2017年1月10日火曜日

1/8「すでに神の国は来ている」マタイ12:22-32

◎とりなしのいのり

主イエスの父なる神さま。あなたが憐れみ深くあってくださいますことを、私たちは覚えています。あなたから格別な憐れみを受け取りつづけてきた私たちもまた、隣人に対して憐れみ深く、思いやり深くあることができるようにさせてください。世界には、またこの国にも、心細く貧しく暮らす人々がたくさんいますから、その人々の幸いと安全とを私たちにも願い求めさせてください。自分自身と家族のことばかりではなく、自分たちの教会のことばかりではなく、自分と同じ民族、同じ国民のことばかりではなく、目と心を高く上げて、自分たちと違う言葉や生活習慣や文化をもつ他の民族、他の国の人々の幸いと安全とを、心から待ち望ませてください。国家の指導者たちが、また私たち国民一人一人も、そのように他の人々を温かく思いやる者たちとならせてください。小さな子供たちと若者と年配の人々に、温かい十分な食べ物、着る物、安らかに住むことのできる居場所とを与えてください。貧しい家で育てられた子供たちにも、それが日本人であっても外国人でも、本人が望むだけの十分な教育が受けられますように。
 危険な紛争地域に送り出された350人の自衛隊員たちの生命の安全をお守りください。彼らが人を殺すことも殺されることも、心と体に大きな痛手を負うこともありませんように。350人の自衛隊員一人一人に欠けがえのない人生があり、大切な家族がいるからです。どうか主よ、戦争法を一日も早く廃止させて、自衛隊員も他の誰も危険で愚かな間違った戦争行為に無理矢理に参加させられることがないようにさせてください。
 教育と医療と社会福祉に携わる働き人たちの生活と働きとをお支えください。託された大切な務めを、彼らが誠実に精一杯に、また希望をもって果たしてゆくことができますように。
  何が神の御心にかなう良いことで、何がしてはいならない悪いことなのかを、政治家も、私たち国民一人一人もよくよく弁え知ることができますように。この国と私たちを、平和で公正な、思いやり深い国にならせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン


                                           みことば/2017,1,8(主日礼拝)  93
◎礼拝説教 マタイ福音書 12:22-32                      日本キリスト教会 上田教会
『すでに神の国は来ている』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  12:22 そのとき、人々が悪霊につかれた盲人で口のきけない人を連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた。23 すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。24 しかし、パリサイ人たちは、これを聞いて言った、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」。25 イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。26 もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。27 もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。28 しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。・・・・・・31 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。32 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。       (マタイ福音書 12:22-32)

 

 目が見えず口もきけない、悪霊にとりつかれた人が連れてこられ、主イエスはその人を癒して、物を言い、目も見えるようにしてあげました。すると周囲にはいつものように、それを喜ぶ人々と渋い顔をする人々の2種類のグループが出来あがりました。「この方こそ、もしかしたら約束された救い主でダビデの子孫かも知れない」と喜び迎えようとする人々と、「いいや、そうじゃない」と主イエスを拒む人々と。拒む人々は、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」。25-27節。主イエスはまず2つのことを取り上げて、彼らに反論します。(1)国でも街でも家でも、仲間内で争い合うなら共々に倒れてしまう。もし私が悪魔のかしらの助けによって悪霊どもを追い払っているなら、悪魔どもはみな倒れて滅びさってしまう。そんなことはありえない。(2)当時、パリサイ人たちも、悪霊払いの魔除け厄除けの祈祷師たちと親しく付き合っていました。「あなたがたの仲間であるあの祈祷師たちはどうなんだ」と主イエスは問いかけます。あの彼らは神のしもべなのか、それとも悪魔の手先なのか。あなたがたが言い張るように、その彼らも悪魔の手先で、悪魔の助けによって悪霊どもを追い払っているのか。彼らの仕事ぶりや普段の行いから、あなたがた自身が神のしもべなのか悪魔の手先に成り下がっているのかがはっきり分かるじゃないかと。そして28節。主イエスは、はっきりとおっしゃいます。「しかし、私が神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところに来たのである」と。

