2020年7月6日月曜日

7/5「信じるためのしるし」ルカ11:29-32


                           みことば/2020,7,5(主日礼拝)  274
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:29-32                     日本キリスト教会 上田教会
『信じるためのしるし』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
11:29 さて群衆が群がり集まったので、イエスは語り出された、「この時代は邪悪な時代である。それはしるしを求めるが、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。30 というのは、ニネベの人々に対してヨナがしるしとなったように、人の子もこの時代に対してしるしとなるであろう。31 南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために、地の果からはるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。32 ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。   (ルカ福音書 11:29-32)
                                               
7:10 主は再びアハズに告げて言われた、11 「あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ」。12 しかしアハズは言った、「わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません」。13 そこでイザヤは言った、「ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。14 それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。                     (イザヤ書7:10-14)

12:3 そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。                      (1コリント手紙12:3)

29節、「さて群衆が群がり集まったので、イエスは語り出された、『この時代は邪悪な時代である。それはしるしを求めるが、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう』」。この時代は邪悪な時代であると、救い主イエスは集まった人々に語りかけました。「邪悪である」とは、神を侮り、不信仰に陥り、心を頑なにし、傲慢やむさぼりに陥ってしまう状態です。それはもちろん、どの時代や社会にもありつづけ、私たち一人一人の心の中にもそういう性質が深く根付いてもいます。主イエスが人々に語りかけていた時代や社会、またそこにあつまった人々の中に、そうした不信仰や傲慢さ、心の頑なさがたしかにあったことでしょう。けれど、その人々についての推測はほどほどのことにしておかねばなりません。むしろ、今これを聞いている私たち自身、一人一人の中にそういう邪悪さがあると認めねばなりません。神や周囲の人々を侮り、不信仰に陥り、心を頑なにし、ついつい思いあがって傲慢やむさぼりに陥ってしまう心の傾きが、自分自身にも確かにあると。だからこそ今日も、この私たちは、救い主イエスからの語りかけに耳を傾けています。その自分自身の神を押しのけようとする邪悪さや思い上がりや頑固さから救い出していただくためにです。
さて、神を信じるためのしるしを求めることと、自分自身が抱えている邪悪さや不信仰についても思い巡らせてみましょう。必ずしも、神を信じるためのしるしを求めることが邪悪であり不信仰だというわけではありません。むしろ私たちの心の中を探り、心にあることをすっかり見通しておられる神です。
例えばギデオンは、臆病さや人間中心の思いのために、神に信頼を寄せることがなかなかできませんでした。「もしできることなら、ぜひ神を信じたい」と願いました。それで、神を信じるためのしるしを神に求めました。何度も何度もです。岩の上でパンを真っ黒こげに焼き焦がしていただいたり、羊の毛皮を地面の上に敷いて、夜の間に毛皮だけ濡れて地面が乾いているようにしていただいたり、逆に毛皮が乾いていて地面が濡れているようにしていただいたり、もう一度もう一度と(士師記6:17-40。神はギデオンの願いに応えて、何度も何度もしるしを与えつづけます。神を信じることのできない人間ではなく信じる人間にしてあげたいと、その彼を憐れんだからです。このことをいつも思い起こします。ギデオンと正反対に、とても不信仰で心の頑なな、神を信じることを拒み続けるアハズという名前の王がいました。「しるしを求めよ。それを与える。そして、あなたは神を信じなさい」と語りかけられました。けれどアハズ王は、頑として拒みました。「しるしを求めて神を試みることなど私は決していたしません」と。預言者は不信仰で傲慢な王を叱りつけてこう語りかけました、「ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」(イザヤ書7:13-14。不信仰でかたくなな王を叱りながらも、けれど神の民とされた先祖と私たちを憐れんで、神は私たちに神を信じて生きるための一つのしるしを贈り与えてくださいました。インマヌエル、神はわれらと共にいますと呼ばれる救い主イエスをこの地上に、私たちの間に遣わすこと。