2017年1月24日火曜日

1/22「預言者ヨナのしるし」マタイ12:38-42

 ◎とりなしの祈り

 主イエスの父なる神さま。だからこそ確かに私たちの親となってくださり、必要なすべてのものを恵みの贈り物として与えてくださいました。ありがとうございます。
  私たちの目が他人の欠点ばかりを見たり、私たちの口が人を非難したり悪口を言ったりしないように守ってください。自分本位になって自分の考え方ややり方を人に押し付け、自分とは違う考え方ややり方を押しのけようとしないようにお守りください。気難しくなって、腹を立てるのに早く、ゆるすことに遅くならないように、心を頑固にしないようにお守りください。アメリカ合衆国でもイギリスでも世界中で、この日本でも、「自分たちの国と、自分たちとその家族さえ良ければそれでよい」と心を狭く貧しくし、自分勝手な風潮が多くの人々の心を覆いつくそうとしています。ないがしろに扱われつづける沖縄の人々を。南スーダンで戦争に参加させられようとしている350人の自衛隊員たちと家族を。また福島から避難して他の地域に疎開して暮らす子供たちがいじめられたり、肩身の狭い思いをしないように、その土地の学校教師、親たち、子供たちが正しく健全な温かい心で彼らに接することができるように導いてください。また多くの人々が、ごく一部の過激派を恐れるあまりに善良なイスラム教徒や難民たちを追い払おうとしています。どうか世界中の人々と私たちを、健全な良心へと立ち戻らせてください。私共も1人1人も、あなたの御心にかなうことを願い求めながら毎日の暮らしを生きることができますように。御心に反して神さまを悲しませる言葉を口に出し、行い、心に思ってしまったとき、その罪深さを本気で嘆き悲しむ私たちとならせてください。あなたのものでありますキリスト教会と、あなたのものであります私たち自身と家族を、あなたの御心にかなって建て上げてゆくことができますように。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン





                                      みことば/2017,1,22(主日礼拝)  95
◎礼拝説教 マタイ福音書 12:38-42                      日本キリスト教会 上田教会
『預言者ヨナのしるし』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  12:38 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちのある人々がイエスにむかって言った、「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」。39 すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。40 すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。41 ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。                      (マタイ福音書 12:38-41)

3:4 ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。5 そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。6 このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。7 また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。8 人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。9 あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。10 神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。4:1 ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、2 主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。3 それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。                       (ヨナ書 3:4-4:3)





