2021年2月15日月曜日

2/14「放蕩息子の回心」ルカ15:11-19

            みことば/2021,2,14(主日礼拝)  306

◎礼拝説教 ルカ福音書 15:11-19               日本キリスト教会 上田教会

『放蕩息子の回心』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

15:11 また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。12 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。13 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。14 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。15 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。16 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。17 そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。18 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。19 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。                                  (ルカ福音書 15:11-19)

                                                

2:22 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。24 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。25 あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。

     (1ペテロ手紙2:22-25)

 11節、「ある人に二人の息子があった」。この「ある人=父親」は、神様のこと。「2人の息子」は、私たち人間のことです。兄と弟、2種類の別々の人間、別のタイプがあるというよりも、同じ一人の私の中にも2つの心やあり方があります。今日と次週はまず、弟の箇所です。12-16節、「ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった」。このたとえ話の中で最初に目に入るのは、自分自身の心に思うまま、思い通りに生きていこうとする自由な人間の姿です。何にも捕らわれない自由な生き方。それはたいそう好ましくも感じられ、「そのように思う存分に自由に生きてみたい、そうできたらどんなに素晴らしいだろうか」と願う心が誰にでもあるかも知れません。多くの人々が、また私自身も、父の家を出ていったこの一人の放蕩息子のようでした。

 私たちは皆、生まれつきとても傲慢であり、あまりに思い上がった自分勝手、自分中心な心を抱えています。あるいは逆に自尊心が低すぎて、自分に自信が持てず、「これでいいんだ」と自分を認めることも自分を十分に愛することもできないで、卑屈に臆病になりました。そうやって嘆いたり怒ったり怖がったりしながら、自分だけの小さな殻に閉じこもっています。ですから、神との交わりのうちに、神のお働きと配慮のもとにその御心に聞き従って生きてゆくことを喜ぶことのできる人間は、ごくわずかかも知れません。私たちの多くは、父の家を出ていったあの一人の息子のように、主なる神に背を向け、その御もとから遠く離れ去ってゆきました。神を抜きにして、まるであたかも神がいない世界に生きているかのように。けれど多くの時間が過ぎ去ったあとで、父の家を出ていったあの一人の息子は、手にいれたはずの多くのものは何の役にも立たない、ただ虚しいだけのものだったと気づかされました。父から多くの財産を分けていただき、多くの良いものを贈り与えられていたはずなのに、すべての財産をただ虚しく使いつぶしてしまった。何かに心を奪われ、自分自身の身勝手な欲望や心の思いの奴隷とされ、贈り与えられた財産をただ虚しく無駄遣いしつづけ、そして結局、私の手元にはもう何一つも残っていない。この息子が陥ってしまった苦境、虚しさ、無意味に使いつぶしてしまった人生、誰にすがることも助けを求めることもできないその惨めさやその心細さを、聖書は「自分自身の罪。その罪によって陥ってしまった悲惨」だと語りかけます。また、「私たちはみな迷い出てしまった一匹の羊のようだ。それぞれに道を踏み外し、それぞれの方角へと迷い出ていってしまった」(イザヤ書53:6参照)と。この一人の息子のふるまいと、陥ってしまったはなはだしい苦境は、神に背を向け、離れ去っていったこの私たち自身の姿をありありと写し出しています。

 父の家を出ていったあの息子は、目が見えなくされ、とても大切なことがまったく分からなくされていました。自分自身が何者であるのかを知らないことこそが、最も憐れむべき悲惨さです。自分は何者なのか。すぐに簡単には答えが見つかりません。時間をかけて、少しずつ少しずつ気づかされています。目が見えなくされたまま、あの彼も私たちも、暗闇の中をさ迷い歩きつづけました。そこから光の中へと連れ戻され、自分がいったい何者であるのかをついに知らされた者たちは幸いです。あの父親の子供であり、父の家に父と共に暮らしているはずの自分だったと。「彼らは知らなかったし、理解することもできなかった。そのために、彼らは暗闇の中をさ迷い歩きづけた」(詩82:5参照)。私たち自身のことです。

