2020年7月10日金曜日

われ弱くとも ♪血潮したたる


われ弱くとも (お試しサンプル品⑥ 讃美歌136番)
 ♪ 血潮したたる


 こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。1954年版讃美歌の136番、賛美歌21では311番『血潮したたる』です。讃美歌をこうして読み味わっているのは、ぼくにとっては、神さまのことを知りたいからです。どんな神さまなのか、ここがどんな世界であり、私たちが何者であり、どう生きることができるのか。生きる希望や意味は何か、どこに向かって、また何のために歩いているのか。そういうことをぜひ知りたくて、それで聖書を読み、また讃美歌を読んでいます。信仰の中身のことでは、正直なところ、たびたびよく分からなくなって頭を抱えます。どういうことなんですかア、と誰かに質問したくなります。とくに救い主イエスの十字架の出来事について、ずっと考え巡らせ、思い悩んできました。讃美歌を味わいながら、聖書を味わいながら、ごいっしょに救い主イエスに目を凝らしましょう。讃美歌『血潮したたる』。まず1節、2節を読みましょう。「(1)血潮がしたたり落ちてくる主イエスの頭。被せられた茨の冠のトゲに刺されている主イエスの頭、そして額。悩みと恥にやつれ、血の気が失せて青白くなった主イエスを、私は慎み敬って私の王である方として仰いでいる。(2)主イエスの苦しみは私のためである。私は自分自身の罪のために死ぬべき罪人である。そのような私の身代わりとなって苦しみ死んでくださったとは、主の御心はなんと慈しみ深く、畏れ多いことだろうか」。
  この祈りの人は、なにしろ救い主イエスのその十字架のもとに立って、そこから主を仰ぎ見ています。被せられた茨の冠のトゲに刺されている主イエスの頭、そして額。悩みと恥にやつれ、血の気が失せて青白くなった主イエスを私は仰ぎ見ている。このお独りのお方こそ、私の王である方だと。真っ赤な血潮がポタポタポタポタとしたたり落ちてきます。目を離せずにいるこの祈りの人は、ですから、そのしたたり落ちてくる血潮を頭から浴びて、顔も首も肩もその血潮でずぶ濡れになっています。圧倒され、びっくり驚きながら、目を凝らしています。この讃美歌のもっとも素敵な所とその格別な生命は、血を流し青ざめながら死にかけているこの救い主の現実に深く驚き、目をまん丸に見開き、心を揺さぶられているところだと思えます。信仰は昔も今も、神さまご自身の救いの御業に深く驚かされ、目を見開かされることでありつづけます。目を凝らしているうちに、「私のためだった」と、とうとうこの祈りの人は気づきました。私のためだった、私のためだった私のためだった。こんな私をさえ罪から救い出して神の子供たちの1人として迎え入れるためだったと。同時にこの祈りの人は、自分自身の罪深さや悲惨さにも気づかされています。救われるに値しない私。あまりに罪深い私だと。それなのに、こんな私の身代わりとなって苦しみ死んでくださったとは、主の御心はなんと慈しみ深いことか。確かに、ここに、私たちのための信仰の生命が始まっています。
  さて、「私のためだったし、こんな私をさえ罪と悲惨さから救い出すためだった」と私たちも知りました。それならば、救い出された私たちはどこへと向かうのか。どこで、どのように生きるのかとさらに目を凝らしましょう。死ぬべき罪人である私たちを罪から解放し、そこから救い出してくださるために、主イエスは十字架の上で苦しみ、死んでくださった。その通りです。代わって死んでいただいた。それなら私たちは、もう死ななくていいのか? いいえ。やがていつか寿命が来てそれぞれに死んでゆくというだけではなくて、クリスチャンとされた私たちは毎日毎日、死んで生きるのです。古い罪の自分を葬り去っていただいて、新しい生命に生きる者とされた。毎日毎日、死んで生きることが生涯続いてゆく。洗礼の日からそれが決定的に始まりました(ローマ手紙6:1-18参照)。実は、『毎日毎日、死んで生きる』というその大事なことは、これまであまり十分には語ってくることができませんでした。いいえ、よく語ってこなかっただけではなくて、うっかり見落としていたのだと思えます。『古い罪の自分を殺していただき、葬り去っていただき、そのようにして新しい生命に生きる』ことが苦しすぎて、嫌だったので、わざと見ないふりをしていました。まったく申し訳ないことです。救い主イエスが代わって死んでくださったので、それでまるで自分は死ななくていいことにされたかのように、そこで救いの御業がすっかり完了して、終わってしまったかのように、だから後はそれぞれ好き勝手に自由気ままに生きていってよいかのように、勝手に思い込んでいました。だから、私たちはたびたび煮詰まりました。たびたび途方にくれて、道を見失ってしまいました。
  実は、主イエスの最初の12人の弟子たちも皆そうでした。主イエスが十字架にかけられ殺されていく間、当時の弟子たちのほとんど全員がただただ絶望し、恐れ、コソコソと逃げ隠れしていました。ヨハネ福音書2019節以下です。主イエスが殺され、葬られて三日目の夕方、主イエスの弟子たちは怖がっていました。家の中に閉じこもって、小さくなってガタガタブルブル震えていました。主イエスを憎んで殺してしまった連中に捕まったら大変だ。何をされるか分からない、どうなってしまうか分からない。真っ暗闇だと。そこに主イエスが来て、彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と仰って、手とわき腹の傷跡を見せてくださいました。弟子たちは主イエスを見て、そしてその傷跡も見て、そこでようやく喜んだのです。誰かが私の身代わりとなって死んでくれた。それだけでは、力も勇気も希望も湧いてくるはずがありません。