 まず41節、42節、「しかし見よ。ヨナにまさる者がここにいる。ソロモンにまさる者がここに」。救い主イエスのことです。
  38-41節に集中して語ります。律法学者とパイサイ人のうちのある人々が主イエスに願い出ました。「先生、わたしたちはあなたからしるしを見せていただきとうございます」。主イエスは答えて、おっしゃいます、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる」。預言者ヨナのしるしとは何なのか。
  そこでまず、ヨナ書の大筋をごく手短に辿ります。預言者ヨナが神から命じられて、ニネベの町の人々に神の言葉を告げた。ヨナ書1章から2章。主なる神が預言者ヨナに命じます。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。主の働き人は、主である神が「せよ」とお命じになることをし、「してはならない」と神が禁じることをしないでおきます。気が向いても向かなくても、自分の好みに合っても合わなくても、なにしろご主人さまである神の命令に従う。『主である神。そのしもべ同士である私たちだ』と心得ている。だから、その人は主の働き人なのです。ところがヨナは、主の命令に背いて逃げ出します。気が向かなかったし、自分の好みや性分にも合わなかったので。神の命令のどこがどうヨナは気に入らなかったのかは、4章になってようやく明らかにされます。先取りして語りますが、とても悪いニネベの人々に向かって、「悔い改めなければ、お前たちは滅びる」とヨナは告げました。告げると、人々は悔い改めて、神へと立ち返る。すると神は、そのとても罪深い者たちをさえゆるす。そのことが分かっていたので、外国人のニネベの人々が神に立ち返ってゆるされることが気に食わなかったので、それで命令に背いて逃げたというのです。ヨナは白状します、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」(ヨナ書4:2-4。そのようにヨナは神に反抗し、神から逃げました。途中で彼の乗った船が大嵐にであい、船が沈みそうになります。ヨナはすぐ気づきました。神さまが、私の邪魔をしていると。「私のせいで大嵐になり、船も沈みそうになっています。私を海に投げ込めば船は助かりますから、そうしてください」。そのとおりになり、2章でヨナは大きな魚に飲み込まれ、三日三晩、魚の腹の中にいたあとで岸辺に吐き出されました。そのことと重ねあわせて、主イエスはご自分の身にもうすぐ起ころうとしていることを人々に告げ知らせます。十字架上で殺され、葬られ、その三日目に復活することを。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子(=主イエスご自身のこと)も三日三晩、地の中にいるであろう」と。
  神は魚に命じてヨナを陸に吐き出させ、ヨナに再び命じます。「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。ヨナは主の言葉に、渋々ながら従いはじめます。ニネベは非常に大きな町で、これを行きめぐるには三日を要するほどでした。「四十日を経たらニネベは滅びる」。そこでニネベの人々は神を信じ、断食をし悔い改めて神に祈ろうと互いに呼びかけあい、大きい者から小さい者まで荒布を着、深く悔い改めた。このうわさが耳に届いて、ニネベの王までもがその王座から降りて、きらびやかな服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座して悔い改めた。王は布告を出し、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。一般庶民も役人も大臣も王様も、獣たちさえも一緒に悔い改めて、神へと立ち返り、神の憐れみにすがりました。神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになりました。ところがヨナはこれを非常に不快に思い、激しく怒りました。「お前たちの滅びをせっかく告げて回ったのに、滅びないじゃないか」。彼のちっぽけな面子もプライドも丸つぶれです。自分の好みにも性分にも合いません。ニネベの町と人々がどうなるかを見届けようと、ヨナは町の東のはずれに小屋を立てて座り込みます。時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜びました。ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れました。やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言いました、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。神はヨナに言われました、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言いました、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。主は言われました、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。一本の木と、無数の生き物たちとが見比べられています。ヨナのためのとうごまの木。神のためのニネベの町の大勢の人々と家畜たち。自分で労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、あなたは惜しんでいる。ましてわたしは(自分で労苦し、自分で育て、多くの歳月を費やして自分自身で養ってきた、この)十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか(ヨナ書4:6-11。――悔い改め、弁えて、憐れみの神のもとへと大急ぎで立ち戻らねばならなかったのは、ニネベの町の十二万あまりの人と獣ばかりでなく、むしろ主の働き人とされていたヨナ自身です。ヨナが悔い改めることができたかどうかは、書いてありません。ヨナの姿と心のあり方は、いつの間にか心をかたくなにしてしまった神の民イスラエル自身の姿でもあり、今日のキリスト教会と私たち自身の姿でもあるでしょう。「ましてわたしは、惜しまないでいられようか。ニネベの町のおびただしい数の人と獣を。世界中のソドムとゴモラを。かたくなで、主の御心に従おうとしない働き人、おびただしい数のヨナたちを。いいや、惜しまずにはいられない」という主なる神の悲しい叫びが鳴り響きつづけています。
