2020年9月7日月曜日

われ、弱くとも ♪わが身の望みは

 われ、弱くとも14        讃美歌280

 ♪ わが身の望みは

 

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。1954年版讃美歌の280番、賛美歌21474番「わが身の望みは」です。2つの賛美歌集を読み比べておきました。だいたい同じです。少し古い言葉使いがありますが、そんなには困らないかも知れませんね。1節で「主イエスの外には依るべき方なし」は、主イエスの他には頼りとできる相手はいない。繰り返しの「わが君イエスこそ救いの岩なれ」。私の主人でありボスであるイエスこそが救いの岩である。また3節と4節で、「み誓い。み前」の「み」。「み名。み国。み心」などともう何度も見かけました。あなたのという尊敬を表す言い方で、主なる神さまご自身の誓い。主なる神さまの御前。父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神さまという3つの神さまですが、やはり特には救い主イエスのその救いの誓いであり、イエスさまの御前です。

まず1節2節をとおして読みましょう、「わが身の希望はただ主にかかっている。主イエスの他には頼りとできる相手はいない。私のボスであるイエスこそ、救いの岩である、たしかに救いの岩である」「2節。風がとても激しく波立つ真っ暗な夜にも、主イエスのみもとに舟の錨を下ろして心安らかであろう」。2節を読んだ途端に、私たちはすぐに主イエスと弟子たちのあの湖の上の小舟の場面を思い起こすでしょう。マタイとマルコ福音書がそれぞれ、湖の上での2つの出来事を報告しています。1回目は、主イエスが弟子たちと一緒に小舟に乗っていました。主イエスは端っこのところで居眠りなさっていて、波風が激しくなってきて、弟子たちは大慌てで主を揺さぶり起こしました。「先生、私たちが溺れても構わないのですか」(マルコ福音書4:38)。主の弟子たちの多くはそのガリラヤ湖で生まれ育ち、そこで働きつづけた漁師たちでした。その湖の怖さも危険も、よくよく知っている彼らでした。だからこそ、激しい突風が吹き荒れ、舟が波をかぶり、水浸しになるほどになって、彼らはその危うさと恐怖を身にしみてビリビリと感じ取っていたでしょう。けれどこの肝心な時、危機の只中にあって、主は舟の片隅で腕枕をして呑気にスヤスヤ眠っておられました。何ということでしょう。僕の大切な友だちはこう言います。「辛い体験をすると、神さまの御心が分らなくなる。クリスチャンなのに、ついつい神さまを疑ってしまう。私は弱い人間だ」と。まったくその通りです。辛い体験をすると、神さまの御心が分らなくなる。たとえ何十年も礼拝に通ってきたはずのクリスチャンであっても、ついつい神さまを疑ってしまう。あるいは、信じられなくなってしまう。その通り。だって人間だもの。人間ではないクリスチャンというものがもしあるとすれば、苦しくても辛くても何があっても、疑うことも迷うこともないかも知れません。けれど、クリスチャンである以前に、私たちは、ごく普通の、どこにでもいるような当り前の、生身の人間であったのです。聖書自身も、「そんなものだ。人間って」と言っていますよ。たしかにあの時、あの波風吹き荒れる小舟の上で、あの彼らは、信仰と不信仰との分かれ目の挟間に立たされていました。主イエスへの信仰も、主に信頼することも、「どうぞよろしく」と主に委ねることもすっかり吹き飛んでしまって、そこにはもう何も残っていない、かのように見えます。けれども兄弟たち。だからこそ、その瀬戸際の崖っぷちの姿に、信仰の本質があざやかに立ち現れます。ここに、主イエスを信じる信仰があります。なぜなら彼らは、大慌てで、主イエスのもとへと駆け戻っています。なぜなら彼らは、今こそ必死で主にしがみついています。主の体を揺さぶり、肩や腕をつかみ、まるで食ってかかるようにして切実に訴えているからです。「助けてください。あなたは、この私が溺れてしまっても構わないんですか。なんとも思わないんですか」と。

