2020年7月22日水曜日

われ弱くとも ♪丘の上の主の十字架


われ弱くとも      (お試しサンプル品⑧/賛美歌21303番)
 ♪ 丘の上の主の十字架  

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。賛美歌21231番、讃美歌第Ⅱ編182番、『丘の上の主の十字架』です。もう20年ほども前の事なんですが、大切なクリスチャンの友だちがいて、その人が、「丘の上の主の十字架」と「キリストには代えられません」とこの2曲がなにしろ格別に大好きだ、朝も昼も晩もずっと歌ってると言ってたんです。「大好きだ。ずっと歌ってる」と言ってニコニコしていたその口ぶりや顔つきを僕は忘れることができません。その人は、年を取っておじいちゃんになってからこの神さまと出会い、信じるようになり、けれどクリスチャンになってほんの数年で死んでしまいました。この2曲を歌う度に石川さんのことを思い出すし、その石川さんのことを思い出すたびに、この「丘の上の主の十字架」と「キリストには代えられません」を思い出して、ぼくもやっぱりこの歌が大好きだなあとしみじみ思います。朝も昼も晩も、ず~っと歌っちゃう。こういう信仰だ、こういう神さまだ、その通りだなあと思います。難しい言葉はほとんどありませんが、3つだけ聞いてください。まず、くりかえし部分の「うち捨て」。ただ捨てるんじゃなくて、えいっと力一杯に投げ捨てる、必死になって本気で捨てるという強い言葉です。それくらいしなきゃ、この世界での栄光や名誉を捨てることも、それを願う心から自由になることもなかなか出来ないということですね。2つ目、同じ繰り返しの「み救い」の「み」は、尊敬の意味の「あなたさまの」です。つまり、神さまから与えられる救い。「み名。み国、み心」も同じで「神さまのお名前、神さまの国、神さまの心」です。もう1つ、4節1行目の「なにかはあらん」。何事か大変なオオゴトだろうか。はいはい、何度も出てきた例の質問しているようで全然質問じゃない言い方です。悩みや死ぬことがオオゴトだろうかビックリ仰天か、いいや、全然たいしたことない。
 じゃあ、1節から3節までをまず味わいましょう。「(1)丘の上の主の十字架、苦しみのしるしよ。人の罪を主イエスはご自分の身に負い、ご自身の生命を私たちに与えてくださる。(くりかえし)世の人々から受ける栄光や名誉や賞賛をえいと投げ捨て、十字架の主イエスにすがって一筋に私は歩んでいこう。神さまが与えてくださる救いに入るまで。(2)世の人々があざけったりバカにするとしても、十字架の主イエスは慕わしい。小羊である神のみ子の苦しみを思うので。(3)荒削りの主イエスの十字架はかぎりなく尊い。私の罪をゆるし、私をその罪深さから清めてくださるのは、ただ主イエスの血潮だけである」。この歌の最初の大きな衝撃は、もちろん3節1行目の『荒削りの主の十字架』という一言です。荒削りの主の十字架。まるで、金づちで頭をガツンと殴られたような気持ちになります。「おしゃれで美しいインテリアやアクセサリーの首輪、耳飾りなどにして、慣れ親しんだり、楽しんだりしていたそういう自分自身の軽々しい気分と、告げられていた救いの現実とはずいぶん違うものだった。あまりにかけ離れていた」と気づかされます。あるいは屋根の上や礼拝堂の中で十字架を眺めるとき、「ああ十字架か」と私たちは、いつもの普通の気分です。そこで驚いたり、心を深く揺さぶられたりもせず、「十字架かあ」とただ眺めている。気にも留めずに。ウトウトと眠り込んでいた私たちの信仰の魂を、この『荒削りの主の十字架』という強烈な一言が呼び覚まします。さらに一歩また一歩と、救いの御業の現実の中へと私たちを招き入れます。1節の3行目、4行目「人の罪を主は身に負い、与えたもう、いのちを」。また3節の3行目、4行目「われをゆるし、清くするは、ただ主の血潮のみ」。荒削りの主の十字架という短い一言によって切り開かれた神様の現実が、ここにあります。