2020年9月7日月曜日

9/6「家の主人が帰ってくる」ルカ12:35-40

                                     みことば/2020,9,6(主日礼拝)  283

◎礼拝説教 ルカ福音書 12:35-40                  日本キリスト教会 上田教会

『家の主人が帰ってくる』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

12:35 腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。36 主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。37 主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。38 主人が夜中ごろ、あるいは夜明けごろに帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちはさいわいである。39 このことを、わきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、自分の家に押し入らせはしないであろう。40 あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」。         (ルカ福音書 12:35-40)

                                               

14:7 すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。8 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。9 なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。10 それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。 (ローマ手紙14:7-10)

 まず35-36節、「腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい」。神さまが家の主人であり、私たちはその留守を守って働くしもべたちだということです。

 また、「天に私たちの主人がおられることが分かっています」(コロサイ手紙4:1と、神を信じて生きるすべてのクリスチャンは戒められています。天におられる主人、しかも同時に、それぞれの家にとっても神さまこそがご主人さまであり、私たちは主人に仕えて働くしもべたちである。私たちそれぞれが暮らす一軒一軒の家についても、その家の主人は私たちではなく他の誰でもなく、主なる神ご自身であると。この上田教会も神ご自身がご主人さまであり、私たちそれぞれが住んでいる家もまた神が主人であると。これがとても重要な基本の心得です。

 この35節から12章の終わりまで、救い主イエスは、終わりの日に備えって私たちがどのように生きるべきかを教えようとしておられます。一言で言うなら、主人の帰りを待つしもべのようにして待っていることです。腰にしっかりと帯を締め、そして、明かりをともしたランプを手にもってです。なぜなら、やがて終わりの日に私たちは救い主イエスによる審判をへて、神の永遠の御国に迎え入れられることになっているからです。神の御国に辿り着くことを目指して、地上を旅するように生きる私たちだからです。聖書は証言します、「地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである」(ヘブル手紙11:13-16。私たちが地上にあっては旅人である理由は、この地上の世界をやがて離れ去ることを見据えて、その日のための備えをしながら一日ずつを暮らしているばかりではなく、前へ前へと歩みを進めているからです。神の永遠の御国へと招かれている自分であることをよく分かっており、それを確信し、喜んでいるからです。

 また、明かりをともしたランプを用意していただき、それを自分の手にもって暮らしている理由は、私たち皆が薄暗がりに取り囲まれるようにして普段の暮らしを生きているからです。不安や恐れや思い煩いがそれぞれにあって、心を惑わされそうになりながら暮らしているからです。この世界で暮らしている間は、その心細さや思い煩いはずっと付きまといます。だからこそ、自分の足もとと周囲の様子を照らし出すための明るい灯を私たちは手にもっている必要があります。

 35節から、「腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである」。家の主人がその家全体の管理を私たちに任せて、出かけておられます。家の主人は婚宴に集っているのであり、帰りはいつになるか分かりません。もしかしたら、とても遅くなって真夜中をすぎるかも知れないと告げられています。留守を任せてくださった主人は、私たちが慎み深く、節制して、主人の帰りを待つことを期待し、願っておられます。主人の家で周囲のものたちや出来事に注意を向けながら、その家を守って働く私たちです。その一日ずつの暮らしについて、次週、41-48節でさらに詳しく読み味わうことになっています。怠けたり、気をゆるめて自分勝手になり、主人の御心にかなわないことをしでかすようになると困ります。「私はこの家に帰ってくるから。よろしく頼むよ」と、それぞれに果たすべき役割や責任を与えられ、任せられているからです。

 35節で、「主人が婚宴から帰ってきて戸を叩くとき」と告げられる。家の主人とは、主なる神のことです。旧約聖書の時代以来ずっと、神の民とされた先祖と私たちであり、その私たちと親しく深い絆で結ばれた神です。その関係はしばしば「夫と妻」「恋人同士」「夫婦」の関係にたとえて語られつづけてきました。それを受けて、新約聖書以降、花婿である救い主イエス、その花嫁とされたキリスト教会と個々のクリスチャンだと言い表されつづけてきました(マタイ福音書25:1-13、ヨハネ福音書3:29-30,エペソ手紙5:22-33。ですからここでも、家の主人がわざわざ出かけていった、とても大切な要件は「婚宴」に出席すること。それは、罪人が神のもとへと立ち返ったことを祝う格別な祝いを指し示しているのかも知れません。いなくなった羊を一匹見つけるように、神からはぐれていた罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない99人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが天にあるからです。それは天上でなされる大きな喜びの祝宴です(ルカ福音書15:6-7

