2017年1月15日日曜日

1/15「木が良ければ、実も良い」マタイ12:33-37,ローマ11:16-23

                                      みことば/2017,1,15(主日礼拝)  94
◎礼拝説教 マタイ福音書 12:33-37,ローマ手紙11:16-23   日本キリスト教会 上田教会
『木が良ければ、実も良い』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  12:33 木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。34 まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。(マタイ福音書12:33-34)

11:16 もし、麦粉の初穂がきよければ、そのかたまりもきよい。もし根がきよければ、その枝もきよい。17 しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、18 あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。19 すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。20 まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。21 もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。22 神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。        (ローマ手紙11:16-22)

  



 大勢の、様々な人々が主イエスの話を聞いていました。「まむしの子らよ」「あなたがたは悪い者であるのに」34節)とは誰のことを言っているのでしょう。おもには、パリサイ人や律法学者たちかも知れません。あの彼らは、自分たちこそが正しくふさわしい人間だと自惚れて、他の人々を見下し、分け隔てをして除け者扱いし、バカにする人々でした。けれど福音書の中で度々、その彼らが主イエスからたびたび槍玉にあげられ、きびしく批判されつづけるのは、その彼らをバカするためではなく、彼らのためでさえなく、もっぱら、主イエスを信じて生きていこうとする私たちクリスチャンたちのためでした。あの彼らは私たちの普段の良くない姿を映し出す鏡であり、悪い手本であり、あの彼らとそっくり同じに、この私たち自身も『自分たちこそが正しくふさわしい人間だと自惚れて、他の人々を見下し、分け隔てをして除け者扱いし、バカにしてしまう』性分を根強く抱えているからです。クリスチャンだけでなく、人間皆がその性分を抱えています。むしろ主イエスはここでも私たちに向けてこそ「まむしの子らよ」「あなたがたは悪い者であるのに」とわざわざ語りかけておられます。神ご自身の、私たちに対するいつもの扱い方です。それは、私たちを見下して惨めな嫌な思いをさせるためではなく、その低くされてへりくだった場所から考えはじめるためにです。それは、私たちの役に立ちます。神の恵み深さを味わうために。共々に喜び感謝し合うため。『私は正しい。わたしはふさわしい』と自分の正しさにしがみつこうとする罪深さから救われて(ローマ手紙10:1-4参照)、神からの恵みと幸いのうちに生きるために。