そこで、いのちが差し出され、与えられようとしていること。十字架上の主イエスの血潮こそが私をゆるし、私を清くしてくれること。とうとうここに、目を凝らしています。十字架の上に、すでに、主イエスと私たちの復活のいのちがはじまっています。「主イエスの苦しみ。苦しみ」と言いながら、この祈りの人は、ただ救い主イエスの苦しみと死ばかりを眺めているのではありません。そこからはじまる新しい生命にこそ目を凝らしています。罪人であるこの私の救いためにさえ、主イエスはご自身の肉を引き裂き、血を流し尽くしてくださった。だから私は罪をゆるされ、罪の奴隷状態から解放されて自由にされ、清くされる。曇りなく、喜ばしく生きる新しい私とされる。「十字架は慕わしい」「主の十字架は限りなく尊い」と喜びにあふれているその本当の理由は、ここにありました。「荒削りの主の十字架」という一言が、キリストの教会とクリスチャンたちを深い眠りから目覚めさせました。目覚めさせて、神さまご自身の現実に目を向けさせました。ですからこの『丘の上の主の十字架』という1曲は、私たちにとって格別に大切な歌でありつづけます。キリストの教会と私たちクリスチャンは何度も何度も眠り込んでしまうからです。ゲッセマネの園でのあの弟子たちのように。疲れと思い悩みのあまりにまぶたが重く垂れ下がってきて。主イエスはご自身の祈りの格闘をつづけながら、私たちを気がかりに思って、何度も何度も様子を見に来て「しっかりしなさい」と声をかえます。「目を覚まして祈っていなさい。誘惑と試練にすっかり飲み込まれてしまいますよ。ほらほら目を覚まして。だって、あなたがたは心も体も弱いのだから」と。それなのに眠っているのか、眠っているのか。まだ眠っているのかと。主の十字架もその救いの御業も度々ただおしゃれで体裁がよいばかりの単なるアクセサリーやインテリアの1つへと小さく弱くされました。私たちの眠りの中で、ただただ形式的な約束事や建前やスローガンに成り下がりました。やがて、知らず知らずのうちにその十字架と復活の主イエスが私たちに生命をあたえてくださるとは、私たちは思わなくなりました。十字架上で流し尽くされた主イエスの血潮、引き裂かれた体、それによって私たちはゆるされた。清くされたし、されつづけるなどとは、やがて誰1人も思わなくなりました。十字架も、死と復活の救い主イエスもその御業も、すっかり骨抜きにされます。何度も繰り返して。
 この数年、私たちは度々耳にしてきました。ただ親しみやすいだけのきさくで身近な、とても人間的な救い主。ゲッセマネの園でも十字架の上でも、苦しみ絶望してただ無残に死んでいかれた、かわいそうな救い主という噂を。「罪のゆるしはただ大目に見て、いいよいいよと罪も咎も見過ごしてくれることだ」という噂を。「罪深いままで招かれた。だから生涯ずっと同じく罪深いままの私たちだ。だって世の中も社会の現実もあまりに汚れているじゃないか、仕方がない仕方がない」という根も葉もない悪い噂を。いいえ、大間違い。真っ赤な嘘です。だって、この讃美歌が「違う違う。荒削りの主の十字架だったじゃないか」と大声で叫んでいます。『主われを愛す』も。『さまよう人々立ち返りて』(239)も、はっきりと歌っていましたね。4節「さまよう人々立ち返りて、十字架の上なるイエスを見よや。血潮したたるみ手をひろげ、『生命を受けよ』と招きたもう」。しかも聖書自身が十字架の死と復活をただ形ばかりのアクセサリーやインテリアにすることを強く拒みつづけています。ガラテヤ手紙3:1以下、「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが"霊"を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」。その通り、主イエスの復活の生命をあなたも受け取りなさい。神さまの御前で、神さまに向かって、あなたも新しい生命を生きることをし始めなさい。