 すべての財産を遣いつぶしてしまう虚しく惨めな体験が、あの息子にはどうしても必要でした。自分自身の乏しさ貧しさを骨身に沁みてしみじみと思い知らされ、飢え渇いて、神の憐みを慕い求めはじめるためには。なぜなら、道に迷いつづけた羊たち。自分自身の傲慢さと、あまりに思い上がった、自分勝手で自分中心な心が、神と自分との間に立って邪魔をしつづけていたからです。それらを粉々に打ち砕いていただけなければ、目が覚めませんでした。だから神は、「渇きを覚えている者は水のところに来なさい」「すべて重荷を負っている者は来なさい」(イザヤ書55:1,マタイ11:28-30と呼ばわりつづけました。「自分は。自分こそは」という偽りの財産とただ虚しいだけの重荷をすっかり遣いつぶし、ブタ小屋に追いやられ、その餌でも食べて飢えを満たしたいと追い詰められたとき、そのようにして、その人のための神の憐みと祝福のときが近づきました。もし、そうでなければ生涯の最期の最期まで心を頑なにし、傲慢でありつづけ、あるいはいじけて臆病になりつづけ、父の家から遠く離れたままで生命を虚しく終えていたかも知れません。

 17-19節、「本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』」。雇人とは、今日では日雇い労働者に似ています。あるいは、いつ解雇されるか分からない非正規雇用の労働者です。あるいは、「技能実習生」という体裁のよい名目のもとに使い捨てにされ、都合よく不当に搾取されつづける外国からの出稼ぎ労働者たちです。そのようなとても不安定で心細い境遇に放置されつづける者たちでさえ、父の家では十分なパンを与えられて安らかに暮らしている。あの彼は、ついにとうとう立ち上がって、父の家へ帰っていこうとしています。そこが自分のいるべき場所だからです。自分は父の息子だと、とうとう思い出したからです。しかも同時に、「そこにいる価値や資格がまったくない者であり、この私自身こそが神にはなはだしく背きづける、最低最悪の罪人ある」と心底から痛感し、認めています。悔い改めて神へと立ち返るとは何でしょうか。神を信じて、その信仰をもって生きてゆくはどういうことでしょう。「それは単なる形式でも儀式もなく、日毎の悔い改めであり、自分の思いと在り方を神へと向け返しづけて生きること」だと宗教改革者は説き明かしました。自分自身では、それはなかなか出来ませんでした。「罪人だ、罪人だ。私たちは罪人の集団にすぎない」と頭の片隅や口先では言いながら、自分自身の心の中ではいつまでたってもとても傲慢でありつづけ、思い上がった、自分勝手で自分中心な心を拭い去ることが出来ませんでした。あるとき、剣で胸を刺し貫かれたような痛みを感じました。「ああ間違っていた。自分は、すっかり思い上がっていた。神に背いてあのは、他の誰でもなくこの自分自身だった」と気づきました。聖霊なる神のお働きが、ついにとうとうその人の中で始まったのです。自分自身のブタ小屋の中でブタが食べる餌を眺めながら、とうとう思い起こさせていだきました。「わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」と。とうとう、その一人の罪人のためにも、罪の牢獄の扉が打ち破られました。罪や肉の欲望の手下にされることや、牢獄に閉じ込められづけることを止めにしたいと願いました。父から贈り与えられた財産も命も何もかも虚しくずっかり遣いつぶしてしまうことは、もうイヤだと。あの息子はへりくだった低い心を贈り与えられて、へりくだった祈りをさげはじめました。あるとき心に痛みを覚えさせられ、ついにとうとう、あの彼も私たち一人一人も祈りはじめます、「わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました」、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」(詩451:3-4,ルカ18:13と。これこそが、只一つの救いに至る悔い改めです。

 

              ◇

 