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 さて、33節。「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである」。聖書の神を信じる人々は、ずいぶん長い間、一本の木を眺めながら神と自分たち自身を思いめぐらせつづけてきました。私たちも、土と木とその枝と実について思いめぐらせましょう。それで、ローマ手紙11:16-23を合わせて読みました。「そこで、わたしは問う、『彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか』。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。そこでわたしは、あなたがた異邦人に言う。わたし自身は異邦人の使徒なのであるから、わたしの務を光栄とし、どうにかしてわたしの骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている。もし彼らの捨てられたことが世の和解となったとすれば、彼らの受けいれられることは、死人の中から生き返ることではないか。もし、麦粉の初穂がきよければ、そのかたまりもきよい。もし根がきよければ、その枝もきよい。しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない」。ローマ手紙9章の初めからここまで、ユダヤ人がどんなふうに失敗してつまずいてしまったのかが見据えられてきました。ここからいよいよ、元々ユダヤ人ではない外国人たち(=つまり私たち)のための救いがどんなもので、私たちがどんなふうに救われるのかが語られはじめます。それでもパウロは、同胞であるユダヤ人への思いを頭から拭いきれずにいて、それで結局ず~っと、《異邦人のための救い》と《ユダヤ人のための救い》と、その両方共を見据えつづけます。14節。だって、なにしろ「わたしの骨肉」(14)ですから。「骨肉。これこそついに、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(創世記2:23)。いい言葉ですね。皆の救い、全世界全人類の祝福。それでも本心はやっぱり、なにしろ私の骨肉、わたしの家族をなんとかしてと思い続けます。僕もそうです。私の夫、妻、私の大切な息子たち、娘たち、孫たち。あの彼らになんとかして神さまからの格別な恵みと祝福をと。だからです。だからこそ、この章の終わりごろにはついに、《異邦人のための救い》と《ユダヤ人のための救い》その両方共の救いを、「すべての人のための神の救いはこういうことなんだ」と彼は思い至ります。
 聖書を読んでいて、ふと、聖書の別の箇所が頭に思い浮かぶことがありますか。連想ゲームのようにです。「そういえば、……こことよく似た言葉や場面を読んだことがある。どこだったか。同じようなことがあった。どこだっただろう」と。この神の、あまのじゃくでヘソ曲がりな取り扱い。わざと後回しにする。先の者を後にし、後の者を先にする。下にいる低い者を高く引き上げ、上の者を引き降ろす。後回しにされた人たちが他の人の喜ぶ顔を見て、妬んだり悔しがる。読み進んできて、ここで例えば、ぶどう園で朝早くから働いた労働者たちが後回しにされて腹を立てた光景を私たちは思い起こします。あるいは、弟と父親が再会を大喜びに喜ぶ傍らで、その放蕩息子の兄が僻んで、家の外でふてくされている場面(マタイ20:1-,ルカ15:25-)を。あの時、息子たちの父さんはこういって上の息子をなだめまていました。「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである」(ルカ15:31-)。お前の弟はいなくなっていたのに見つかった。死んでいたのに生き返った。だからお前だって、ふてくされて死んだようになっていないで、もうそろそろ生き返ったらどうだ。あのプンプン腹を立てていた兄さん、そしてあの朝早くからの労働者たちは、父のすぐ膝元にいながら「いなくなり、死んでいた」のです。いつも一緒にいながら、父からも、父の祝福や恵みからも愛情からもはぐれて、迷子になっていました。当時のユダヤ人たちの現実そのままに。あるいは今日の、多くのキリストの教会の現実そのままにです。いいえ。この私自身の、普段のいつもの、信仰をもって生きる日常生活の現実そのままに。
 長い年月をかけて育てられてきた1本の木です。1本の大きな木を思い浮かべてみてください。長い長い歳月をかけて養い育てられていく、1本の、とても大きなオリーブの木です。数千年かけて育まれてきた、1本の、大きな大きなオリーブの木、それが神の民イスラエルです。こ~んなに太い幹の、その根本から梢の先まで、びっしりと、たくさんの枝々が伸びています。1本1本の枝は、それぞれの時代時代のイスラエル民族であり、キリストの教会であり、11人の私たちキリスト者です。ごく早い時期に根元のあたりから伸びた太い枝があり、数千年後になってから、梢近くで芽を出して伸びてきた若くて小さな枝々もあります。例えば、そこには長野や松本あたりの枝があり、上田の枝があり、だいたい日本キリスト教会という枝自体が、梢の先の先のほうからつい昨日今日芽を出したばかりの、ほんの小さな若い枝の1つですから。この上田の枝は、数千年の営みの中にあるわずか140年ほどの日々ということですね。その大きなオリーブの木は、木を守る《耕す人・農夫》によって手入れを受けています。忍耐深く骨惜しみしない働き者であり、木をとても愛している農夫は、野生のオリーブの木から枝を切り取って、この豊かな木に接ぎ木しつづけています。
 手入れをする農夫。太い幹。そして多くの枝々。それは父なる神、神の独り子イエス・キリスト、そして多くの信仰者たちです。ある者は、ごく早い時期に根元のあたりから伸びた枝のようであり、彼らはユダヤ人と呼ばれました。ずいぶん後になって、野生のオリーブの木から切り取られてこの木に接ぎ木された枝のような信仰者たちもいます。かつては神の民ではなかった。今は、憐れみを受け、よいオリーブの木に接ぎ木され、根から豊かな養分を受け取るようになった。神の民としていただいた(ペトロ(1)2:10)。異邦人であるキリスト者、つまりこの私たち。
 「誇るな。思い上がるな。むしろ恐れて、神の慈愛と峻厳とを見よ」(18,20,25)。私たちは、いつもこのように戒められます。梢の先のほうから地面を見下ろすと、折り取られた無数の枝々が地面に横たわっています。根からの養分が、いつどんなふうに遮られ、枝まで届かなくなってしまったのか。また根から養分を受け取ることを、その枝自身がどんなふうに止めてしまったのかを私たちは聞かされています。恐ろしいことです。そして野生のオリーブの枝であった私共が、いつ、どんなふうにして、この豊かな大きな木に接ぎ木していただいたのかを、よくよく覚えているからです。私たちは恐れつつ、喜びます。喜びつつ、恐れます。彼らは不信仰のために折り取られたのであり、いま私たちは、ただ信仰によって幹に結ばれているのだとすれば。それは、ただ恵みによったのであり、憐れみを受けたからなのですから(ローマ3:21-30)私たちは喜びつつ恐れます。でもいったい何を、誰を、私たちは恐れましょうか。主なる神さまがただ恵みによって私たちを良い木に接ぎ木してくださって、神の民としてくださいました。ならば私たちは、もう誰をも恐れなくてよいはずです(27:1-4)。いいえ むしろ、いつも『敵は本能寺にあり』です。その慈しみ深い神の恵みに背いてしまいそうな、せっかく受け取った主の恵みと憐れみをポイと投げ捨ててしまいそうな、この私自身の心のありようをこそ恐れましょう。いじけたり高ぶったりしながら、浮き足立って主の恵みのもとから度々迷い出てしまいそうな、気もそぞろの私自身をこそ恐れます。
 「あなたが根を支えているのではなく、根が、あなたを、支えている」(18)。金槌で、頭をいきなりガツンと殴られたような気持ちです。ついうっかりして、あの頼りがいのあるしっかりした誰彼の働きや、この私の働きが肝心要だと思い込んでいました。自分の両肩に背負って、この私たちこそが働いていると。私たちが計画し、この私が心を配り、だからこの私が万端すっかり取り仕切って、私が細々と世話を焼いて面倒を見てやらなければ、この木の幹も、他の枝々も根も、倒れたり枯れたりしてしまうだろうと。この私こそが木の幹を支え、枝々を支え、私が根を支え、土を支えているのだと。まるで親分かボスのように。それは大間違いだ、と聖書66巻は語りつづけます。私たちのボスは天におられ、そのとても良い格別なボスは生きて働いておられると。なにしろ、「あなたが根を支えているのではなく、根が、あなたを、支えている」。主なる神は私共に、それぞれの枝ぶりの出来不出来にではなく、木の幹に、根に目と心を注がせようとしておられます。その心強さと豊かさとに。あなたが根を支えているのではなく、根が、あなたを、支えている。そんなあなたや、こんな身勝手で了見が狭くてふつつかであまりに未熟な私をさえも支えつづけていただいている。なんということでしょう。まったくの、ただただ憐れみの取り扱いでありつづけます。今までもそうでした。これからも同じく変わらず、憐れみの取り扱いでありつづけます。なんという幸いでしょう。