2020年9月11日金曜日

われ、弱くとも ♪キリストには代えられません

われ、弱くとも15          (賛美21-522)  

 ♪ キリストには代えられません

 

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。賛美歌21-522番、Ⅱ編195番の「キリストには代えられません」。友だちの石川さんが、この歌を大好きでした。この歌と、もう1つ『丘の上の主の十字架』と。もう好きで好きで、朝も昼も晩もずっと口ずさんいるって言ってました。石川さんは年取っておじいさんになってから洗礼を受けてクリスチャンになりました。息子はずいぶん前からクリスチャンで、息子より遅れてずいぶん後になってから洗礼を受けたとき、石川さんは喜んで息子にこう言いました、「俺とお前は親子だけど、今日からは信仰の兄弟同士でもある。親子だけど兄弟だ。しかもお前が先にクリスチャンになって大先輩なんだから、お前のことを今日からはお兄さんと呼ぶぞ。おい、兄さん兄さん。いいな息子よ」。1節2節をとおして読みましょう;「キリストには代えられません、世の宝もまた富も、このお方が私に代わって死んだゆえです。世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、行け。キリストには代えられません、世のなにものも。2節。キリストには代えられません、有名な人になることも、人の誉める言葉も、この心を惹きません」。

「キリストには代えられません」と私たちは、どんな顔つきで、どんな気持ちで、どんな時に歌うのでしょう? まあ、いろいろですね。涼しく、晴々して歌うときもあるでしょう。感謝と喜びに溢れて歌うときもあるでしょう。けれど、この歌の心はそれだけではありません。むしろ、信仰の危機に直面して、崖っぷちに立たされて、そこで必死に呼ばわっているように思えます。「キリストには代えられません。代えられません」と繰り返しているのは、ついつい取り替えてしまいそうになるからです。惑わすものにそそのかされ、目も心も奪われて。キリストの代わりに、富や宝を選んでしまいたくなる私たちです。キリストの代わりに、様々な楽しみに手を伸ばしてしまいたくなる私たちです。キリストよりも、目を引く素敵で美しいものを。人から誉められたりけなされたりすることを。うっかり取り替えてしまいたくなるほど、それらが私たちの心を引きつけて止まないからです。なぜ、そうだと分かるのか。繰り返しの部分に目を凝らしてください。あまりに過激です;「世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、どこかへ行ってしまえ」。とても切羽詰っていて、緊急事態のようです。ここまで彼に言わせているものは何なのか。世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、どこかへ行ってしまえ。そうでなければ、私は目がくらみ、今にもキリストをポイと投げ捨ててしまいそうなので。賛美歌21297番、1954年版讃美歌142番の2節も異口同音でした;「十字架のほかには誇るものあらず、この世のもの皆、消えなば消え去れ(=もし消えるっていうんなら、いいですよそれでも。構いませんから、どうぞ、さあ消え去ってくださいな)」。救い主イエス・キリストを主とすることと、それに加えて様々な宝や楽しみをもつこと。趣味とか娯楽とか。それらは大抵の場合、ごく簡単に両立するように思えます。クリスチャンになったからって、世捨て人みたいに仙人か修行僧のように何もかもを捨て去って裸一貫にならなきゃならないとは普通は思わない。ぼくも、思っていませんでした。要するにバランスの問題で、ほどほどに要領よく付き合っていればいいじゃないかと。主を主とすることもほどほどに、楽しみや娯楽や趣味もほどほどに、人付き合いもほどほどにと。けれど兄弟たち、主イエスご自身は仰るのです、「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(ルカ16:13)。そして気がつくと、心が2つに引き裂かれた、ほどほどのクリスチャンが出来上がっていました。あのイソップ童話のコウモリのようなクリスチャンです。動物たちの間では、「私も動物です。仲良くしましょう」。鳥たちの間では、「ほら見てください。私も鳥です、羽根を広げてパタパタ飛ぶこともできますから」。お前はいったいどっちなんだ。何者なのか、誰を自分の主人として生きるつもりなのかと厳しく問い詰められる日々がきます。あれも大切、これも大切、あれもこれも手放したくないと山ほど抱えて生きるうちに、主イエスを信じる信仰も、主への信頼も、主に聴き従って生きることもほどほどのことにされ、二の次、三の次に後回しにされつづけて、気がつくととうとう動物でも鳥でもない、どっちつかずのただ要領がいいだけの生ずるいコウモリが出来上がっていました。心を鎮めて、よくよく考え、自分で自分に問いただしてみなければなりません。何が望みなのかと、何を主人として私は生きるつもりのかと。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。だからこそ、この祈りの人は、「このキリストが私に代わって死んでくださった、本当にそうだ」と、自分自身に言い聞かせ言い聞かせしています。一途に、目を凝らしています。3節の3、4行目。ついにこの人は、キリストに固着し、死守るする秘訣を体得しました。やったあ

このお方で心の満たされている今は、と。私に代わって死んでくださったキリストで、今この瞬間は、私の心はいっぱいに満たされている。だから今は、揺らぎ続ける危うい私であっても、キリストから離れないでいることができる。明日も明後日も、死ぬまでず~っと同じく変わらず、そのような私でありつづけたい。