 「預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる」(マタイ12:39-41。しかもあの彼らも私共も、主イエスが救い主であるというしるしや証拠を見ていなかったのではありません。主イエスが病人たちを癒し、重い皮膚病を患う人々を癒し、死人をふたたび起き上がらせ、悪霊たちを追い出し、湖で波や風を叱りつけて鎮める数々の驚くべき出来事を見聞きしてきました。ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、描き出されつづけているのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか(ガラテヤ手紙 3:1参照)けれど、目も耳も心も塞がれていた彼らには十分ではありませんでした。まだまだ足りない。もっとたくさんのしるしや証拠を見せつけてくれるならば、多分きっと信じられるだろうし、もしかしたら主イエスの弟子になることもできるかも知れないと。けれど主イエスは彼らに、「あなたがたはすでに十分に見てきた。しるしや証拠が足りないからではない。信じようとする心が少しもないから信じられない」と。耳の痛い指摘です。
  「預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」と言いながら、裏腹に、神は山ほどのしるしを次々と贈り与えつづけ、信じて生きるためのしるしと手立てで私たちを幾重にも取り囲みつづけます。例えば、疑って何度も何度も不信仰に陥り、神に逆らいつづけたアブラハムとサラ夫婦を、けれど見放さず、見捨てられなかったように。例えば士師ギデオンが疑いつづけ、「しるしを。しるしを」と願う度毎に、岩の上で種入れぬパンと肉を焼き尽くしたり、羊の毛を濡らしたり乾かしたり、濡らしたり乾かしたり濡らしたり乾かしたりしつづけてくださったように。また例えば、主の弟子である疑い深いトマスのためにも、主イエスはわざわざ出かけてきてくださって、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と熱心に勧めてくださったように(創世記12:10-20,17:15-19,18:9-15,20:1-18,26:6-11,武士師記6:17-40,ヨハネ福音書20:24-29。「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と空意地を張っていたトマスが、そう言い張りながらも、「信じたいけど信じられない。なかなか信じられないから、どうしてよいか分からない」と困りはてているのをご存知だからです。「わが主よ、わが神よ」とひれ伏すことができたらどんなに幸せかと、あのかたくなな彼のためにも格別な平安を願ってくださるからです。
  さて、兄弟姉妹たち。信じるためにしるしを求めることは不信仰でしょうか? そうかも知れないし、そうではないかも知れません。たとえあまりよく信じられなくても、しるしも何も求めず、ただただ不信仰のままに留まりつづけることはどうでしょう。それは、ただただ虚しい。昔々、神を信じない、アハズという名前の王さまがいました。しかも彼は、神を信じて生きるはずのイスラエルのための指導者であり、王でした。預言者の口をとおして、主は何度も何度もアハズを促しました。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。間に合ううちに、手遅れになる前に」と。けれどアハズは、がんとして聞き入れません。「あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ」。しかしアハズは言った、「わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません」。そこで預言者の口を用いて主なる神はおっしゃった、「ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」(イザヤ書7:11-14。神は不信仰な王に向かっても、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と熱心に勧めつづけます。
 さてあのとき、主イエスはトマスにおっしゃいました。「見たので信じたのか。見ないで信ずる者は幸いである」(ヨハネ福音書20:29と。どういうことでしょう。その心は、見ても見なくても、それでもなお信じられずに一生を終わってしまうよりは、間に合ううちに手遅れになる前に、必要なだけ十分に神さまを信じることができるほうがよほど幸せだということです。見ないで信じた者は幸いです。しかも同時に、信ずることがなかなかできずに足踏みしつづけ、何度も何度も何度もしるしを見せられつづけ、ついにとうとう「神さま。参りました」と降参させられた者もまた、とても幸いです。だって、とうとう信じることができたのですから。驚くべきことに、しるしを求めつづける邪悪で不義で不信仰な者たちを、神は、けれど見放さず、見捨てられません。なぜでしょう。ニネベの町の人と獣に対してと同じく、神は、弁えの足りなすぎる不信仰な私たちをも惜しむからです。ニネベの町の人と獣に対してと同じく、神は私たちをも憐れむからです。よく弁えた、信仰深い、従順なものたちをというのではなく 右も左もちっとも弁えない者たちを、神に背きつづける者たちを、けれど滅びるままに捨ててはおけないと。惜しくて惜しくて、あまりにもったいないと。