       ◇

  31-32節は、とても難しいです。「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」。その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。人の子(=救い主イエスのこと)に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし聖霊を汚す言葉は、ゆるされない。聖霊に対して言い逆らう者は、決してゆるされない。『聖霊を汚す言葉。聖霊に対して言い逆らうこと』とは、どういうことなのか。なにしろまず、聖霊がどんな働きをするのか。私たちに何を告げ知らせ、何を教えるのかを、思い起こさねばなりません。聖書は証言します;「神の霊(=聖霊なる神)によって語る者はだれも『イエスは呪われよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければだれも『イエスは主である』と言うことができない」。主イエスご自身がおっしゃいました、「父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう」。主イエスはまたおっしゃいました、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。主イエスの言葉のうちに留まらせるのは聖霊の働きであり、そのように私たちを主イエスの弟子であらせつづけるのも聖霊の働きであり、主イエスの福音の真理を知らせ、その真理によって私たちに自由を得させるのもまた、すべて聖霊の働きです。また聖霊を見分ける決定的なしるしがあると聖書は証言します、「愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である」(コリント手紙(1)12:3,ヨハネ福音書8:31-32,14:26,ヨハネ手紙(1)4:1-3。聖霊を汚す言葉。聖霊に対して言い逆らうこと。主イエスへと向かわせ、主イエスの言葉を受け止めさせ、心に刻ませ、主イエスを信じて生きさせるのが聖霊の働きです。けれどなお私たち人間の肉の思いは、神に逆らわせようとしつづけます。
 もし、ある一人の人が主イエスへと向かい、主イエスの言葉を受け止め、心に刻み、「イエスは主である」と口でも心でも認め、ついにとうとう主イエスを信じて生きることをしはじめ、そのように生涯を生きはじめるならば、それは本人の力や知恵や判断でもなく、他の誰の説得がよくきいたわけでもなく、ただただ聖霊なる神のお働きです。「天の御父が主イエスに与えてくださる者は皆、主イエスのところへ来る。御父が引き寄せてくださらなければ、誰も主イエスに来ることも、主イエスを知ることも信じることもできない」(ヨハネ福音書6:37,44参照)と語られたのは、このことです。
  すると、『聖霊を汚す言葉。聖霊に対して言い逆らうこと』とは、神の霊の働きのもとに置かれたはずの人が、そのお働きに反する生き方をし、主イエスを信じて生きることを止めてしまうことなのでしょうか。聖書は証言します、「いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である」「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある」(ヘブル手紙6:4-6,10:26-27。難しい問題です。ある人は、「洗礼を受けてクリスチャンとされ、神を信じて生きる生活をはじめた者が、けれどその信仰から離れ去ってしまうならば、その人は地獄に落とされるほかない」と別のクリスチャンから教えられたそうです。たしかに聖書には、その箇所だけを取り上げて考えるならば、そう受け止めたくなるような紛らわしい表現がいくつもあります。聖書は生身の人間たちの手を用いて書かれましたが、神がその報告者たちを用いて御心を教えてくださるのであり、その意味で、まったく十分に『神の言葉』です。もし万一、聖書に信頼することができないなら、神を知るための手がかりも道筋もすっかり無くしてしまうことになります。それでもなお、『聖書全体はどう語っているのか。世々の教会は聖書をどのように読み取ってきたのか』と視野を広げねばなりません。いくら賢くても、文章を読むのが上手でも、たいへんな読書家で山ほど本を読み味わってきた博学の人であっても、それだけで独りきりで聖書を適切に読むことは誰にもできません。使徒行伝8章の、エチオピア人の宦官の出来事を思い出せますか。「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と質問され、「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」(使徒8:30-31と答えました。適切な手引きを受け、読んでいた箇所も聖書全体も、聖書の神を信じて生きることがどういうことであるのかも十分に分かり、そこであの宦官は洗礼を受け、クリスチャンとされました。「読んでいることが分かりますか」「だれかが手引きをしてくれなければ分かりません。どうぞよろしく」と手引きを受け始める。これが、聖書の基本的な読み方です。もちろん誰でも自由に読んでいいけれど、もし適切な手引きがなければ、誰にもちゃんと読むことなどできません。その人のためにも手引きがあり、その上で、やがて自分独りでも聖書を適切に読み味わうこともできるようになってゆきます(*1)
 さて、「洗礼を受けてクリスチャンとされ、神を信じて生きる生活をはじめた者が、けれどその信仰から離れ去ってしまうならば、その人は地獄に落とされるほかないのかどうか?」。いいえ、決してそうではありません。『神と出会い、神を信じる』ことも神ご自身のお働きであり、神からの恵みの贈り物です。そうであるので、『神から離れ去った者が再び神へと立ち返って悔い改める』こともまた、同じくやっぱり神ご自身のお働きであり、神からの恵みの贈り物です。もし、神がその人を憐れんでくださり、その人が神の憐れみを受け取ることができるなら、何度でも何度でも、その人は神の憐れみのもとへと立ち返ってくることができます。誰が救われるか、誰と誰が地獄へ落とされるのか。それは、ただただ神さまだけがご存知です。私たち人間には知らされていません(ローマ手紙10:5-13参照)。――これが聖書自身からの唯一の答えです。「主イエスなど知らない。知らない。何の関係もない」と三度もつづけて主を拒んだペテロが主イエスのもとへと再び引き寄せられ、ゆるされ、主イエスを信じる信仰を回復されたことを覚えておられますね。なぜ、そうなったのか。神が、あんな彼をさえ、憐れんでくださったからです。
  「聖霊を汚す言葉は、ゆるされない。聖霊に対して言い逆らう者は、決してゆるされない」。そのとおりです。しかも その心は、「けれど神がその人を憐れんでくださるなら、聖霊を汚す言葉と行いのその人でさえ悔い改め、神へと立ち返らされ、そのようにして、罪から救い出される。もし、神がその人を憐れんでくださるなら、聖霊に対して言い逆らう不届き者もまた、神がその人をねじ伏せ、その人の首根っこをギュッと掴んで連れ戻してくださり、そのようにして、ちゃんと必ず罪深さからも心のかたくなさからも救い出される」。
  神を信じて生きる者とされた兄弟姉妹たち。みなさんがよくご存知のことを、改めて、もう一度申し上げましょう。神の国は、とうの昔に、わたしたちのところに来ています。『神の国』『天の国。天国』などと言い習わされてきました。それは遠まわしな言い方で、その中身は、『神がこの世界の王様として、十分に生きて働いておられる』ということです。日本の国、ブラジル、エチオピアの国など、どこのどの国もだいたい同じですが、『その国が確かにちゃんとある』とは、その国の王さまがちゃんと責任をもって働いているということです。国の隅々にまでよくよく気を配って、力を必要なだけ十分に発揮しておられる。それなら、その国はただ形ばかり名ばかりの国ではなくて、そこにちゃんとある、現実の、骨も身もある国です。そこに住む住民一人一人の幸いや満足も安全も全て一切、王さまの力と手腕と心構えにかかっています。神さまが、この世界のすべてを造りました。ずいぶん長い間、世界は悩みと混乱と争いの中に置かれつづけました。やがて救い主イエス・キリストがこの地上に降り立ち、こう呼ばわりました。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信ぜよ」。また、「神の国は、実にあなたがたの只中にある」(マルコ福音書1:15,ルカ福音書17:21と。主イエスが教えてくださった『主の祈り』の第二、第三の願いは、「天の御父よ、あなたの王国をこの地上に来らせてください。あなたの御心をこの地上に、私たちが生きる生活の只中にも成し遂げてください」です。そのように願い求めているのは、もちろん、きっと必ず天の御父こそがそうしてくださるとはっきり信じているからです。しかも、『やがて来つつある御父の王国』は、『現にすでに来ている王国』です。なぜ。なぜなら神ご自身である救い主イエスが、神の国を背負って、この地上に降り立ち、神の国を宣べ伝え、救いの御業を成し遂げてくださったからです。また、救い主イエスを信じて生きる者たちが一人また一人と生み出され、神が生きて働く領域を着々と広げてきたからです。「初め信じた時よりも、わたしたちの救いがもっともっと近づいている」とは、このことです。主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます(ローマ手紙13:11,使徒16:31



