2020年9月29日火曜日

9/27「正しいことを判断する」ルカ12:54-59

               みことば/2020,9,27(主日礼拝)  286

◎礼拝説教 ルカ福音書 12:54-59                     日本キリスト教会 上田教会

『正しいことを判断する』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

12:54 イエスはまた群衆に対しても言われた、「あなたがたは、雲が西に起るのを見るとすぐ、にわか雨がやって来る、と言う。果してそのとおりになる。55 それから南風が吹くと、暑くなるだろう、と言う。果してそのとおりになる。56 偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか。57 また、あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか。58 たとえば、あなたを訴える人と一緒に役人のところへ行くときには、途中でその人と和解するように努めるがよい。そうしないと、その人はあなたを裁判官のところへひっぱって行き、裁判官はあなたを獄吏に引き渡し、獄吏はあなたを獄に投げ込むであろう。59 わたしは言って置く、最後の一レプタまでも支払ってしまうまでは、決してそこから出て来ることはできない」。                            (ルカ福音書 12:54-59)

                                               

5:5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。6 わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。7 正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。11 そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。                             (ローマ手紙5:5-11)


まず54-57節についてです。救い主イエスは、とくに群衆とご自身の弟子たちに対して語りかけておられます。時を見分ける務めがこの自分自身に課せられていることを、私たちは改めて教えられます。56-57節にかけて、「偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか。また、あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか」。なぜ、「偽善者よ」と厳しい言葉を投げかけられるのかというと、あの彼らもこの私たちも今の時代をはっきりと見分けることができるはずであり、それに照らしてなすべき正しいことをし、してはならない悪い行いはしないでおくようにと自分自身で適切に判断できるはずだからです。

 「今の時代」とは何なのか。あの時代にも、今日の私たちの間でも、時を見分けるためのはっきりしたしるしがすでに現わされています。「救い主がこの地上に遣わされ、救いの御業を成し遂げる」という預言者たちのいくつもの預言が成就しているからです。救い主イエスご自身がすでに私たちの只中に現れ、神の国の福音を宣べ伝え、十字架につけられて殺され、その三日目に復活なさいました。けれどもなお多くの人々の目は塞がれて、この声に聴き従うことを拒みつづけました。

 58-59節、「たとえば、あなたを訴える人と一緒に役人のところへ行くときには、途中でその人と和解するように努めるがよい。そうしないと、その人はあなたを裁判官のところへひっぱって行き、裁判官はあなたを獄吏に引き渡し、獄吏はあなたを獄に投げ込むであろう。わたしは言って置く、最後の一レプタまでも支払ってしまうまでは、決してそこから出て来ることはできない」。やがてこの世界に終わりの日が来て、神の救いの御業がすっかり成し遂げられ、裁きをへて、救い主イエスを信じる者たちは神の永遠の御国へと招き入れられることになっています。これが、神からの約束です。差し迫った最重要の課題は、神との和解を受け入れて、神の御心にかなった歩みをしようと願い求めて生き始めることです。手遅れになる前に、間に合ううちにです。この私たち一人一人もまた、自分を訴える人と一緒に役人のところへ向かって歩いて行く途中です。やがて終わりの日に、裁き主イエス・キリストの御前に立たされることになっており、誰一人も例外なく皆が、神の裁きを受けることになっています(1コリント手紙4:1-5,マタイ25:531-46。自分を訴える人がおり、その人と一緒に神の裁きを受けるための道を歩いている。それは、なによりまず神の聖なる律法が私たちに敵対し、私たち自身の申し開きとは正反対の厳しい告発状を読み上げることです。神ご自身が私たちを訴えます。例えば、「殺してはならない」と先祖も私たちも戒められてきました。救い主イエスは仰います、「しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい」と。そのとおりです。しかも私たち自身はいったい何度、兄弟姉妹や家族や隣人に対して腹を立て、「愚か者」とののしり、「バカ者」と繰り返し繰り返しあざけり笑いつづけたことでしょうか。数えきれません。その人々に対しても神ご自身に対しても、まったく申し訳ないことです。その「あなたは殺してはならない」という戒めについて、宗教改革期の信仰問答はとてもよい説き明かしをしています。「自分の隣人に対して嫉みと憎しみと怒りを抱かなければそれば十分なのか。いいえ、そうではありません。神が私たちに求めておられるのは、私たちが隣人を自分自身のように愛すること、その人に対して忍耐と平和と柔和、憐みと友情を示すこと、その人にふりかかる災いを力の及ぶかぎり防ぐこと、自分たちの敵にさえ善を行うことです」(マタイ5:22-25,「ハイデルベルグ信仰問答 問答107」)。この「殺してはならない」という箇所を読み直す度毎に、毎回毎回、自分が恥ずかしくなります。心が痛みます。「自分こそが神さまの憐みの御心に背きつづけている。本当に申し訳ないことだなあ」と突きつけられます。裁き主イエス・キリストの御前に立つ時までに、その罪深い数々の行いについてゆるしを受け取らねばなりません。そうでなければこの私たちは、裁判官のところへひっぱって行かれ、裁判官は私たちを獄吏に引き渡し、獄吏は私たちを獄に投げ込むはずだからです。最後の一レプタまでも支払ってしまうまでは、決してそこから出て来られない牢獄に閉じ込められてしまうからです。

