2020年7月26日日曜日

7/26「憐みの神にこそ信頼する」ルカ12:1-7


               みことば/2020,7,26(主日礼拝)  277
◎礼拝説教 ルカ福音書 12:1-7                          日本キリスト教会 上田教会
『憐みの神にこそ信頼する』
             ~パリサイ人の病気~



牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 12:1 その間に、おびただしい群衆が、互に踏み合うほどに群がってきたが、イエスはまず弟子たちに語りはじめられた、「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。2 おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。3 だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう。4 そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。5 恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。6 五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。7 その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。 (ルカ福音書 12:1-7)
                                               
8:31 それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。32 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。……37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。(ローマ手紙8:31-39)
 まず1-5節のことです。律法学者やパリサイ人が激しく詰め寄って、論争を挑み続けます。おびただしい群衆も群がってきて、大騒ぎになろうとしています。その只中で、主イエスはまず弟子たちに語りかけます。1節、「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善だ」と。パンの練り粉の中に入れられたわずかなパン種がパン全体の隅々にまで及び、パンをふくらませる。聖書全体の中で、この『パン種とパン』のたとえが何度も用いられ、私たちに大切なことを伝えようとします。パンをおいしく膨らませる良いパン種と、パン全体をすっかりダメにしてしまうとても悪いパン種があるようです(レビ記7:13,23:17,マルコ8:15,1コリント5:6-8,ガラテヤ5:9など)。さて、パリサイ人のパン種。神を信じて生きるはずの人々が、どうして中身のない嘘と偽りの人々に成り下がってしまったのか。そもそも律法が間違って教えられつづけてきたことを発端としています。自分自身の罪深さを知らせ、自覚させるはずの律法を与えられました。けれど正反対に、その教育を受けた生徒たちは自分の正しさを競い合ったり、見せびらかしたり、他人を見下したりする偽善者たちへと成り下がりました。かえって、ますます神の憐みや恵みが分からなくなり、どのように救われるのかも分からなくなり、神を思うことも神に信頼することも従うこともできなくなりました。何百年もの間ずっとです。例えば、律法にかなう行いを問われて、「はいはい。そういうことは皆、小さい頃から守ってきました」と青年が答えたのも、この間違った信仰教育の結果です。例えば、「神殿で祈る二人のたとえ」が自分を正しいと思い込んでいる人のために語られたのも、このためです。「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ決して天国に入ることはできない」(ルカ18:21,18:9-,マタイ5:20と釘を刺されているのも、このことです。姿や形を変えながら、この同じパン種は今日の私たちの只中にまで生き残っています。中身のない形ばかりの信仰、神をそっちのけにした人間中心の信仰というパン種です。
 4-7節で、神によって造られたものにすぎない人間たちを恐れることが警告されます。人間を恐れるな。その代わりに、「神さまにこそ必要なだけ十分に信頼を寄せ、聴き従い、助けと良いものをただ神にこそ願い求めて生きていきなさい」と。人間を恐れるな、恐れるな。神をこそ恐れよ、恐れよと畳みかけられて、7節「恐れることはない」。「人間を恐れること」こそが、私たちの魂と神の国とを隔てさせる最も大きな障害物でありつづけます。「人々は私のことを何と言っているだろう?」「人々は私のことをどう思っているだろうか?」「人々は私に対して何をしようとしているのだろうか?」。こうした恐れや不安、心細さが高じてくることは、入り込んでしまったあの嘘と偽りの虚しいパン種が増殖していることのはっきりした症状の1つです。私たちの練り粉の中で、そのとても悪いパン種がどんどん膨れ上がって、その心を人々への恐れの中に捕らえ、しばりつけてしまいます。