 さて最も大切な最優先事項は、コロナの禍いや自然災害や、どんな社会現象でもありません。どういう神であられ、神が何をなさるのかということです。いつも恐れて警戒しつづけなければならないのは、神を信じる信仰が骨抜きにされ、いつの間にか生命と喜びと希望を失い、中身のない形ばかりのものにされ、二の次、三の次へとどんどん後回しにされつづけることです。どの社会の、どんな時代状況あっても、むしろはなはだしい困窮の只中にあればあるほど、あの人やこの人、また自分自身がどういう人物であるかでもなくて、ただただ神ご自身こそがどういう神であられるのか。救いと幸いをどのように差し出そうとしておられるのか。なんでもおできになり、この私たちのためにさえ確かに生きて働いておられ、しかも憐み深い神です。もし、その神を心底から本気になって信じて生きることができるなら、神を第一として暮らしを建て上げてゆくことができるなら、その人と家族は幸いです。父の家を出ていった息子が帰って来たように、一人の罪人が神のあわれみとゆるしのもとへと立ち返るとき、そのとき直ちにその人は神の憐みとゆるしを受け取りはじめます。なぜなら、不信仰で神に背きつづけていた間から、すでにその人をゆるそうとし、迎え入れようとして、憐みの神が準備万端で待ち構えておられるからです。あの父親のような神が、こんな私たちをさえ今か今かと待ち構えておられました。私たちの主なる神さまは、価なしにただ恵みによって憐れんでくださる慈しみ深い神です。ただその恵みと憐れみによって救われた私たちです。神に逆らい、背いていた、神を信じる心がほんのわずかしかなかった不信仰な私たちのために救い主イエス・キリストが死んでくださいました。死んで、死者の中からよみがえってくださいました。そのことによって、私たちに対する神の愛と憐みが示され、差し出されました(ローマ手紙8:5-11参照)。ついに、とうとう思い出しました。価なしに、ただ恵みによって多く愛され、多くをゆるされつづけてきた私たちです。迷子になったあの一匹の羊のように。あの1枚の銀貨のように。父を見失ってはぐれていたあの息子たちのように。いなくなっていたのに見つけ出していただきました。死んでしまうところだったのに、生き返らせていただきました。その1人の迷い出てしまった貧しく小さい哀れな罪人を思って、神さまご自身がどんなに心を痛め、どんなに深く嘆き悲しむことか。だからこそ、立ち帰ってきたその1人の罪人を思って、神ご自身が大喜びに喜んでくださる。その喜びの大きさと深さは、その人のための神さまご自身の悲しみや嘆きの大きさと一組でした。目を凝らしつづけましょう。1人の羊飼いはその一匹の羊のために大喜びに喜んでいます。「皆さん、いなくなっていた羊をとうとう見つけました。一緒に喜んでください」。あの1人の女もその一枚の銀貨のために喜んでいます。「嬉しい、嬉しい。本当に嬉しい。どうぞ、一緒に喜んでください」と。見つけ出されて生き返ったその一人の罪人のためにも、神さまご自身こそが憐れみの御業を持ち運んで、生きて働いてくださっています。祈り求めましょう。


2/14こども説教「待ち伏せ計画を千卒長に伝える」使徒23:16-22

 2/14 こども説教 使徒行伝23:16-22

 待ち伏せ計画を千卒長に伝える

 

23:16 ところが、パウロの姉妹の子が、この待伏せのことを耳にし、兵営にはいって行って、パウロにそれを知らせた。17 そこでパウロは、百卒長のひとりを呼んで言った、「この若者を千卒長のところに連れて行ってください。何か報告することがあるようですから」。……19 そこで千卒長は、若者の手を取り、人のいないところへ連れて行って尋ねた、「わたしに話したいことというのは、何か」。20 若者が言った、「ユダヤ人たちが、パウロのことをもっと詳しく取調べをすると見せかけて、あす議会に彼を連れ出すように、あなたに頼むことに決めています。21 どうぞ、彼らの頼みを取り上げないで下さい。四十人あまりの者が、パウロを待伏せしているのです。彼らは、パウロを殺すまでは飲食をいっさい断つと、堅く誓い合っています。そして、いま手はずをととのえて、あなたの許可を待っているところなのです」。22 そこで千卒長は、「このことをわたしに知らせたことは、だれにも口外するな」と命じて、若者を帰した。                (使徒行伝23:16-22

 

 