これこそが、神からの最も大きな恵み深い贈り物です。神は憐れんでくださり、私たちが自分自身の不信仰と傲慢さに打ち勝つためのしるしを差し出しつづけます。例えば主イエスの弟子トマスは、救い主イエスの復活を信じたくても信じられませんでした。疑い深さと心の頑固さが彼自身を悩ませ、苦しめていました。「私はその手に釘の跡を見、わたしの指をその釘跡に差し入れ、また、わたしの手をその脇の槍の傷跡に差し入れてみなければ、決して信じない」とトマスは言い張りました。その彼のために、救い主イエスはわざわざもう一度彼に合いに来てくださり、信じるためのしるしをトマスに差し出します。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」」(ヨハネ福音書20:27-29。しるしを見ても見なくても、神を本気で心底から信じて生きることができるなら、その人は幸せです。トマスは、てのひらの釘跡やわき腹の刺し傷に手を入れるまでもなく、信じる者とされました。「わが主よ、わが神よ」と救い主イエスの御前にひれ伏して、喜びにあふれました。なんと幸いなことでしょう。
 さて、私たち人間の心の中に巣くう邪悪さや不信仰は、信じるためのしるしを求めるかどうかではなく、その一人一人の心の中にありました。不信仰に留まろうとするその傲慢さや、心の頑固さです。30-32節、「というのは、ニネベの人々に対してヨナがしるしとなったように、人の子もこの時代に対してしるしとなるであろう。南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために、地の果からはるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる」。神を知る知識を聞きたいと願って、遠い南の国から女王がソロモンに会いに訪ねてきました。そのソロモンよりも、何倍も優って神を知る知識を授ける独りのかたがおられます。救い主イエス・キリストです。また預言者ヨナは、悪の町ニネベに遣わされ、町を行き巡りながら、「四十日を経たらニネベは滅びる」と呼ばわりつづけました。そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで悔い改めて神へと立ち返るしるしに荒布を着ました。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。荒布をまとうことも、断食も、灰の中に座ることも、皆すべて悔い改めて神へと立ち返るしるしであり、その心のあらわれです。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった(ヨナ書3:4-10。とても悪いニネベの町の王は滅びを告げる厳しい宣告に心を刺し貫かれ、打ち砕かれ、思いあがっていた心を低く屈めさせられました。ひたすら神に呼ばわり、それぞれ自分自身のその悪い道、日ごろの行ない、およびその手にある強暴を離れよ。「神がわれわれを滅ぼすのを止めてくださるに違いない」と考えたのではありません。そうすれば、「もしかしたら、許してくださるかも知れない」と神ご自身の憐みに期待をかけました。ソロモンの知恵にまさり、預言者ヨナの死と滅びの宣教に遥かにまさる、ただお独りの方がおられます。救い主イエス・キリストです。
 32節、「ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである」。ニネベの町の人々のことを思い起こさせながら、ご自身とその福音を拒む人々に向けてなお救い主イエスは語りつづけます。あのニネベの町で、真実な神についての言葉を少しも聞いたことが無かった不信仰な人々が、ふらりとやってきた、どこの誰とも分からない外国人の宣教の言葉を聞いて悔い改めた。それに比べて、あなたがたはどうだと。ニネベの人々は神の預言者を見たこともなく、その教えを聞いたこともなかった。預言者ヨナは、敬われるはずのどんな風貌も威厳もなく、どこの馬の骨かも分からない怪しい人物として退けられて当然でした。けれどもその彼らの耳と心は、無きに等しい小さな使者の口から出た貧しい言葉に対して開かれ、胸を刺し貫かれ、彼らは神へと立ち返りました。その使者は神から遣わされた者であり、その口から出た言葉は、神ご自身の御心を教える神の言葉であると分かったからです。その一方で、主イエスの目の前にいた人々は神の国の福音を救い主ご自身の口から聞きながら、なおこのかたが天から遣わされた教師であり、約束されていた救い主であると認めることができませんでした。また地上で福音を宣べ伝えていた間は、多くの人々はこのかたを信じることができませんでした。

信じさせていただく前には、この私たちも神ご自身の力や慈しみ深さを疑い、拒み、退け続けていました。神を侮り、神に逆らいつづける邪悪なものをたくさん抱えていた私たちです。
 にもかかわらず、いま、私たちは『イエスは主である』と信じています。何が起こったのでしょうか。「誰でも聖霊によらなければイエスは主であるということはできない」(1コリント手紙12:3と聖書は証言します。つまり、もし私たちが今、『イエスはこの世界にとっても、また私自身にとっても主であられる。私はその主人に仕えるしもべにすぎない。主人であられる救い主イエスへの信頼、このお独りの主人への忠実こそが私たちに命じられている』とはっきりと知り、そのことを堅く信じているとするならば、それは聖霊なる神ご自身のお働きの結果です。神ご自身が、この私たち一人一人のためにも、神を信じて生きる心を贈り与えてくださったからです。神の御霊が私たちのうちに確かに宿り、そこで生きて働いておられ、この私たちのためにも良い業をなしつづけておられます。