 「神を恐れる」ことは、むしろ「憐れんでくださる神への全幅の信頼」です。さて、6-7節、「五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である」;困窮と悩み、恐れの中に置かれているクリスチャンを励まし、勇気づけようとして主イエスは語りかけます。神によって造られた、最も小さな者に対してさえ、神の慈しみと憐みは確かに及ぶと。ところで、「5羽のスズメが2アサリオンで売られている(一日分の労働賃金がデナリ。その10分の1がアサリオン。長野県の最低賃金は時給848円、一日分では6784円)。神のみ前で忘れられていない大切なスズメ1羽の値段はおよそ270円。では、あなたや私はいくらくらいの売値がつくでしょう。あなたがたは多くのスズメよりも優った者である。どの程度に優っているでしょう。いくら以上の売値がつけば、私たちは安心できるでしょう」。恐れることはない。なぜなら、多くのスズメよりも優った者なのだから? なぜ、ここで主イエスがこういうことを仰るのかがまったく分からず、ぼくは何十年も頭を抱えて困りつづけました。
 とうとう分かりました。「あなたがたは多くのスズメよりも優っている。だから当然、スズメの何倍も手厚くしっかりと神から守っていただけるだけの価値がある。ねえ、そうだろう?」と問いかけ、私たちの大好きな自尊心をくすぐり、習い覚えてきた福音の道理に照らして自分自身で判断するようにと促しています。つまり、信仰の保守点検および整備です。「主イエスの弟子とされたはずのこの私たちがパリサイ人のパン種にいつの間にか感染していないかどうか。すっかり汚染されていないかどうか」を検査するための、教育的配慮です。
私たち人間は、はたして多くのスズメよりも優った、価値の高い、素晴らしく貴重な存在でしょうか? 仮にそうだとして、では神さまは、優った、価値の高い、素晴らしく貴重な存在をこそ救い、そうではない劣った、価値の低い、粗末でつまらない存在に見向きもしないのか。滅びるままに放っておかれるのか。心を鎮めて、『教えられてきたイロハのイ』に立ち戻りつづけねばなりません。多くのスズメより、また他の多くの民族よりも他の人々よりもはるかに優れているなら、恐れなくてもいいのか。もしそうではないなら、私たちは恐れるべきなのか。いいえ、決してそうではありません。ただ恵みによってだけ救われるからです。救われるに値しない罪人が、ただ憐れみを受けて救われる。それ以外の救いの筋道はどこにもないからです。『小さな昆虫、小鳥たち、野原に咲く名も知られない多くの草花とほぼ同じ程度の私たちだけれども、憐れんでいただいて、それで確かに救っていただける(神の愛は、まず世界創造の6日目の全被造物に対する喜びに由来します、「見よ、それは非常に良かった」「極めて良かった」(創世1:31)。「価値があるからでなく、優れた良い点があるからではない」(申命記7:6-8,9:4-7)と念を押しつづけ、「地のすべてのやからはあなたによって祝福に入る」(創世12:1-3)と憐みと祝福の出発点としました。だからこそ、「思いあがってはならない。誇ってはならない」と何度も何度も釘を刺しつづけました。『黒人の命も大切だ(Black  Lives  Matter)』と声高に叫ばれつづけ、さまざまな少数者が差別・排除されつづける悪い風潮が世界中に長い間はびこりつづけている大きな責任はキリスト教会にあります。隔離政策をつづけた南アフリカ共和国も、KKK教団もまた、自分たちとは違う他者を差別し、排除し、憎み、踏みつけにしながらも敬虔なクリスチャンを自任しつづけました。少数者を差別し、軽蔑し、憎んで排除する風潮は、この国にも根強くつづいています。恥ずかしいことです)。ああ本当に』と心底から分かった者だけが、神の憐みを知り、神の御前に安らかでいることができます。しかも、どこもかしこも神の御前です。しばらくして主の弟子の一人がはっきりと答えます、「私たちには何か優った所があるのか。いいや絶対にない(他の誰に対しても、スズメに対しても)(ローマ3:9参照)。スズメ1羽よりもはるかに劣っており、神から重んじられるような備えが何一つないときに、キリスト・イエスによって神の憐みが差し出されました。怒りの子として生まれ、まったく堕落し、腐敗したもののほか何一つももたない私たちでしたのに、にもかかわらず救いへと選び入れられ、神の子たちとされました。宗教改革期の信仰問答は説き明かします。神にまったく信頼するためには何を知るべきか?「神が全能であり、完全に善意であられることを知る」。けれどそれだけでは十分ではなく、さらに、「神が御力の助けをお与えくださり、慈しみを注いでくださるだけの価値が私たちにないと知ること」(ジュネーブ信仰問答 問8-14。むしろ、価値があるのか無いのかと何の関係もなしに、神の慈しみをあふれるほどに注がれつづけている。なにしろ罪の内に死んでいた私たちであり、価も功績もまったくなしのゆるしであり、主はキリストにおいて価なしに私たちを義となさいました。いつの間にかすっかり忘れていましたが、ただ神の恵みによるのでない限り、誰一人も神の国に入ることなどできなかったのです。(ローマ手紙3:24「すべての人は罪を犯したため神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスのあがないによって~」。このことです。とても小さく弱く乏しい群れであってもなお、私たちは神以外のなにものをも恐れないでいられます。その唯一の根拠がここにあります。
  さて、4-5節「恐れるな、恐れるな。いいや、むしろ恐れなさい」。神ではないナニモノをも、あなたは決して恐れるな。恐れなくても大丈夫。むしろ神をこそ、あなたは本気になって恐れよ。『恐れ』は、裏返せば、その何かへの『信頼』です。心を悩ませるその『恐れや不安の材料』は、そのまま、その人の『安心材料』でもあります。いいえ。むしろ神をこそ、あなたは神さまにこそ全幅の信頼を寄せなさい。そのために、よくよく耳を傾けて、聞き従いなさいと勧めています。天の御父への十分な信頼へとあなたも立ち戻れ、と勧めています。4-5節の勘所は、その御父が「殺した後で地獄に投げ込む権威があるから」、だから恐れなさいということではありません。むしろ、体も魂も支え、養い、救い出しつづけてくださるから、だから信頼しなさい。