 ですから苦しんでいるあなたは、よくよく聞いてください。忍耐の限界をこえて苦しみを味わうことは、あります。逃げ道も出口もまったく見出せない真っ暗やみの日々も、あります。「地獄だ。とても耐えられない」と溜め息をつくばかりの日々もあります。本当にそうです。だから、「耐えるべきだ」などと軽はずみなことはとても言えません。あなた自身も、「耐えなければならない。耐えるべきだ」などと思ってはなりません。むしろ必死に、一目散に、そこから逃げてきなさい。そこから、なりふり構わず避難してきなさい。叫びなさい、「助けてくれ」と。あなたの苦しみを、あなたの惨めさを、あなたがどんなに辛いのかを。憎しみも腹立ちも、嘆きも、なりふり構わず大声で叫びなさい。誰に対してよりも、なにより神さまに向かって。そして次には生身の人間に向かっても。あなたは声を限りに叫びなさい。もちろん、そうしてよいのです。気兼ねも遠慮も、大人ぶった体裁を取り繕うことも、もう要りません。では質問。あの弟子たちは、あそこでどうして本気になって食ってかかっていると思いますか? なぜ、大慌てで駆け戻って、恥も外聞もなくすがりついていると思いますか。大変な危機で、まさに崖っぷちで、生命の瀬戸際に立たされているからです。しかも《この方ならきっと必ず》と知っているからです。あなたも知っているんでしょう、《この方なら、きっと必ず》と。

強がって見せても、誰でも本当は心細いのです。ぼくも繰り返し泣き言を言いました。この頃もたびたび言っています。心を挫けさせることがあり、すっかり萎えてしまう出来事があり、次々とあります。誰にも分かってもらえないような、誰1人も支えてくれないような、身の置き所がないような、どこかへ消えてなくなりたいと思うような、そういう心細さと惨めさを誰もが味わいます。大慌てで主のもとに駆け戻り、主の肩を揺さぶり、訴える。主の足もとに身を投げ出して、「助けてください。支えてください。今にも溺れてしまいそうです。主よどうぞ、この私を」。ここです。クリスチャンはここに立ちます。ここが福音の定位置。恵みを恵みとして受け取るための、私たちのための、いつもの場所です。「そこへと駆け戻り、そこに我が身を据え置きなさい。あなたもそこにいなさい」と主は、私たちを招くのです。主イエスは立ち上がり、波と風を叱りつけます。すると波と風は静まります。

 個のキリスト教会は、小舟です。1人のクリスチャンもまた、小舟です。その生涯も、1日ずつの営みも、やはり小舟です。その家庭も家族もまた、小舟です。主イエスは、この私たちの貧弱な舟の中でも起き上がり、権威をもって断固として叱りつけ、「黙れ。鎮まれ」とお命じになります。波や風に対して。そしてこの私たち自身に対しても。私たちの周囲を激しく吹き荒れる風は、なかなか手強いのです。波も、かなりしぶとい。私たちの足もとに広がる湖は深く、暗く、底が知れません。しかも私たちの乗った舟はあまりに貧弱で、舟底の板もあまりに脆く薄い。恐れと不安、心細さのために、たびたび水浸しになってしまう私たちです。私たちの小さくて貧弱な舟に、手ごわい波が次々と打ち寄せます。今にも暗い湖の底に沈んでしまいそうになります。いいえ、むしろ私たち自身の荒ぶる魂こそが難物です。吹き荒び、大波が立ち騒いで、いっこうに鎮まる気配もありません。主が断固として起き上がり、叱りつけ、「黙れ。静まれ」と権威をもって命じてくださるのでなければ、黙ることも鎮まることもできません。「あなたはどこを向き、何を見ている。あなたは、どこに足を踏みしめて立っている。あなたは何に期待し、何を待っている。あなたは一体、誰の声を聞き、何に信頼しているのか。あなたは誰のものか。主なる私のものではなかったか。主である私の声にこそ聴き従うあなたではなかったか。《主である私からのゆるし、恵み、救いの約束》にこそ、その只中にこそ自分の身を据え置くあなたではなかったか。違うのか。そうでなくて、どうやって安らかに喜ばしく生き抜いてゆくことができるのかと」と叱りつけてくださるのでなければ。