 神さまを信じる人たちを、神さまご自身が守り、支えてくださいます。まわりの人たちやいろいろなものを用いて、神が守ってくださいます。救い主イエスの弟子とされたパウロを、こっそり殺してしまおうとする悪い計画が立てられていました。それを知った者が、1000人の兵隊を率いる隊長にその計画を知らせました。19-21節、「そこで千卒長は、若者の手を取り、人のいないところへ連れて行って尋ねた、「わたしに話したいことというのは、何か」。若者が言った、「ユダヤ人たちが、パウロのことをもっと詳しく取調べをすると見せかけて、あす議会に彼を連れ出すように、あなたに頼むことに決めています。どうぞ、彼らの頼みを取り上げないで下さい。四十人あまりの者が、パウロを待伏せしているのです。彼らは、パウロを殺すまでは飲食をいっさい断つと、堅く誓い合っています。そして、いま手はずをととのえて、あなたの許可を待っているところなのです」。「エルサレムだけではなくローマでも、パウロに救い主イエスのことを皆に知らせさせる」(使徒23:11と神が決めておられます。ですから、そのことを成し遂げるまでは、パウロは神に仕える働きを誰にも邪魔をされません。この私たち一人一人も神に仕えて生きるようにと、神さまによって選ばれています。だから、その一つ一つの働きは神さまが願った通りに良い実を結びます。 

2021年2月8日月曜日

2/7「見失った一枚の銀貨を」ルカ15:1-3,8-10

            みことば/2021,2,7(主日礼拝)  305

◎礼拝説教 ルカ福音書 15:1-38-10          日本キリスト教会 上田教会

『見失った一枚の銀貨を』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC 

15:1 さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。2 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。3 そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、……「8 また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。9 そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。10 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。    ルカ福音書 15:1-38-10

                                               

 1:72 こうして、神はわたしたちの父祖たちにあわれみをかけ、その聖なる契約、73 すなわち、父祖アブラハムにお立てになった誓いをおぼえて、74 わたしたちを敵の手から救い出し、75 生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである。76 幼な子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう。主のみまえに先立って行き、その道を備え、77 罪のゆるしによる救をその民に知らせるのであるから。78 これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、79 暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くであろう」。(ルカ福音書1:72-79)

 この15章の3つのたとえ話15:3-7,8-10,11-32は3つで1組であり、『ルカ福音書の心』だと言い習わされてきました。いいえ、聖書66巻全体の心、神さまご自身の心であると言ってよいでしょう。しかも神さまの心は、2つも3つもあるのではなくて、ただ1つ。羊のたとえや息子のたとえと照らし合わせながら、この2番目のたとえを読み味わいましょう。

 10枚の銀貨を持っていた女性がその中の1枚を見失いました。すると、家中ひっくり返して夜通し探しつづけ、見つけたら大喜びに喜ぶというのです。それはちょうど、100匹の羊を飼っている羊飼いがその中の1匹を見失い、たいへんな苦労をして探し出し、大喜びで連れ帰るのと同じように。それはちょうど、2人の息子がいる父親が1人の息子がようやく家に帰ってきたのを出迎えて喜びにあふれるのと同じように。1枚の銀貨。1匹の羊。出て行って戻ってきた1人の息子。そして、ずっと家にいっしょにいたはずのもう1人の息子。それらが、神を見失ってはぐれていた私たち自身の姿である、と聖書は語ります。例えば、あの羊がどんなふうに迷子になったのかは、私たちには分かりません。うっかりしていたのかも知れないし、自分勝手だったのかも知れません。狼や羊ドロボウに目をつけられていたのかも知れません。迷子になって途方にくれて、「帰りたい」とメエメエ鳴いたのかも知れないし、あるいは、迷子になったとも気づかず気楽に気ままに草をムシャムシャ食べ続けていたのかも知れません。また、あの息子は自分で判断し、家を出ていくことを自分自身で選び取りました。やがて身を持ち崩して「父の家に帰りたい」と願い、家に帰ってくるときも、誰に勧められたのでもなく自分から帰ってきました。さて、あの銀貨は、うっかりしていたのでもなく自分勝手だったのでもなく、帰りたいと鳴いたのでもなく、自分で帰ってこようとしたのでもありませんでした。だって、ただの銀貨だったのですから。ただ単に財布から落ちて、コロコロ転がって、どこかに紛れ込みました。自分が失われた、とも知りませんでした。放っておけば100年でも200年でもそのまま失われていたでしょう。見つけ出されて持ち主の手に戻っても、たとえ持ち主が大喜びに喜んだとしても、けれど銀貨は、うれしくも何ともない。持ち主の手に戻ったことに気づきもしないかも知れません。