  さて、「救い主イエス・キリストが私に代わって死んでくださった。私が神の子供たちの1人とされるためだったし、こんな私をさえ罪と悲惨さから救い出すためだった」と私たちも知りました。それならば、救い出された私たちはどこへと向かうのか。どこで、どのように生きるのかとさらに目を凝らしましょう。代わって死んでいただいた。それなら私たちは、もう死ななくていいのか? あとは、それぞれ思いのままに好き勝手に生きていけばいいのか。いいえ、そうではありません。やがていつか寿命が来てそれぞれに死んでゆくというだけではなくて、クリスチャンとされた私たちは毎日毎日、死んで生きるのです。古い罪の自分を葬り去っていただいて、新しい生命に生きる者とされた。毎日毎日、死んで生きることが生涯続いてゆく。洗礼の日からそれが決定的に始まりました(ローマ手紙6:1-18参照)。実は、『毎日毎日、死んで生きる』というその大事なことは、これまであまり十分には語ってくることができませんでした。いいえ、よく語ってこなかっただけではなくて、うっかり見落としていたのだと思えます。『古い罪の自分を殺していただき、葬り去っていただき、そのようにして新しい生命に生きる』ことが苦しすぎて、嫌だったので、わざと見ないふりをしていました。まったく申し訳ないことです。救い主イエスが代わって死んでくださったので、それでまるで自分は死ななくていいことにされたかのように、そこで救いの御業がすっかり完了して、終わってしまったかのように、だから後はそれぞれ好き勝手に自由気ままに生きていってよいかのように、勝手に思い込んでいました。だから、私たちはたびたび煮詰まりました。たびたび途方にくれて、道を見失いました。

  実は、主イエスの最初の12人の弟子たちも皆そうでした。十字架の死と復活が待ち受けているエルサレムの都に向かって旅路を歩みながら、主イエスは弟子たちに何度も何度も、ご自分の死と復活についてあらかじめ予告しつづけました。受け入れる準備をさせておきたかったのです。十字架前夜の最後の晩餐の、あのパンと杯の食事も同じでした。パンが引き裂かれるように、私の体は十字架の上で引き裂かれ、ぶどう酒が配られるように、私の血潮も流し尽くされ、あなたがたの上に注がれる。イエスは言われました。「はっきり言っておく。人の子(=主イエスご自身のこと)の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる」(ヨハネ福音書6:53以下)。けれど弟子たちは、なかなか信じることも受け入れることもできませんでした。なぜなら、主イエスが死んで復活なさることはただ主イエスお独りだけのことに留まらなかったからです。弟子たち皆も、主イエスに率いられて、古い罪の自分を殺していただき、葬り去っていただいて、それと引換のようにして新しい生命に生きはじめる。それは恐ろしいことでした。ただただ恐ろしくて、嫌なことでした。

主イエスが十字架にかけられ殺されていく間、当時の弟子たちのほとんど全員がただただ絶望し、恐れ、コソコソと逃げ隠れしていました。ヨハネ福音書2019節以下です。主イエスが殺され、葬られて三日目の夕方、主イエスの弟子たちは怖がっていました。家の中に閉じこもって、小さくなってガタガタブルブル震えていました。主イエスを憎んで殺してしまった連中に捕まったら大変だ。何をされるか分からない、どうなってしまうか分からない。真っ暗闇だと。そこに主イエスが来て、彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と仰って、手とわき腹の傷跡を見せてくださいました。弟子たちは主イエスを見て、そしてその傷跡も見て、そこでようやく喜んだのです。誰かが私の身代わりとなって死んでくれた。それだけでは、力も勇気も希望も湧いてくるはずがありません。私のために苦しんで死んでくださったその同じお独りの方が、ただ苦しんで死んだだけじゃなくて、この私のためにもちゃんと復活してくださった。やつれて、息も絶え絶えになって死んでいこうとする方に共感や親しみを覚えることはできても、けれど信頼を寄せたり、その方に助けていただけるとは誰にも思えません。死んで三日目に復活させられた方をもし信じられるなら、そのお独りの方に全幅の信頼を寄せることができます。この自分自身も、主イエスに率いられて、古い罪の自分自身と死に別れ、新しい生命に生きることになる。そこに大きな希望があり、喜びと平和と格別な祝福がある。これが、起こった出来事の真相です。十字架の上のやつれて息も絶え絶えのその同じ主が同時に、復活の主でもあると信じられるかどうか、それがいつもの別れ道です。

ああ、だから、「このお方が私に代わって死んだ。私に代わって死んだ」と今後も同じく歌いつづけていいのです。そしてその歌の心は、「私に先立って」です。この救い主イエス・キリストというお方が私に先立って死んで、私に先って復活してくださった。今も生きて働いていてくださる。やがて再び来てくださるし、今も共にいてくださる。だから、もうどんなものもキリストには代えられない。世の宝も富も、楽しみも、人から誉められたりけなされたりすることも、良い評判を得ることも冷たく無視されることも、有名な人になることも、どんなに美しいものも。私たちもついにとうとうキリストに固着し、死守する秘訣を体得しました。やったあこのお方で心の満たされている今は、と。私に先立って死んで復活してくださったキリストで、今この瞬間は、私の心はいっぱいに満たされている。神さまはキリストと共に私たちをも死者の中から復活させることができるし、現に復活させつづけてくださる。だから今もこれからも、揺らぎ続ける危うい私であっても、キリストから二度と決して離れないでいることができる。明日も明後日も、死ぬまでず~っと同じく変わらず、そのような私でありつづけたい。