2020年6月22日月曜日

6/21「神の国はすでに来ている」ルカ11:14-26

                       みことば/2020,6,21(主日礼拝)  272
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:14-26                      日本キリスト教会 上田教会
『神の国はすでに来ている』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
11:14 さて、イエスが悪霊を追い出しておられた。それは、物を言えなくする霊であった。悪霊が出て行くと、口のきけない人が物を言うようになったので、群衆は不思議に思った。15 その中のある人々が、「彼は悪霊のかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言い、16 またほかの人々は、イエスを試みようとして、天からのしるしを求めた。17 しかしイエスは、彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ国が内部で分裂すれば自滅してしまい、また家が分れ争えば倒れてしまう。18 そこでサタンも内部で分裂すれば、その国はどうして立ち行けよう。あなたがたはわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出していると言うが、19 もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。20 しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。21 強い人が十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である。22 しかし、もっと強い者が襲ってきて彼に打ち勝てば、その頼みにしていた武具を奪って、その分捕品を分けるのである。23 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。24 汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからないので、出てきた元の家に帰ろうと言って、25 帰って見ると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。26 そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである」。   
                                    (ルカ福音書 11:14-26)

3:16 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。17 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。 (1コリント手紙3:16-17)


 まず14節です。救い主イエスは祈りの力とそれが神を信じて生きてゆくうえでどんなに重要であるのかを示しておられました。ここで、物を言えなくする悪霊から一人の人を救い出されました。私たちの口と舌は良く用いられることもあり、あるいは悪く用いられて私たちに過ちを犯させもします。「祈り求めるように」と励ます救い主は、同時に、ご自身に従って生きる私たちに及ぼうとする悪魔の力を打ち砕き、あの彼と私たちの舌を回復させ、神の御心にかなった良い目的のために用いることができるようにしてくださる主です。主なる神こそが口と耳と目を授け、それを私たちに用いさせます。
 15-20節。力ある大きな御業を見せつけられて、けれども救い主とその働きを受け入れたくないと思った人々は、「それは神の働きではなく、悪魔の働きではないか。悪魔自身の力で、その手下たちや悪霊どもを追い払っているのではないか」と言いがかりを付けようとします。20節。救い主イエスは仰います、「しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」。神の指によって、神の御手によって、と聖書は語りかけます。あるいは神の腕が十分に長い。神の御翼の陰に私たちは保護され、守られているなどと。神の力がそのように具体的に現実的に発揮され、私たちに及んでいる。そのことを十分に理解し、はっきりと思い描くことができるようにと、このような言い方がなされつづけます。神ご自身の力が救い主イエスによって確かに発揮され、目の前にあらわされている。そうであるなら、神の国はすでに私たちのところにきたのである。だからこそ主イエスを信じて生きる私たちは、「神の国が来ますように。神の御心がこの地上でも成し遂げられますように。神の御名こそがあがめられ、たたえられ、信頼を寄せられますように」と願い求めつづけて生きるようにと命じられています。
 しかも、「神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」と、とても強い口調で、断固として宣言されています。自分たちの国であり、自分たちの思い通りに何でもしていると私たちが思い込んでいるところに、あなたがた人間たちの国ではなく、神の国が来ていると。救い主の存在や働きを受け入れようとしない世界の只中に、神が来てくださり、先祖と私たちのための救いを準備し、先祖と私たちを罪と悲惨の中から解き放ってくださる方として現れました。膝を屈めて、救い主イエスとそのお働きを迎え入れなさいと。神の国の福音を宣べ伝えて最初におっしゃったときの言葉をはっきりと思い起こしましょう。「時は満ちた、神の国は近づいた。だから、悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ福音書1:15。神の力と権威と働きを一手に引き受けて、救い主イエスが地上に降り立ち、神の国の福音を宣べ伝えはじめました。やがて、ご自身の死と復活によって、救いの御業を成し遂げました。神の国が来たのです。自分自身とまわりにいる人間たちのことばかりに気を取られていた心の思いと在り方をグルリと180度、神へと向け返し、裏返して、そこでとうとう、この私たちや家族もまた神の国の福音を信じて生きることができるのです。