 神との和解、だからこそ目の前のその隣人との和解です。これこそ、救い主イエスの福音が私たちの魂へと差し出してくれる最も重要な贈り物です。神の子供たちとされ、救いと祝福のうちに据え置かれている幸いは、平和とゆるしです。神との間に平和とゆるしを贈り与えられている私たちは、それをお互い同士にも分け合う者たちとされました。もちろん分け隔てなく、まったくの無償で、ただ恵みによってです(2コリント手紙5:18-19「その罪過の責任をこれに負わせることをしないで~」)。聖書は証言します、「わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである」(ローマ手紙5:5-11神の憐みの愛が差し出され、私たちはそれを受け取りました。ここで重要な肝心要は、それが、いつ、どのようにしてかということです。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ」と。これが、十字架のあがないについての聖書自身からのはっきりした証言です。

そして、10節「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるであろう。そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させてくださった私たちの主イエス・キリストによって神を喜ぶのである」。先ほどの『罪のゆるし』の4つの出発点;「弱い。不信心。罪人。神の敵」。神の救いと恵みから取りこぼれてしまいそうな、その危うくおぼつかない片隅に、私たちは繰り返し陥ります。「あまりに弱く不確か。信じ切れない。身勝手で、かたくなで、人間を恐れ、人間のことばかり思い煩い、そのあげくに神を思うことがなかなかできずにいる。こんな私では、神の恵みを受けるのにまったくふさわしくない」。人からもそう思われ、自分自身でもそういう自分にすっかり嫌気がさして失望する日々がやってきます。兄弟姉妹たち。けれどなお私たちは踏み止まります。また、そういう危うくおぼつかなく見える兄弟姉妹や小さな隣人たちをさえ、私たちは決して見限りません。「どうせ、あの人はそういう人間だ」などと侮ったり、軽々しく決めつけることもいたしません。なぜなら、救い主イエスによって神の憐みを知り、救い主イエスによってこそ、神を信じているからです。

  「正しいこと」は数多くあり、私たち人間のそれぞれの正しさも無数にありつづけます。そのために互いにいがみ合ったり、争ったりもしつづけるでしょう。けれど神ご自身の正しさは、この世界と、ご自身がお造りになったものたち(=被造物、ひぞうぶつ)を憐み愛することの中にはっきりと現わされました。恵みに価しない罪人をなお憐れんで愛する神であり、「罪人を救うために救い主イエス・キリストをこの世にお遣わしになった」(1テモテ手紙1:15憐みの正しさです。「なぜ正しいことを自分で判断しないのか」と救い主から問いかけられていました。神を信じて生きる私たちクリスチャンにとっては、正しい判断とは神の憐みの御心にかなったことを選び取り、ぜひ行いたいと願い、そのように生きることです。神の律法が教えるように、『神を心から愛し、その御心に聴き従うこと。そして隣人を自分自身のように愛し尊ぶこと』(マタイ22:36-40です。では、神が現に確かに私たちの罪をゆるしてくださっていることは、何によって、はっきりと分かるでしょうか。自分自身にも、私たちといっしょに生きる連れ合いや子供たち、隣人たちにとっても、「ああ本当に、その通りだ」と。それぞれに気難しく心がとても頑固だったはずの私たちが、けれど、あるとき気がつくと、一人の小さな隣人を自分自身のように愛しています。憎しみと怒りを抱かないばかりではなく、ついにとうとう、その一人の小さな隣人に対して忍耐と平和を、憐みと友情を精一杯に差し出そうとしています。穏やかに共にいる私たちとされています。憐みの神を喜び、神に感謝をし、信頼を寄せ、それだけでなくその一人の小さな人を喜び迎え入れています。キリストの愛こそが私たちを駆り立てて止まなかったからです。ゆるされた罪人同士であることが、そのようにしてこの私たちの間でも、少しずつ実を結びはじめます。神の憐みの実を。なんという恵みでしょう。

 

     ≪祈り≫

神さま。あなたがなんでもお出来になること、まったくの善い心と、温かい慈しみとを備えておられますことを信じさせてください。そしてさらに、あなたが私たちを祝福と救いの中へと選び入れてくださっていますことが、ただまったくの恵みであり、私たち自身の内にはそうしていただくだけのふさわしさも値打ちのないことを思い、救い主イエス・キリストのうちに差し出された憐みによってあなたを信じて、一日ずつの暮らしを建て上げてゆく私たちであらせてください。

     脅かされ、惨めに身を屈めさせられ、心細く貧しく暮らすものたちが世界にあふれています。私たちもそうです。どうか憐れんでくださって、助けの御手を差し伸べてください。

     あなたは私たちと世界のすべてを、この救い主イエス・キリストにお委ねになりました。救い主キリストこそが私たちとすべてのものたちの救いの守り手であられます。私たちが、このお独りの方から離れず、背を向けて遠ざかることもなく、いつもこの方の前で従順であり、ついにあなたの永遠の御国にあなたが入れてくださるまで、お守りください。

     主イエスのお名前によって祈ります。     アーメン