2017年1月4日水曜日

1/1こども説教「不信仰な弟子たちを、けれど主は見捨てない」ルカ9:37-43

 1/1 こども説教 ルカ9:37-43
 『不信仰な弟子たちを、けれど主は見捨てない』

9:38 すると突然、ある人が群衆の中から大声をあげて言った、「先生、お願いです。わたしのむすこを見てやってください。この子はわたしのひとりむすこですが、39 霊が取りつきますと、彼は急に叫び出すのです。・・・・・・40 それで、お弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。41 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか、またあなたがたに我慢ができようか。あなたの子をここに連れてきなさい」。  (ルカ福音書 9:38-41

 そのときには、主イエスの弟子たちには子供を助けることができませんでした。41節。「ああ、なんという不信仰な、曲がった時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。また、あなたがたに我慢ができようか」。主イエスは、いつになく厳しく冷たい口調で言います。とてもガッカリしておられるようです。しかも、「時代が不信仰で曲がっている」というだけではなくて、もちろん時代もかなり曲がっていますけれど、むしろ目の前にいる弟子たちに向かって「あなたたちこそが不信仰で曲がっている」と叱っています。なぜなら、この9章のはじめには、その弟子たちは悪霊を従わせ、病気を癒す力と権威とを授けられて送り出され、そのように何度も何度も病気を癒してきました。あのときにはイエスを信じる信仰をちゃんと持っていて、とても真っすぐでした。それからほんの何日かしかたっていないのに、あのとき授けられた力と権威を取り上げられたわけでもないのに、もう信じる心がどこかに紛れてしまい、心をすっかり鈍くさせられています。だから、「なんという不信仰な」と。私たちも同じです。主イエスを信じる信仰が十分にあったり、かと思うと、どこかへ隠れてしまったり。心がまっすぐだったり、あるいはねじ曲がってしまったり。その危なっかしい弟子たちを、けれど主は見捨てません。「いつまで一緒におられようか」と言いながら、いつまででも一緒にいて 主を信じる信仰を何度でも取り戻させてくださいます。だから、もし、自分が脇道へ逸れてしまったと気づくなら、「主よ、信じる信仰を必要なだけ十分に与えてください。まっすぐな心に治してください」と私たちも願い求めることができます。本当にね。


      【補足/信じる信仰を】
           (*)同じ出来事がマタイ17:14-21,マルコ9:14-29でも報告される。マタイでは、「あなたがたの信仰が足りないからだ」と弟子たちにていねいに説明し、マルコでは、子供の父親が「信じます。不信仰な私をお助けください」とひれ伏して叫びました。不信仰で信じる心が全然足りないのは、あの父親も弟子たちも私たち一人一人も皆同じです。むしろ、『もともと神が信仰をその人に贈り与えて信じはじめる』ことを思い出しましょう。信仰を成長させ、回復させてくださるのも、やはり神ご自身です。自分自身の不信仰、神を思うことの少ない心の鈍さに気づくなら、「信仰を与えてください。増し加えてください」と祈り求めましょう。願うなら、その願いはかなえられます。この9章では、とくに弟子たちの信仰が大きくなったり小さくなったり、強くなったり弱くなったりと右往左往しつづけています。他のことに気がまぎれるからです。そのように、心が鈍くされやすい私たちです。神の現実に対して目覚めている必要があり、そのためにも、「祈っていなさい」と主イエスから度々戒められます(ルカ22:39-46)。サタンが折々に私たちの邪魔をし、心を鈍くさせようとし、だからこそ、「サタンよ、引き下がれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。自分自身と周囲の人間のことばかり思い煩っているから、そのおかげで、あなたも神を思う暇が少しもないじゃないか」。また、「イエスにこそ聞け」(マタイ16:23,ルカ9:35参照)と天の御父から指図されている私たちです。
           「信仰が足りない」と主は弟子たちを叱ります。では、どれくらいの信仰があれば十分なのか? 「からし種一粒ほどあればいい」(ルカ17:6と答えられます。なぜなら神ご自身が種を蒔き、土を耕し、水や肥料を与え、成長させてくださるからです。「いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。また、あなたがたに我慢ができようか」(9:41)とかなり冷たく厳しい言葉を語りながら、けれど裏腹に、その心は十分に愛情深いと気づいていましょう。厳しい叱責と、その子を思う内心の愛情は裏腹です。親が子を叱るときにように。「見捨てることも見放すこともない」「見よ、わたしは世の終わりまで共にいる」(申命記31:8,マタイ28:20)と固く約束されているとおりです。信じるに値する救い主です。