2020年6月10日水曜日

われ弱くとも ♪我ら主をたたえまし


 われ弱くとも
 ♪我ら主をたたえまし 
 (お試しサンプル② 讃美歌6番) 

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。その前にまず、皆さんに謝ります。ほとんどの讃美歌集は普段使っている現代語じゃなく、「我と汝」「たたえまし」「あがめばや」みたいな文語や古典の言葉でできています。今時、文語訳聖書を使って礼拝をしている教会はどこにもないはずなのに、けれど讃美歌集は現代の日常的な言葉になりそこねました。若い人たちも安心して使えるような現代の普通の口語文を目指したはずの賛美歌21さえ、結局は、あちこちで古い言葉と新しい言葉のゴチャマゼみたいな、中途半端なことをしています。どうか許してください。皆が皆、国語や古文が好きで得意というわけじゃないのに。それで仕方なしに、国語の授業みたいな説明を折々に挟みます。言葉の意味をいっしょに味わうためです。若い人たちや国語の苦手な人たちには本当に申し訳ありません。少し我慢して付き合ってくださると嬉しいです。
 さて、讃美歌6番「我ら主をたたえまし」;「(1)我ら主をたたえまし、きよき御名あがめばや、来る日ごと誉め歌わん。神にまし王にます。主のみいつ類いなし。(2)世は世へと歌いつぎ、喜びと畏れもて、主のくしき業を告げ、慈しみ知れる者、み栄えを誉め歌う。(3)み恵みは限りなく、主に頼る子らにあり。み怒りを忍びつつ、憐れみをたれたもう。主を愛し、主に仕えん」。実は、歌いはじめから雲行きが怪しい。神さまを信じるこの人たちは心細い思いを噛みしめ、崖っぷちに立たされています。「さあ皆で、主をたたえようじゃないか」と威勢良く励ましているわけじゃない。「たたえまし」「あがめばや」(=反実仮想,または実現可能性の低い願望の意味)はとても弱気な言葉使いで、「たたえることが出来たらいいんだけど、どうかなあ無理だなあ」とか、「もしできることなら神さまを崇めたり讃美したいんだけれども」って、心が挫けそうになっています。あるいは、「この私こそは神さまを讚美しよう、神さまにこそ信頼しよう、わかったね。ほらほら」と自分で自分に懸命に言い聞かせている。だからこそ、とてもリアルで現実的な祈りなのです。
  歌の心を知るための1つの手がかりは聖書自身です。楽譜や、あるいは歌詞の右下に、いつも小さく聖書箇所が記されています。それらの聖書箇所から溢れ出てきた歌ですし、歌を味わいながら折々にこれらの聖書箇所へも立ち戻っていきます。詩18編は、悩みや苦しみからすっかり救い出されて、それから晴れ晴れして「神様ありがとう。助かりました」などと讃美しているわけじゃない。むしろ、苦しみと悩みの真っ只中に置かれて呻いています。くじけそうな心を必死に励まそうとしています。助けを求めて、神さまに呼ばわり、神さまにこそしがみつこうとしています。神さまを讃美することの本質はここにあります。例えば、ピリピ手紙4:4は「常に喜びなさい。いつも喜んでいなさい」などと奇妙なことを言っています。なんですか、それは。もし本気でこの言葉を聞こうとするなら、私たちは立ちすくんでしまいます。いつでも何があっても喜んでいて、どんなときにも神様に信頼したり感謝したりしている。それがクリスチャンだと言うなら、「失礼しました」と直ちに荷物をまとめて逃げ帰ってしまいたくなります。ときどき喜ぶことならできます。でも「常にいつも」と言うのです。嬉しいときや順風の日々にというのではなく、悩みや苦しみや痛みの日々にも「常にいつも」と。「辛くても苦しくても無理にもニコニコして、喜んでいるふりをしろ」というわけではありません。やせ我慢や体裁を取り繕うことでもありません。いつも喜べ。『いつも常に』とは、過ぎ去っていかない、色あせず、失われない喜びと確かさの只中を生きよと命じられているのです。それは直ちに『喜びの根源』について語っています。それをこそ指し示しています。主において、主にあって、主の慈しみの御手の内にあって、そこであなたは自分が主の内にあることをこそ喜べ。それは、『主によって生きる』ことの回復であり、喜ぶことの中身は主への感謝であり、主への信頼であり、主ご自身に対する確信です。さらに言うならば、喜びも確かさも見失ってしまったあなたは、喜びの源である方の御前へと大慌てで駆け戻って来いと招いています。キリストの福音とキリストご自身のもとへと立ち戻って来なさい。いつの間にか喜ぶことも感謝することも、祈ることも聴くことさえ見失ってしまった、自分がいったい何者であり、どこから来て、どこへと向かおうとしているのか、どなたに道を伴われて歩いているのかもすっかり分からなくなってしまったあなたは、そのあなたこそは、大慌てで、主の憐れみとゆるしのもとへと必死に駆け戻って来なさい。
