2020年9月24日木曜日

われ、弱くとも ♪安かれ、わが心よ

 われ、弱くとも 17         讃美歌298

 ♪ 安かれ、わが心よ  

 

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。1954年版讃美歌の298番、賛美歌21532番『安かれ、わが心よ』です。1節、2節をまず読みます;「1節。安らかであれ、私の心よ。主イエスは共にいてくださる。痛みも苦しみも雄々しく忍び耐えなさい。なにしろ主イエスが共にいてくださるので、耐えることのできない悩みはないのだから。2節。安らかであれ、私の心よ。荒々しい波や風が脅かすときにも、父なる神の御旨にお委ねしよう。御父が私の手を取るようにして導いていってくださるからだ。しかも望みの岸は、もうすぐそばまで近づいているのだし」。2つの曲を読み比べてみました。ほとんど同じ歌詞です。ただ2節目、1954年版では「父なるあまつ神の御旨に委ねまつれ」。賛美歌21では「御旨に委ねまつれ」として、委ねる相手が父なる神の御旨だとはあまりはっきりとは言い表さないままにした。それは1節で、「主イエスは共にいます。主イエスが共にいてくださるので」と、安らかに忍耐できるための安心材料として主イエスに集中しているからです。それなのに2節で「父の御旨に委ねる」と急に言われてしまうと、なんだかギクシャクしてしまうような、信頼を寄せるべき相手は主イエスなのか、それとも父なる神なのかと混乱してしまいそうだからです。多分、この信仰の本質部分がここで問われています。聖書に証言されて、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神と、3つの神を信じている。3つの神さまはそれぞれバラバラ勝手にではなく1つ思いになって働いてくださる。それが、三位一体なる神さまを信じることの具体的な中身です。この理解がちゃんと自分の腹に収まって揺るぎないのかどうか、と問われています。ここが、この信仰の急所だと思えます。何度も言ってきましたがとても大切なので、もう1回説明します。「縦並びに並んでいる3つの神さまです。分かりますか」と僕は先生から教えられました。先頭に父なる神、その後ろに主イエス、その後ろに聖霊なる神さま。主イエスは、「父は。父は」と指し示しつづけ、「父から命じられたこと以外、私は何一つしない」(ヨハネ5:19,30参照)とまで仰る。父への絶対的な信頼と服従です。主イエスのほうが格下だからでもなく部下なのでもなく、御子イエスはへりくだった謙遜な神さまなのです。また、だからこそ御父は「これは私の愛する子。これに聴け」と私たちの心と耳とを主イエスへと集中させ、天と地の一切の権能を主イエスにすっかり委ね、主イエスを王としてこの世界を支配させました(マタイ3:17,17:5,28:18,コリント(1)15:24-25)。聖霊なる神さまもまた、へりくだった謙遜な神様で、「主イエスは、主イエスは」とイエスを指し示し、イエスの教えを思い出させ、心に刻ませ、主イエスを信じる信仰を私たちに与えつづけます(ヨハネ14:26,コリント(1)12:3,ヨハネ(1)4:1-3)このようにして、3つの神さまは1つ思いになって働く。ここが急所です。もし、この理解が揺らぐなら、信仰はなし崩しに崩れ落ちてしまうでしょう。ですから1節の「主イエスは共にいます。主イエスが共にいてくださるので」と、安らかに忍耐できるための安心材料として主イエスに集中することは正しい。しかも2節で、「天の御父の御旨にすべて一切を委ねる」こともまた同じく正しい。主イエスと御父とは1つ思いであるからです。