 くりかえし部分はとてもきっぱりしているし、かなり厳しい中身です。「世の栄え、打ち捨て、十字架にすがりて、一筋にわれ行かん。み救いに入るまで」。主イエスの十字架を歌う讃美歌の中で、どうしたわけかよく似たことがたびたび語られます。来週歌う297番『栄えの主イエスの』の1節でも、「栄えの主イエスの十字架を仰げば、世の富、誉れは、塵にぞ等しき」。『キリストには代えられません』(-19521-522)の繰り返し部分でも、「世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、行け。キリストには代えられません、世のなにものも」と。この世の中で高い給料をいただいて裕福に暮らすことや、財産を蓄えることや、名声を得て、皆から誉められたり、感心されたり、ちやほやされること。まるで、そういうことが悪いことみたいですね。「世の栄え、打ち捨て」です。また、「世の富、誉れは、塵やゴミと同じだ」と。さらに、「世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、行け。キリストには代えられません、世のなにものも」と。さあ、困りました。聖書自身はなんと語っているのか、頭の中を整理しておきましょう。聖書は、楽しみやお金や財産や人から誉められることが悪いとは言っていません。それらは人を楽しませ、自分自身のためにも他者のためにも、大事によく用いることもできます。ただ、そこにはいつも誘惑と危険がつきまといます。そこを警戒しているのです。楽しみや、人から誉められることや、財産や地位、それらが心を惑わせて神さまに背かせてしまう実例を聖書は次々に報告しつづけました。例えば、金持ちの青年が主イエスのもとから悲しみながら立ち去っていったことを覚えているでしょ。永遠の生命よりも神を信じて生きるよりも、それよりもっともっと大切に思えるものがあの彼にはあったからです。ぞんぶんに楽しんでもいい。人から誉められていいし、それを願ってもいい。財産やお金を山ほど蓄えて、高い地位や権力を手に入れてもいい。けれど心を惑わされないように、気をつけて使うように。
 では、いよいよ4節です。「目の前にふりかかる1つ1つの悩みごと、やがて衰えて死んでいくこと、重い病気に次々とかかること。それがオオゴトだろうかビックリ仰天か、いいや、全然たいしたことない。苦しみにも辛さにも、少しも困らないし平気だ。救い主がやがてこの世界を完成させてくださる栄えの朝、世の終わりを、私も待ちわびながら生きてゆく。自分が担うべき十字架を担いながら、1日また1日と」。少し前に、「み恵みゆたけき」(294番,21-461)でも同じことを申し上げました。教えられ、信じてきた中身は、この4節の通りです。簡単に言うと、『死んでそれで終わりじゃない。その先があり、死の川浪を乗り越えて神の御国にきっと必ず辿り着く。辿り着かせていただける』という信仰です。ね、だから、例えばある日、医者から「癌ですよ。あと半年か、数ヶ月の生命」などと告げられます。転んで大怪我をします。うっかりして家から火事を出して、ご近所さんにも迷惑をかけてしまいます。サギにあって、蓄えをすっかり騙し取られてしまう。会社をクビになる。その他いろいろ。次々に厄介事にあい、「どうして私ばかりがこんなに」と本人は思います。驚いたり嘆いたり悲しんだり、頭を抱えたり、アタフタオロオロする人々がたくさんいるでしょう。ほとんどの人はそうかも知れません。けれど私たちクリスチャンにとって、それは普通のことです。それがオオゴトだろうかビックリ仰天か、いいや、全然たいしたことない。本当です。しかもに、その人が格別にしっかりしているとか信仰深いとかではなくて、なにしろ、しっかりしていてとてもよい神さまがついていてくださるからです。私たちもまったく同じです。その神さまに十分に信頼を寄せているし、神さまとの出会いを積み重ねてきました。私たちはクリスチャンです。