  「主なる神さまを、この私もたたえることが出来たらいいんだけど、どうかなあ、無理だなあ」とか。「もしできることなら神さまを崇めたり、讃美したい。けれども」。心が挫けそうになりながら、弱りはてながら、すっかり諦めてしまいそうになりながら、必死に自分に言い聞かせている。「この私こそは神さまを讚美しよう、神さまにこそ信頼しよう、わかったね。ほらほら」と。自分自身の弱さや危うさをこの人はよく知っている。しかも、神さまを信じる信仰さえも揺さぶられ、脅かされている。崖っぷちです。神さまを信じて生きるほか、この自分には生きる道がないこともよくよく分かっている。その崖っぷちで、必死になって神さまにしがみつこうとしている。2節で、「主のすばらしい御業を告げ知らせよう」「神さまの栄光を誉めたたえよう」と呼びかけていますが、けれどもう、「誰でもみんな」とは呼びかけていません。誰にでもできることじゃなかった。ただ、「神さまの慈しみを知っている者たちは。そのあなたたちこそは」と呼びかけています。3節でも、はっきりと「主に頼る子供たちには、ある」と断言しています。「神さまは分け隔てをなさらない」と言いつづけてきました。分け隔てをし、区別や差別をしあっているのはもっぱら私たち人間のほうだと。神さまの恵みと憐れみは限りない。無尽蔵に溢れ出て、どこの誰にもたっぷりと注がれつづけます。神さまの忍耐もそのように誰に対しても注がれる。ではなぜ、それらの神さまの恵や憐れみや忍耐が「主に頼る子供たちには、ある。頼らない者たちには、ない」と言うのか。恵み、憐れみ、祝福、幸い、神さまからのさまざまな良い贈り物。それらは『やりとり』だからです。『はいどうぞ』と差し出される。『ありがとう』と受け取る。それで、受け渡しが完了します。分かりますか。分け隔ても差別も区別もなさらない神さまは、誰にでも『はいどうぞ』と贈り物を差し出しつづけます。何の区別も条件もなしに。けれど、知らんぷりしてそっぽを向いていたら受け取り損ねます。『あ。私なんかがもらっていいんですか。本当ですか。わあ嬉しい』と受け取って、そこではじめてその贈り物はその人のものになります。「主に頼る子供たちには、ある。頼らない者たちには、ない」。宅急便の不在通知がお宅の郵便受けに山ほど溜まっているみたいなもんです。それでは受け取ったことにならないし、嬉しくもなんともない。不在通知に気づいて、「届けてください。待ってますから」と電話して、受け取って、ダンボール箱の中身を見て、手にとって、「うおおお」。これで、やっと受け取り完了です。
  楽譜の右下に小さく記してあった詩18編。苦しみと悩みの只中で、心が折れそうになりながら、あの人は必死に思い起こしていました。神さまがどんな神さまだったか。これまでどんなよいことをしていただいたのかと。受け取ってきた恵みと憐れみを思い起こし、1つまた1つと数え上げていました。あのときもそうだった。あのときもそうだった。あのときもそうだったと。読んでみて驚きますが、詩編は神さまを讚美しているばかりじゃなくて、むしろ心挫けていたり、ウジウジしたり、神さまに向かって「いつまで放っておくんですか。私のことを忘れちゃったんですか。早く助けに来てくださいよ」と文句を言ったり、嘆いたり、たびたび神さまに喰ってかかったりしています。嘆きの歌があまりに多い。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜ私をお見捨てになるのか。なぜ私を遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか」(22:1-2)などと。けれど嘆きも、ただ嘆くばかりでは終わらない。嘆きは希望と感謝へと変えられていきます。涙は喜びへと、神への信頼へと。なぜでしょう。なぜなら、決して見捨てない神さまがおられるからです。耳を傾け、目を凝らし、どんどんどんどん近づいてきてくださる神さまがいてくださるからです。「わたしの神よ、なぜ私をお見捨てになるのか」と深く嘆いた詩22編も直ちに、「わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われてきた。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない」と。だからこそ深い嘆きで始まったはずのあの歌も、喜びと感謝と、あふれる希望をもって歌い終わります。
  この人も、また私たちも、深い悩みの只中に据え置かれます。たびたびそうです。「主なる神さまを、この私も讃美することが出来たらいいんだけど、どうかなあ、無理だなあ」とか。「もしできることなら神さまを崇めたり、讃美したい。けれども」。心が挫けそうになります。弱りはてて、すっかり諦めてしまいそうになります。だからこそ、この自分自身が受け取ってきた主の慈しみを思い起こそうとしています。詩編18:26もそうですが、詩編はたびたび『主の慈しみに生きる人』と繰り返していました。その度に、「ああ、そうか。そうだった。クリスチャンは主の慈しみに生きる人だった。うっかり忘れていたけど、この私もそのはずだった」と。神さまを讚美するのは簡単でしょうか、難しいでしょうか。誰にでもできるでしょうか、滅多にできないでしょうか。神さまに対しても「まあ、すばらしいわね」と口先だけのお愛想を言うくらいしかできないでしょうか。それとも、心から本気で誉めたたえたり、感謝したり、一途に信頼を寄せたりもできるでしょうか。他の人たちのことはもうどうでもいいんです。あなた自身の問題だし、この僕自身の問題です。それは、ただただ「主の慈しみを自分自身のこととして知っているかどうか」に掛かっています。知っているなら、誰にでもできる。知らないなら、できない。神さまからの恵みと憐れみを確かに受け取って、それをその手に、今でもちゃんとガッチリ握りしめているのかどうか。手に持ってあるのか、ないのか。主の慈しみを知り、その慈しみの只中を生きる私でありたい。ぜひそうありたい。だからこそ、神さまを讚美したいのです。朝も昼も晩も、本気で、心の底から。例えば詩編103編も、讃美の心を歌っています;「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる」。祈りましょう。