私のために苦しんで死んでくださったその同じお独りの方が、ただ苦しんで死んだだけじゃなくて、この私のためにもちゃんと復活してくださった。やつれて、息も絶え絶えになって死んでいこうとする方に共感や親しみを覚えることはできても、けれど信頼を寄せたり、その方に助けていただけるとは誰にも思えません。死んで三日目に復活させられた方をもし信じられるなら、そのお独りの方に全幅の信頼を寄せることができます。そこに大きな希望があり、喜びと平和と格別な祝福がある。これが、起こった出来事の真相です。十字架の上のやつれて息も絶え絶えのその同じ主が同時に、復活の主でもあると信じられるかどうか、それがいつもの別れ道です。われは死ぬべき罪人なり。そのとおり。主イエスがこの私の救いのためにも十字架の上で死んで、その三日目に復活してくださった。だから私たちは生きる。ただし、『私の罪深さ。身勝手さ。臆病さやずるさ、薄情さ』は殺していただきます。たしかに罪人なんだけれども、その罪深さを毎日毎日殺していただいて、神さまの御前で、神さまに向かって新しく生きる者とされました。だからこそ主の救いの御心は慈しみ深く、畏れ敬うに値する。
 正直に言いますと、この歌の4節目はなんだか嫌でした。こんなこと言うと叱られてしまいそうですけど。「主よ、主のもとに帰る日まで、十字架の陰に立たせてください」。なんだか弱腰すぎるというか、せっかく神さまを信じて生きる生命を十字架の陰にずっと隠れて、コソコソ生きてゆくのか、臆病すぎて、なんだか嫌だなあと。でもよくよく考えてみますと、そこにも大きな道理があります。誰かから責められるとき、非難され、悪口や文句を言われるとき、恥じることも恐れる必要もないと聖書は太鼓判を押していました。その根拠は、私たちの罪を背負って主イエスが裁きを受け、十字架の上で死んでくださったという1点にかかっていました。ローマ手紙8:31以下。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」。ずっと一生涯、十字架の陰に立たせつづけてください。その通り。それでいいです。その心は、『十字架について殺され、復活してくださった救い主イエス・キリストの陰に』という意味です。それはちょうど、怖がってガタガタブルブル震えていた弟子たちが主イエスの手の釘跡、槍で刺されたわき腹の傷跡を見て喜びにあふれたように。それはちょうど、「私のてのひらの釘跡に指を入れて見なさい。ほら、脇腹の槍の傷跡にも」と招かれて、「わが主よ、わが神よ」と疑い深いトマスが喜びにあふれてひれ伏したように。では、今日の質問。その主はどんな方でしょう。いま読んだ通りです。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、御父の右に座って執り成しつづけてくださる。では、私たちが立っているべき十字架の陰は、いったいどこにあるのか。十字架の主イエスは今どこにおられるのか。どこからどこまでが十字架の陰なのか。――どこもかしこも、天も地も、水の底も、すっかり全部、十字架の陰、救い主イエスの陰とされた。これこそ究極の答えです。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。いいや、誰にも決してできない。何が起ころうともへいちゃらだ。もちろん私たちは十字架の陰に立ちつづけます。しかも、どんな遠くへでも、いつでも安心して出かけてゆくことができ、誰の前でも何が起こっても恐れることもおじける必要もない。
  さあ、ここまで来れば、4節の最後の2行分も安心して読むことができます。「主イエスのみ顔を仰ぎ、その手に頼るならば、いまわの息でさえ安らかであるだろう」。正直に申し上げますが、死ぬ間際やその1週間、10日程はけっこう苦しい場合が多いです。見苦しく恥ずかしい姿をさらす場合も多いでしょう。泣き叫んだり、子供の頃に返って、そのころ習った念仏やお題目をうっかり大声で唱えてしまったり。混乱したり、ひどく取り乱したり。でも、そんなことで本人も家族も友人たちもガッカリしないでください。それは普通です。ちっとも構いません。多分ぼくも、そうやってカッコ悪く死んでいくでしょう。死ぬ間際に安らかでニッコリ笑顔で、主の祈りも唱えて家族の手を握ってと絵に描いたような幸いを願うより、それまでの間、誘惑と試練の只中で、そこで主を仰ぎ、主の御手にすがって生きてゆきたい。いまわの息が安らかかどうか、その瞬間に信仰深く敬虔な、恥ずかしくない姿を家族や友人たちに見せることができるかどうか。いいえ、それよりもその千倍も万倍も大切なことがあります。むしろ死ぬ間際の数日間より、それまで生きてきた数十年の中身のほうが遥かに大切です。どう生きて死んだのかとは、そのことです。ね。そういう意味でなら、十字架と復活の主イエスにすっかり全部お任せして、心安く晴れ晴れとして生きて死ぬことが私たちにはできます。いつでも、どこで何をしているときにも、何もできなくなってベッドに長く横たわって過ごす日々にさえ、私たちはクリスチャンです。とても安らかであり、喜びがあふれます。ご覧なさい。主がそこにおられます。祈りましょう。


    (1954年版讃美歌の136番、賛美歌21-311番)
1 血潮したたる 主のみかしら、
  トゲに刺されし 主のみかしら
  悩みと恥に やつれし主を
  われはかしこみ 君と仰ぐ

2 主の苦しみは わがためなり
  われは死ぬべき 罪人なり
  かかるわが身に 代わりましし
  主のみこころは いとかしこし

3 なつかしき主よ、計り知れぬ
  十字架の愛に いかに応えん。
  この身と魂を とこしえまで
  わが主のものと なさせたまえ

4 主よ、主のもとに かえる日まで
  十字架の陰に 立たせたまえ
  み顔を仰ぎ み手によらば、
  いまわの息も 安けくあらん。