと問われるなら、誰も彼もがみな失格です。「われ弱くとも」は、そのことを確認しています。たとえ私たちがあまりに小さくても弱くても、ふつつかで臆病で狡くても。それでもなお、救い主イエスからの愛と力強さはそれらを包み込んで遥かに大きい。これが、キリスト教信仰の肝心要です。何を信じているのかと問われれば、これをこそ答えることができるでしょう。家族や友人に質問されるときにも、恐れや思い煩いの只中で自分で自分自身に答えるときにも。この私自身は、いったい何をどう信じているのか。

      主 われを愛す。主は ○○○なので、
      だから、たとえ私は ▽▽▽であっても、
      恐れはない。乏しさも、心細さもない。ああ、本当に。

だって私たちの恐れ、思い煩い、ひがんだり、いじけたりの中身はいつも、「私は▽▽▽だから」だったでしょう?  大きいとか小さいとか、強いとか弱いとか賢いとか、人より多く働いたとか少なかったとか。できるとか出来ないとか。豊かで有り余っているとか、乏しいとか。その右往左往の中に紛れて、『主われを愛す。主は強いので』をたびたび見失ってしまいました。それで、恐れと悩みの大波に呑み込まれてしまいました。主われを愛すの『主』。父なる神さま、子なる神イエス・キリスト、そして聖霊なる神さま。1つ思いになって働くこの3つの神さまを信じている。主とは、この3つの神さまのことを言っている。そうなんだけど、やはりその中で特に主イエスです。神さまの愛は、特に救い主イエスによって、私たちにはっきりと現され、差し出されつづける。繰り返しの部分に目を凝らしましょう、「わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」。このように自分自身に向かって噛んで含めるように、しつこく言い聞かせつづけている。魂に、なんとかして刻み込もうとしている。
  この歌の土台もまた、詩23編だと思えます。主に養われる1匹の羊の心強さや安らかさは、「主が私の羊飼いであり、私はその主に養われる羊である」という1点にかかっていました。そこに憩いの水辺や青々とした草原が広がっているのかどうか、この私自身が強いか弱いか賢いか愚かか、などと詮索する隙間もない。いいえ、むしろたっぷりしたおいしい草と水があって満ち足りて寝そべっているときなど、10日に1回か月2回です。食べるものも飲む水もない乾いた荒れ野をさまよい、野の獣に脅かされ、死の陰の谷を歩むその連続であるとしても、それでも「何も欠けるところがない。恐れはない」と、あの羊は晴々して歌っています。目の前に見える青々とした草原に信頼しているわけではないし、素敵な水場が頼みの綱なわけじゃない。そうではなく、ただただ自分の羊飼いにこそ全幅の信頼を寄せてます。なにしろ主イエスこそが良い羊飼いであってくださり、私はこのお独りの方に養われる羊なのだから。2節、3節、4節にも目を向けましょう。
 2節、「わが罪のため栄えを捨てて天よりくだり十字架につけり」。これこそ1節の『主が私を愛してくださっている』ことと『主は強い』の具体的な中身です。くだってきて十字架の上で生命を差し出してくださるほど、それほど愛してくださっている。その愛は、それほどに強い。3節、「みくにの門を開きて我を招きたまえり。いさみて昇らん」。神の国の扉が開かれていて、主イエスが私を招いてくださっている。だからワクワクしながら登っていく。2つのことを同時に覚えておきましょう。1つは、やがて死んだあとに神の国に入れてもらえる。もう1つは、今すでに入っている。神の国は神さまのご支配のことです。神の国を引き連れて、すでに救い主イエスご自身が来られたのでした。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ福音書1:15)。信じた私たちは、すでに神さまのご支配とお働きの只中に生きているのです。4節、「わが君イエスよ、われを清めて、よき働きをなさしめたまえ」。1節で「主は私を愛してくださっている」「主は、この私のためにも十分に強くあってくださる」だから私には恐れはない。私の主イエス、私の主イエス、私の主イエス、私を愛してくださっている本当にそうだ。1節は、この2節と4節で具体的なはっきりした中身と方向性を与えられています。4節も本当に大切です。「私の主人でありボスであるイエスよ、どうか私を清くしてくださって、こんな私にも良い働きをなさせてください」。主イエスにはできると知っています。信じてもいます。だから願い求めています。できるかどうか分からないと思うなら、誰もわざわざ願い求めたりなんかしません。試しにせいぜい1回か2回くらい冷やかし気分で願うことはできても、それをずっと願うことなど決してできないでしょう。この人は信じています。なにしろ主イエスになら、私自身の心の思いも腹の据え方もすっかり清くすることができる。こんな私にさえ、良い働きを必要なだけ十分にさせることができる。ちゃんと知っているし、主イエスに信頼している。だから願い求めています。本気で、どうぞぜひと。これこそが、私たちクリスチャンの希望です。「いつか人様や世間様をあっと驚かせるような大きな働きをしたい」などと願いますか。けれど、そういう立身出世や名誉欲などとは、この願いは少し違っています。『良い働きをしたい』と多分、だれもが願います。ぼくもそうです。働きの大きさ小ささじゃなくて、その人のための大切な役割があるからです。その人のための守備範囲があります。その人自身のためのエデンの園と言ってもいい。自分が置かれた場所を耕し守ること(創世記2:15)。お父さんお母さんであれば、子供たちを精一杯に愛して、養い育てること。あるいは年老いた親の世話を精一杯にすること。与えられた働き場所でそれぞれ精一杯に誠実に働くこと。主イエスなら、たとえあなたがだらしなくても責任感が乏しくても、心が挫けやすくても、それでも必要な良い働きを十分にさせることができる。他の人から認められようがどうしようが、誉められようがけなされようが、なにしろ主イエスが。そして、「良い忠実なしもべよ、よくやった」(マタイ25:23)と誉めてもいただける。素敵ですね。ぜひ、そうしていただきたい。だから朝も昼も晩も口ずさんでいます。わが君イエスよ、われを清めて良き働きをなさしめたまえ。
  ぼく自身としては、この1曲だけで十分だなあとつくづく思います。やがて足腰立たなくなり、目も耳も記憶力も体力気力も、およそすべての力を失っても。たとえ認知症老人になって、すっかり忘れ、何も分からなくなったとしても、ぼくの枕元にこの歌さえあれば、十分に幸いに生きて安らかに死ぬこともできるだろうと。祈ります――

     ♪ 主 われを愛す。主は強ければ われ弱くとも恐れはあらじ
       (おりかえし)わが主イエス わが主イエス 
わが主イエス われを愛す
      わが罪のため 栄えを捨てて 天よりくだり 十字架につけり
      み国の門を開きて われを迎えたまえり 勇みて登らん
      わが君イエスよ われを清めて よき働きをなさしめたまえ
                         (初出 201410月)