              ◇

  およそ500年前の信仰告白は、私たちの飛びっきりの安心材料について、このように説き明かします。「生きている時も死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか?」「それはわたしが、からだも魂も、生きている時も死ぬ時も 、わたしのものではなく、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。主は、ご自分の尊い血によって、わたしのすべての罪を完全に償ってくださり、わたしを悪魔のすべての力から救い出し、天におられるわたしの御父のみこころによらなければ、髪の毛ひとすじもわたしの頭から落ちることがないようにと、わたしを守っていてくださいます」(ハイデルベルグ信仰問答,問1,1562年)
  『神ではないモノや人間どもへの恐れ』と『神への信頼』。それは、児童公園や小学校の運動場の片隅においてあるシーソー台のようです。『神ではないモノや人間どもへの恐れ』が重くなって、どんどん下がってゆくとき、その反対側の板に乗っている『神への信頼』はどんどんどんどん軽くなって、影が薄くなってゆくばかりです。逆に『神への信頼』が少しずつ育って、大きく重くなってゆくと、『神ではないモノや、たかだか人間に過ぎないどもへの恐れ』は少しずつ萎んで小さく軽くなってゆきます。あるとき、人間のことばかり気にかかって、「人が見たらどう思われるだろう」「世間様に何と見られるだろうか」と恐ろしくなって、クヨクヨメソメソしています。すると、そのとき、『神への信頼』はどんどんどんどん軽くなって、影が薄くなってゆくばかり。あるいは、もうほとんど影も形もなくなってしまっているかも知れません。聖書の中でも外でも、神さまはそういう私たちを励ましつづけます。「主はみずからあなたに先立って行き、またあなたと共におり、あなたを見放さず、見捨てられないであろう。恐れてはならない、おののいてはならない」、「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」「なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、誰が私たちに敵しえようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡された方が、どうして、御子のみならず万物をも贈り与えてくださらないはずがあるだろうか。いいや、あるはずもない。きっと必ず、そうしてくださる」(申命記31:8,使徒18:9-10,ローマ手紙8:31-