また、主人が家に帰ってきて戸をたたくとき、家の誰かがその戸を開けてみて、「そこに立っているのは神だとは気づかないかも知れない」と、不意に思いました。隠れた姿でこの世界や、私たちの周囲を訪ねておられる神です。コップ一杯の水をほしがる、見も知らない哀れな旅人が通りかかり、私たちはその人に親切にしたり、冷たく追い払ったりするかも知れません。隠れた姿でこの世界を訪ね歩きつづける私たちの主人は、あるときには牢獄に捕らわれ、別のときには病気で布団に横たわっているかも知れません。別の貧しく心細く暮らす人たちを、けれど主人のしもべである私たちは、尋ねてあげなかったかもしれません。空腹であり、泊まる宿もないときに、その人たちに、私たちは手を差し伸べてあげなかったかもしれません。終わりの日に、審判の王である救い主イエスが私たちにこう語りかけます、「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれた。あるいは、何もしてくれなかった」と。隠れた姿でこの世界を、私たちの周囲を訪ね歩きつづける主人です。貧しい、哀れな、一人の小さな人の姿で。周囲の隣人たちや家族、友人たちとどのように付き合ってゆくのかが問われつづけます。「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか」。すると、王は答えて仰います。「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ福音書25:35-

 

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 さて、ではなぜ、その主人を待って、私たちは忠実に家を守りつづけていることができるでしょうか。37-38節、「主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。主人が夜中ごろ、あるいは夜明けごろに帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちはさいわいである」。どうしたわけか、主人の帰りをを待ちわびるしもべたちは喜びに溢れ、とても嬉しい気持ちで、いそいそと務めに励んでいます。やがて家に帰ってきた主人は自ら腰に帯をしめてしもべたちを食卓につかせ、進み寄って食事の世話をしてくれるというのです。主人が帰ってくるのがたとえ夜中ごろであっても、あるいは夜明けごろに帰ってきても、そうしてくださる。他のどこにもおられないはずの、とても奇妙な主人です。そんな主人など、この地上でどこを探し回っても見つけ出せません。なぜなら、それは私たち人間のことではなく、主人であられる神さまのことです。「~もしかしたら、食卓に着かせて、その給仕をしてくださるかも知れない」などと、あやふやで不確かなことが言われているわけではなく、「おそらく、この度もまた、そうしてくださるだろう」。だから、「よく言っておく」と特別な前置きまでつけて予告されています。しかも、これまでも度々そうしてくださった、そういうとても思いやり深い、心優しい主人であると私たち一人一人もよくよく分かっている主人です。だから、ワクワクして今か今かと、その帰りを待ちわびることができます。ご自分のしもべたちを、まるで親しい来客や友人のように、愛する家族のように、彼自身の食卓につかせて、自分自身は家に辿り着いた途端に給仕用の帯をしめて、食事の世話をしはじめてくださる。「そうそう。そのとおり」と、主人と親しく付き合ってきた私たち主イエスの弟子たちにはよく分かります。そのような姿をすでに何度も何度も目にしてきたからです。あるときには、食事の途中で水の入ったタライを用意し、弟子たち一人一人の足を洗い、手ぬぐいで拭いてくださった主人です。また、主人として振舞うのでなく、しもべとして身を屈めて仕えるべきことも教えていただいています、「私(=人の子)がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。ちょうど同じように、あなたがたも偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない」(ヨハネ福音書13:4-17,マタイ福音書20:26-28参照)

 「腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい」と私たちは命令されます。心安く、晴れ晴れとしてそのご命令を私たちは聞くことが出来ます。それは私たちに対する祝福でもあるからです。私たちは「ひかりの子」(エペソ手紙5:8,1テサロニケ手紙5:5と呼ばれています。主なる神ご自身がその御言葉をもって私たちの上に輝き出で、私たちの歩む道を真昼のように明るく照らし出してくださるからです。神の言葉は明るく輝くランプのともしびのようで、薄暗い場所でも私たちが歩むべき道筋を明るく照らし出すからです。たとえこの世界が薄暗がりに包まれているとしても、私たちはその只中を歩み通し、滅びの道へと迷い出ることもありません。御言葉の教えの灯火が私たちが進む道をいつも先立って照らすからであり、救い主イエス・キリストご自身が明るく輝く太陽として私たちの上に上っているからです。39節、「このことを、わきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、自分の家に押し入らせはしないであろう」。家の主人は、すべてをよくご存じです。けれど、しもべである私たちはそうではありません。もしかしたら家の主人ではなく、盗賊が夜中に押し入ってくることもありうると、注意を促されています。それなら、どうしたらいいでしょう。盗賊がいつ来ても良いように準備を整えておくことです。そうしたら、家の中に盗賊が押し入って悪さを働くことはできないでしょう。家の主人がいつ家に帰ってきてくださるのかを、私たちは知りません。同じように、盗賊がいつ家に押し入ってくるかも、私たちには分かりません。どちらにしても、いつ誰が来ても良いように準備を整えておくことです。「用意していなさい」と自分のご主人さまから戒められています。思いがけないときに、人の子(つまり救い主イエス・キリスト)が来るからです。