2017年1月4日水曜日

1/1「地上を旅する私たち」創世記12:1-9

                                           みことば/2017,1,1(主日礼拝)  92
◎礼拝説教 創世記 12:1-9                              日本キリスト教会 上田教会
『地上を旅する私たち』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

12:1 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。2 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。
3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
あなたをのろう者をわたしはのろう。
地のすべてのやからは、
あなたによって祝福される」。
4 アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。5 アブラムは妻サライと、弟の子ロトと、集めたすべての財産と、ハランで獲た人々とを携えてカナンに行こうとしていで立ち、カナンの地にきた。6 アブラムはその地を通ってシケムの所、モレのテレビンの木のもとに着いた。そのころカナンびとがその地にいた。7 時に主はアブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」。アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。8 彼はそこからベテルの東の山に移って天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ。9 アブラムはなお進んでネゲブに移った。          (創世記 12:1-9) 



  まず、創世記12:1-4です。「時に主はアブラムに言われた。『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される』。アブラムは主が言われたように出で立った」。例えば、神の民のはじまりが、なぜ、あのアブラハム(後に、神ご自身によってアブラムは『アブラハム』、サライは『サラ』と改名。創世記17:5でありサラだったのかと。聖書は、「ただ恵みによって。ただただ憐れみから」(ローマ手紙3:21-26,テモテ手紙(1)1:12-16)と答えつづけます。道端の石ころからでもアブラハムの子を次々と生み出すことのできる神さまが(マタイ福音書3:9参照)、あなたにも目を留めつづけておられます。あなたのためにも、その恵みと格別な祝福を手渡そうとして待ち構えておられます。
 私たちはまた創世記12章というこのタイミングに、よくよく目を留めてみる必要があります。この世界は、神さまによって造られました。はじめには、地は形なく、むなしく、闇に覆われていました。「光あれ」。主なる神さまはご自分でお造りになったすべてのものを、その一つ一つを御覧になった。つくづく眺め渡して、「それは極めて良かった。とてもいい」と大喜びに喜ばれました。7日目に神さまはご自分の仕事を離れてホッと一息つき、その安らかな息のうちに、造られたすべてのものを祝福なさり、ご自分のものとされました。「祝福し、聖別した」(創世記2:3という『聖別』とは、神さまが、他の誰のものでもなくご自分のものとなさったということです。世界のはじまりは、もう一度、別の角度から報告されます。創世記24節以下です。地が形なく、むなしく、闇に覆われていたように、大地ははじめには草一本も生えない物淋しい土地でした。恵みの雨によって潤され、その恵みを受け止めて大地を耕し守る者たちが作り出されました。大地を耕し守る人々。それは土の塵から形作られ、鼻に生命の息を吹き入れられた人間たちです。働きと使命を与えられ、祝福と戒めを与えられ、互いに助け合う者たちの輪が2人から3人4人5人へ、102030人へと末広がりに広がってゆく祝福のご計画でした(創世記2:4-25)。けれど人間はつまずき、目を眩まされて、神さまに背いてしまいます。創世記3章にはじまった神への反逆は雪だるまを転がすようにどんどん大きくなり、私たち人間は坂道を転げ落ちるように神さまの祝福から遠ざかっていきました。創世記4章。そして6-8章。あの大洪水は人間の過ちをなにも解決しませんでした。「人が心に思い図ることは幼い時から悪い。けれどなお打つことも滅ぼすこともしない。ゆるそう」(創世記8:21-22参照)と。だからこそ11章のバベルの塔の町の出来事へと、神への背きと不従順とはとどまることなくますます大きくなり、なお根深く広がっていきました。そのどん詰まり、どん底が、12章というタイミングでした。大洪水を生き延びたわずかの者たちは決して善男善女、聖人君子というわけではなかったのです。「心に思い図ることは幼いときから悪い。誰も彼もがとても悪い。けれどなお、ゆるそう」(創世記8:21-22参照)と。困りました。「いいよいいよ、どうでもいいよ」と放置するのでは、この世界に祝福も喜びも戻りません。だから12章であり、2段階の救済処置です。(1)ひとにぎりの神の民を生み出すこと。そして、(2)やがて救い主イエスによる決定的な救い。神の民とされた者たちが、神さまを信じて、神さまにこそ信頼し、神さまの御心にかなうことを求めて生活しはじめる。そこでようやく、この世界と私たちのための祝福が現実に、具体的に実を結びはじめます。
  『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される』。神さまからの祝福と平和がリレーのように差し出され、手渡されつづけ、末広がりにその輪が広がってゆく。祝福の土台・出発点となるように。これこそが、私たちのための神さまからの願いです。元々、アブラハムとサラと子供たち孫たちと親戚一同のためだけの祝福、ではなかった。神の民イスラエルのためだけの祝福ではなかったし、ただ人間様たちのためだけの祝福でもなかったのです(創世記9:8-17,マタイ福音書24:45-51参照)
  