         【補足/手引きがなければ】
         (*1)31-32節。また例えば、主の祈りの中の『われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ』など、他にも100箇所くらい飛び切り難しいチョー難問の聖書箇所があります。それらは、適切な手引きを受けながらでなければ、ひとりでは誰にも適切に読めません。①手引きがあること。②その箇所だけでなく、「聖書全体では何と語っているか。世々の教会はどう読んできたか」と思いめぐらせること。これまで聞いてきた礼拝説教や小集会での説き明かしを精一杯に蓄え、それらと照らし合わせながら読むこと。③自分自身の心でも、『どういう神さまだっただろう。どういう福音だっただろうか?』とよくよく考えつづけること。この、①②③。使徒行伝826-39節で、主の弟子が立ち去って独りで残されながら、どうして宦官はなお「喜びながら旅をつづける」ことができるようになったのか。主の弟子ピリポが彼のための手引きでしたが、それだけではなく、そのときに受けた格別な1回の授業内容は彼の心に留まって『手引き・道案内・判断基準』の役割を果たしつづけました。心に残り、大切に口ずさんできた一曲の讃美歌も、そのような役割を担います。そして、②③も。私たちもあの宦官と同じで、そのように手引きを受けながら、自分ひとりでも聖書を読み味わうようになります。

         もう1つ、聖書の基本的な読み方があります。何のために、どのように聖書を読むのかという心得です。聖書自身が教えます;ヨハネ福音書1:18,5:39-40,14:6-7,20:30-31,ルカ福音書24:25-32,イザヤ書55:8-11つまり、『主イエスと出会おうとして、主イエスを信じて、このお方から生命を受け取りたいと願って読む。~と願いつつ生きる』という心得です。どうぞ、よい日々を。