  「いったい、この方はどなただろう。命じれば、風も波も従うではないか」(25)。波と風を恐れることを止めたので、ここでようやく、まるで初めてのようにして彼らは主に信頼することを始めました。それまでは、風や波や湖や周囲の人間たちや、空気を読むことや、さまざまなモノを手当たり次第に恐れて忙しくしていたので、それで、主に信頼する暇がほんの少しもありませんでしたから。心を鎮められた彼らは、とうとう《主イエスとは何者なのか》と問い始めました。主イエスに従って歩いていく旅路の間中、この同じ問いを問い続け、自分自身で答えつづけていくのです。私たちも問いつづけ、自分で答えつづけます;「このイエスという方はどなたなのだろう。何よりこの私にとって、私が生きてゆくこの波風立つ悪戦苦闘に対して、どんな意味をもっておられるのだろう。私が味わう苦しみや困難にとって、私の喜びと恐れに対して、私の希望と慰めにとって、私の拠り所と支えに関して、この方は、いったい何者であられるのか。ぜひ知りたい」と。初めには、ただ聞きかじっただけの、とってつけたような、本や辞典に書いてあるような答えがあり、また信仰を持ち始めたばかりの若いころの答えがあり、3040代で掴み取った答えがあり、7080代の頃の答えがあるでしょう。「向こう岸に渡ろう」(35)と主が誘ってくださったのです。「ぜひ知りたい」と私たちも願ったのです。山や坂があり、底知れぬ深く暗い湖も行く手に立ち塞がります。たしかに小舟にすぎません。その通り。しかし主イエスが乗り合わせていてくださいます。その主が「向こう岸に渡ろう」と仰る。主を知ることにおいても、向こう岸があります。主を主と仰ぐ従順と信頼においても、向こう岸があります。主にゆだねる幸いと平安においても、日々の私たちの腹の据え方においても、やがて辿り着く《向こう岸》があります。「主は私たちを見捨てることなく、見放すこともない」と喜び歌う向こう岸があります。「あなたの慈しみに拠り頼みます」と喜び踊る向こう岸があります。ぜひとも一緒に渡っていこうと、私たちの主イエスが促しておられます。

歌の3節4節は、私たちの人生の最終局面を見据えています。「この世の望みの消え行くときにも」と。危うい生涯を私たちは生きています。いきなり重い病気にかかることがあり、会社をクビにされることもあり、頼りにしていた仲間や友人たちから背を向けられることもある。年老いてだんだんと衰え、出来ていたことが1つまた1つとできなくなる。だから天に宝を積みなさいと促されていました。その宝なら、錆び付いたり虫に喰われたり、泥棒に盗まれることもないからと。また、それぞれの順番で私たちは誰でも死んでいきます。やがて地上の生涯を終えて、最後の審判の場に立たされるときにもと。そこで、最高裁判所主席裁判長の席に座っているのがどなたであるのかを、あなたははっきりと知っていますか。救い主イエスです。これは、ちゃんと覚えておかねばなりません。コリント手紙(1)4:3-5です、「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」。私たちを裁く主席裁判長は救い主イエスです。私たちの罪を背負い、裁かれ、十字架の上にご自身の生命を差し出してくださった方こそが裁き主。ああ、だからこそ主イエスを信じる私たちは心安らかであるのです。終わりの日にも、そして今も、いつでもどこでも誰と一緒のときにも。ただ独りで孤独に過ごす日々にさえも。