  しかも2節の「天の御父の御旨にすべて一切を委ねる」という信頼のと服従の姿や在り方を、主イエスご自身こそがはっきりと私たちに示してくださいました。まず、主イエスが教えてくださったあの『主の祈り』です。呼びかけと讃美に挟まれた6つの願いは、天にいます御父への信頼をこそ告げていました。「天の父よ、あなたの名をあがめさせてください。あなたの国を来らせてください。あなたの御心をこそ、この地上で成し遂げてください」。しかも私たちは、ゲッセマネの園でのあの祈りの格闘を、ここで直ちに思い起こすことができます。マタイ、マルコ、ルカと3つの福音書がこれを報告しています。マルコで読みます;「一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、『わたしが祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい』。少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように』」(マルコ14:32-)。このゲッセマネの園での主イエスの祈りの格闘の姿から何をどう聞き取ることができるのかが、キリストの教会にとって、私たち1人1人のクリスチャンの生涯や毎日の暮らしぶりにとっても分かれ道となりました。確かに、主イエスはひどく恐れて身悶えさえしている。死ぬばかりに悲しい、苦しいと心の内をさらけだしもする。まったくその通りです。では、主イエスは絶望しておられるのか。望みも希望もすっかり失って、天の御父への信頼も消え失せてしまったのか。そうだと言う人々がおり、いいやそうではないと言う人々もいます。あなたはどう考えるのか。「アッバ、父よ」と、救い主イエスは天のお父さんに向かって呼びかけています。アッバ。その地方の方言ですが、ほかのどの国でも、どんな時代でも、2、3歳くらいのまだほんの小さな子供は父親に向かってこのように呼びかけます。「お父ちゃん。おっとう」などと。ですから私たちの救い主は、この時、小さな子供の心に返って天のお父さんに向けて、「トウチャン。オットウ」と呼ばわっています。不思議なことです。イエスさまはもちろん、もうすっかり大人なんですけれど、このお父さんの前では、このお父さんに向かっては、小さな小さな子供なのです。主イエスは「死ぬばかりに悲しい」とひどく恐れて身悶えしながら、「この苦しみのとき、この苦い杯」と噛みしめながら、しかしそこで、ユダヤ人の指導者たちやローマ提督や役人や兵隊たちを見回すのでありません。この崖っぷちの緊急事態の局面で、ここで、父なる神さまにこそ一途に目を凝らします。「おっとう。どうかこの苦い杯を私から取りのけてください。しかし私が願うことではなく、あなたの御心にかなうことが行われますように」(14:36)。「御心にかなうことが。御心のままに」。自分を愛してとても大切に思ってくれるお父さんやお母さんといっしょにいるときの、小さな小さな赤ん坊の心です。そう言われて、ある人々は渋い顔をします。何十年も生きてきて、頭も心もすっかり頑固になってしまった老人たちが反論します;「年をとった者が、どうしてまたオギャアオギャアと生まれたり、おっとう、トウチャンなどと口に出せるだろう。できるはずもない(ヨハネ福音書3:4,9参照)。あなたもそう思いますか。いいえ私たちは新しく生まれることができます。父なる神さまに向かって、救い主イエスがしたように、「おっとう、トウチャン」と。ここにいるこの私たちだって、心底から親しく呼ばわることができます。呼ぶと応えてくれるオットウがいてくださるんですから。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ福音書10:15)と主イエスご自身が語っていました。子供のようにって、どういうこと? 子供のどんな性質や状態や心を言っているのでしょう。簡単そうで難しい。子供が純粋無垢で清らかだなどと聖書は言っていません。そういうことではない。むしろ、人間は罪深い存在で、小さな子供も例外ではないと聖書自身は証言していました(創世記8:22)。子供のようにという決定的で最終的な答えが、ここにあります。ゲッセマネの園で、「アッバ父よ」と祈った、このときの救い主イエスのような『子供』です。つまりは御父への、一途で手放しの信頼。それこそが『子供のように神の国を受け入れる』こと(ローマ8:14-16参照)。難しい、よく分からない? それなら逆に、『大きな大人のように、頑固な年寄りのように神の国を拒んで退ける』ことなら、よく分かるでしょう。だって、私たちはずいぶん長く生きてきてすっかり大人になってしまいました。年も取って、頭も心もカチンカチンに堅くなってきました。たいていのことは分かっていると思い込んでいるし、自分は賢いと思っています。礼儀作法も世間様の常識もよくよく弁えているつもりの私だ。じゃあ、そのあなたには、神の国や神の福音を受け入れることはかなり難しいでしょう。

  そして、この歌のためのもう1つの大きな土台が、歌詞の右下に小さな文字で記されていました。マタイ28:20。マタイ福音書の最後の出来事。復活なさった主イエスが弟子たちを世界宣教へと送り出す場面です。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。ここが、あの彼らと私たちのためのいつもの出発点です。あの弟子たちと私共1人1人も、このようにして主イエスから送り出されました。送り出されて、それぞれの場所で、月曜日も火曜日も水曜日も朝も昼も晩も、主イエスに仕えて働いています。この出発点へと、何度も何度も立ち返ってきます。山の上で主イエスの御前にひれ伏した弟子たちの中に、「しかし疑う者もいた」と報告されています。どんな気持ちがしますか。心が波立ちますか? いいえ、むしろ逆です。そもそもの最初から、神さまを信じる者たちは信じながら疑う者たちばかりでした。疑いの心はなかなか拭い去るこごができませんでした。だからこそ1500ページあまりのこの分厚い聖書は、「恐れるな恐れるな」と励ましつづけます。神を信じる人々は、なかなか十分には神さまを信じきれず、だからこそ恐れ続けました。なお神さまはその信仰の乏しい人々を見捨てることも見離すこともなさいませんでした。例えばモーセはヨシュアに語りかけました、「強く、また雄々しくあれ。あなたこそ、主が先祖たちに与えると誓われた土地にこの民を導き入れる者である。あなたが彼らにそれを受け継がせる。主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない」(申命記31:7-8)見放すことも見捨てることもしない。先立って行き、共にいてくださる。その主は、イエス・キリストのことでした。アダムとエヴァも、ノアも、アブラハムとサラも、モーセも、ギデオンもソロモンも母マリヤもザカリヤも、トマスもペトロもパウロも、そして私たちも。疑いながらも、けれど主イエスの御前にひれ伏している。それが私たちのための希望です。主と共におり、主に仕えて働く中で、私たちの恐れも疑いも、痛みも苦しみも悩みもウツウツとした思い煩いも、主ご自身がだんだんと少しずつ拭い去ってくださるからです。

 3節について、1つだけご一緒に思い起こしましょう。「神さまの国がやがて来る。そのとき、憂いが消え、神さまの御顔を仰ぎ、命の幸いを受け取る」。けれど神さまの国はいつごろ来るのでしたか。やがて終わりの日に。そう、それが1つの正しい答え。もう1つの同じく正しい答えは、今現にすでに神の国は私たちの生活の只中に来ている。復活の命の幸いを受け取る。いつ? やがて終わりの日に、そして今現に、すでに受け取りつづけている。だからこそ、私たちは悩みと苦しみの只中でなお安らかであることもできるのです。見なさい。主イエスがそこにいます。