 さて最後の部分。21-26節、「強い人が十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲ってきて彼に打ち勝てば、その頼みにしていた武具を奪って、その分捕品を分けるのである。わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからないので、出てきた元の家に帰ろうと言って、帰って見ると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである」。強い人が十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である。このたとえは何を言い表し、私たちに何を警告しようとしているでしょうか。教えられてきたいくつかの聖書証言が、これらの言葉と響き合います。「神を信じて生きる私たちは、その一人一人が神の住まう家・宮・神殿とされている。その中に神が主人として住んでくださる」(1コリント手紙3:16-17参照)と約束されていました。つまり、神を信じて生きるようにしていただいた私たちそれぞれが、その一軒ずつの家です。その家とそこにある財産すべてを守って、そこに住んでおられる主人こそが神だということです。それなのに、「十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲ってきて彼に打ち勝てば、その頼みにしていた武具を奪って、その分捕品を分ける」と不吉な恐るべき光景が予告されていました。私たちを神が御自身の家となさり、そこに住んでいてくださる。家の主人である神さまが十分に武装して、その家を守る。さて、そうであるならば、家である私たちを安全に守っていくための神の武具や装備とは、いったい何でしょう。神に住んでいただく一軒一軒の家である私たちは、どのようにして安全に守られてゆくのか。「十分に武装して自分のその家を守っている限りは」安全である。そうではなく武器や戦いの装備が十分に用意されていなければ、他のものに奪い取られて、その私たちは無残で惨めな姿とされる。どういうことでしょう。1コリント手紙3:16-17でも、よく似た危うい状況が描き出されていました、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」。心を鎮めて、よくよく思い巡らせてみなければなりません。自分自身が神の家・宮・神殿とされ、そこに神が住んでくださる。そのことを教えられ、よく習い覚えてきたはずの私たちです。「あなたがたは~知らないのか?」と問いかけられるとき、もし万一、当然よく知っているはずのことを忘れているなら、とても困ったことになる。だから、知っているはずのことをはっきりと思い起こしなさいと命じられています。もし万一、思い起こすことが出来なければ、神の宮とされた幸いなその人々が、神の神殿である自分自身を壊してしまい、神によって滅ぼされてしまうこともありうるからと。緊急事態です。いったいどうやって、神の宮とされた自分自身を壊してしまうことができるというのか。それと、今日の箇所「強い人が十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である。しかし」という不吉な警告は似ています。もしかしたら、同じ一つのことが警告されているのでは。しかも、今日の箇所全体は祈りについての教えであり、神に祈り求めながらどのように生きることができるかという教えです。十分に強いはずの神の働きを、この私たち自身が邪魔して、弱くしてしまうことがありえます。私たち自身の不信仰、傲慢、人間中心の思いが。「だから神の恵みによって強くなりなさい。悪魔の力に抵抗してかたく立つために神の武具を身につけなさい」(エペソ手紙6:10-と励まされていました。
 分かりました。恵みに値しない罪人がなお神の憐みを受け、ゆるされて救われる。価なしに、ただ恵みによって、ただ救い主イエスを信じる信仰によってである。このことを知り、確信し、よく弁えていること。「神が味方であり、それゆえ他の何ものをも恐れなくてよい」と神に信頼を寄せ、聴き従い、幸いをすべての助けを神にこそ願い求めていること。日毎に悔い改め、神に感謝し、憐みの神へと立ち返る――、これらすべてがただ神から贈り与えられる信仰の武具であり、神ご自身の武具と武装である。また、それこそが家の主人である神が十分に武装してその家を守っている状況です。そうであるなら、その家は安全。もし、そうではないならば、キリスト教会としてもそれぞれの家族の営みとしても、私たちの家はかなり危うい。また別の聖書は証言しました、「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」(エペソ手紙6:10-,2コリント手紙12:9-10。神の力が十分に発揮され、現わされるために、神に十分に信頼を寄せつづける私たちであることができます。なぜなら私たちは、とても強い主人に住んでいただいている一軒ずつの家であるからです。とうとう、はっきりと分かりました。この自分が何者であるのかをです。私は只独りの主人に仕える、あまりに貧しく愚かでふつつかなしもべに過ぎません。けれどなお、そのご主人さまはしもべを守り、支え、何があっても助けとおすことがおできになります。だからこそ、しもべであるこの私は、そこでようやく迷いも恐れも苛立ちや心細さも捨てて、両方の足を力一杯に踏んばって立つこともできます。すべての信頼を神さまに置いて、その御意思と御心に聞き従って、どこで何をしていてもそこでそのようにして神様に仕えて生きることができます。どんな苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めることができます(『ジュネーブ信仰問答』問7 J.カルヴァン)。そのとき、家の主人であられる強い神さまが、その御力を十分に発揮して、私たちを安全に堅固に守りとおしてくださるからです。そのとき神の恵みは、すでに私たちに十分であるからです。