             ◇

  その祝福の末広がりは、けれど、どのようにして成し遂げられてゆくでしょう。「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」(12:1)という指図はいったい何でしょうか。
  聖書を読み味わってきた私たちの中で、あるとき、読んできた断片的で細切れな事柄が1つまた1つと互いに響き合い、結びつきはじめます。生まれ故郷、親族や父の家からも離れて。これとよく似たことを、どこかで読んだことがある、と。アダムとエバが神さまによって造られたとき、彼らはこう祝福されたのでした;「人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」(創世記2:24-25)。赤の他人同士だったはずの2人が結び合わされて、一体となる。互いに恥ずかしがりもせず、恥ずかしがらせもせず、恐れたり恐れさせたり、無理に従わせたり従わさせられたりもせず、睦ましく添い遂げて暮らしてゆく。そのためには、ぜひとも離れ去るべき父母という存在がありました。また例えば、主イエスの弟子たちが招かれたとき、彼らは小さな湖で魚を獲って暮らしを立てる貧しい漁師たちでしたが、父を捨て、家を捨て、舟も仕事道具の網も捨て、仕事仲間たちからも離れて、そのようにして主に従いました。また例えば、福音を告げ知らせるために町々村々へと遣わされたとき、彼らは「下着2枚も持っていくな。杖も袋も金も持たずに行け(マルコ福音書1:18-20,ルカ福音書9:1-3,10:1-4)と指図されました。奇妙な指示です。何も持っていってはならない。余分な杖もパンも金もキャッシュカードも、着替えの下着さえ。どういうことでしょうか。なんという無暴で世間知らずな。そんなことで現実の生活が成り立つでしょうか。――もちろん成り立つわけがありません。主のもとから送り出された弟子たちは、出かけていって1日2日で、早くも生活に困窮し始めます。何かをしようとする度に、「さあ、困った。どうしたらいいだろうか」と頭を抱えます。食べるにも飲むにも着るにも、何をするにも不自由します。町や村へと遣わされていった弟子たちは、そこで、その土地に住む人々に頼って生活せざるをえません。なんと不自由で肩身が狭く、なんと心細いことでしょうか。まるで、わざわざ、主によってそのように仕向けられているかのようです。ピンポン、その通り。
 捨て去るべきものは、それぞれ後生大事に抱えていた後ろ盾です。これがあるから大丈夫という、安心材料、頼みの綱。さらにもう一つの安心材料は、自分自身でした。これまでこうやって世の中を渡ってきたというそれぞれの小さな誇りであり、プライドでした。「しっかりしている。取り柄も見所も社会経験も見識もたっぷりある、なかなかたいした自分だ」という自負心でした。自分に頼って生きてきた優れた人物たちも、けれど信仰をもって生きる中で、その自信も小さなプライドも粉々に打ち砕かれ、大恥をかかされました。自分を信じるのではなく、主なる神さまをこそ信じるようにと。自分を誇り、自分を頼りとするのではなく、主をこそ誇り、主を頼みの綱として生きるようにと(コリント手紙(1)26-31,(2)1:8-10,ローマ手紙3:21-27)。だからこそ、やがて彼らが道端で貧しい小さな人と出会ったとき、「さあほら、素敵な私を見なさい」とは言いませんでした。「嫌だわ。恥ずかしい。私はあまり素敵じゃないのでこっちをジロジロ見ないでね」とも言う必要もありませんでした。この私が素敵だかそうでもないか、どんな見所と取り柄があるのか、そんなことと福音伝道とは何の関係もなかったのです;「さあ、私たちを見なさい。この私をよくよく見なさい。金銀は私にはないが、見所や取り柄があるわけでもないが、持っている飛びっきりに素敵なものをあなたにあげよう。ナザレ人イエスの名によって歩きなさい」(使徒3:4-6参照)と。だからこそ、その同じまったく新しい安心材料を受け取り、踊りあがって大喜びしながら生きる者たちが1人また1人と呼び出されていったのです。

 その日から、神の慈しみによって生きることが始まりました。「わたしが示す地に行きなさい」と命じられ、「はい。分かりました」と主が言われたように出発しました。聖書の別の箇所では、「それに従い、行く先を知らないで出ていった」(ヘブル手紙11:8と報告しています。その通りです。行く先を知らないで出ていっては、何か不足や不都合があるでしょうか? いいえ、何も困りません。それで十分です。なぜなら「わたしが示す地に行きなさい」と指図され、「はい」と出発したからです。確かに、いつごろ、どんな場所に辿り着くかは、はっきりとは知らされていません。けれど、なにしろ主に従って歩んでゆくと決めています。主が先立って導いてくださり、見捨てることも見放すこともなさらないと約束されています。そうでしたね。例えばこの後ごいっしょに歌う讃美歌288番の2節は、「行くすえ遠く見るを願わじ。主よ、わが弱き足を守りて、ひと足、またひと足、道をば示したまえ」と心安くほがらかに歌っています。行くすえ遠く、5年後10年後どうなっているかを知りたいとは願いません。また、私がやがて世を去った後で残された大切な連れ合いや息子や娘や孫たちがどんなふうに生きてゆけるのかを、私たちは知らされていません。いいえ、知らなくても結構。だって、すべて一切を主なる神さまにお任せして旅立った私共ですから。主よ、私の弱い足腰をどうか守り支えてくださって、ひと足、またひと足と道を示し、手を引くようにして天の都へと導きのぼっりつづけてください。それで十分、と歌っています。この祈りの人も、私共も、そしてもちろんアブラハム、サラ夫婦も。だからこそ折々に立ち止まり、その都度その都度、神からのご命令と指図とを仰がねばなりません。創世記12:7-9;「時に主はアブラムに現れて言われた、『わたしはあなたの子孫にこの地を与えます』。アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東の山に移って天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ。アブラムはなお進んでネゲブに移った」。立ち止まり、祭壇を築き、主の御名を呼ぶ。また立ち止まり、祭壇を築き、主の御名を呼ぶ。そしてまた。一週間また一週間と区切られた旅路を歩む私たちです。なぜ立ち止まり、主を礼拝し、なんのために主の御名を呼ぶのか。なぜ主からの御声に耳を傾けつづけるのか。その都度その都度、神からのご命令と指図とを仰ぐためにです。主が示す地にやがて必ず辿り着くためにです。主からの助けと養いを受け取りつづけ、主によって支えられつづけて、その旅路を心安く歩みとおすためにです。