 ここで、一つ気づくことがあります。3つのたとえ話を始めるきっかけとなった場面1-2節)。主イエスと共に食事の席についている人々。そして、遠くから眺めて「どうしてあんな人たちと」と腹立たしく思っていた人々。その一方で救い主イエスと共に食卓についていたあの人たちは、そのことを嬉しく思っていました。ちょうど羊飼いのもとに連れ戻された羊のように。ちょうど、父の家に迎え入れられたあの弟のように。遠くから眺めて「どうして」と腹立たしく思っていた律法学者やパリサイ派の人たちはどうでしょう。多分、もしその食卓に招かれたとしても、あんまり嬉しくは思わなかったでしょう。迷惑そうな渋い顔をして、「いいえ間に合っています」などと招きを断ったかも知れません。席に着いたとしても、「あまり熱心に誘われたものだから、仕方なく義理で、ちょっと来てみた」とソッポを向いているかも知れません。『ついに今この私は、救い主の恵みの御手の只中にある。この食卓がまさにそれだ』とは気づかないかも知れません。ちょうど、見つけ出されて持ち主の手の中に戻った銀貨がうれしくも何ともないのと同じように。けれど兄弟姉妹たち。連れ戻された羊が喜ぼうが喜ぶまいが、見つけ出された銀貨がそれを何とも思わなくたって、戻ってきた息子が感謝してもしなくても、なにしろ羊飼いはうれしい。なにしろ銀貨の持ち主はうれしい。なにしろ、あの父親はうれしい。多分、あの不機嫌な律法学者やパリサイ派の人たちが食卓に一緒に座ったら、もしそうしたら、主イエスはとても喜んだでしょう。家中ひっくり返して銀貨を探しつづけたあの持ち主のように。出迎えたあの父親のように。あの羊飼いのように、大喜びに喜んだことでしょう。

  もし、あなたがあの羊飼いだったとしたら、1匹の羊を見失ったら、同じように99匹を野原に放り出して探し回るでしょうか? もし、あなたが10枚の銀貨を持っていてその中の1枚をなくしたら、家中ひっくり返して1晩でも2晩でも、何週間でも何ヶ月かかっても見つけ出すまで探しつづけますか? いいえ他の用事もあり、私たちも結構忙しいのです。1匹ばかりに構ってはいられません。なくした銀貨についても同様でしょう。よほど家計が苦しくなければ、あるいはよほど高額な紙幣に目の色変えることはあっても、わずかな小銭になどあまり見向きもしません。けれど、これは他のどこにもいないほどの、きわめて稀有な羊飼いです。あまりに不合理な愚かな女です。神の価値判断は私たち人間の普通の価値判断とはまったく違います。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。罪のゆるしによる救いであり、それらすべて神の憐み深い御心によるからです(1コリント手紙1:25,イザヤ書55:8-9,ルカ1:77-79参照)

 先週のあの羊飼い。今日の、銀貨の持ち主である女、来週の1人の父親。それらは皆、ただお独りの神さまのことです。すると、「銀貨10枚を持っている女」(8)と言いながら、現実には、わずか10日分の労働賃金の蓄えしかない貧しい女性がなけなしのその1枚を必死に探し回るということではありません。むしろ、この女性はビックリするほどの大金持ちであり、その懐にはおびただしい数の膨大な資産を持っています。来週読み味わう1人の父親にも、おびただしい数の膨大な息子たち、娘たちがいます。神さまなんですから。その1枚の銀貨を探し出して、それでいくらかの買い物をしようとか、旅行のための費用の一部にするなどということでもありません。その1枚が見つからなかったら日々の暮らしに困る、というわけでもありません。困る困らない、都合がいい都合が悪いという話でもありません。神さまと、この私たち自身のことなのですから。頭をすっかり切り替えなければ、羊と1人の羊飼いのことも、銀貨と1人の持ち主のことも、息子たちと1人の父親のこともチンプンカンプンで、まったく何も分からないまま家に帰ることになります。どうしたわけか、野原に留まっていた99匹の正しい羊はなんだか物寂しくなってしまいました。持ち主の手の中にあったはずの9枚の正しい銀貨は、嬉しくもなんともなかった。家にずっと留まって父とずっと一緒に暮らしていたはずのあの「自分は正しい。ちゃんとやっている」と思い込んでいた兄さんは、けれどどうしたわけか喜び損ねて、どうしたわけか不平不満と悲しみと嘆きを密かに募らせてました。野原に留まりながら、持ち主の手の中にありながら、家にずっといながら、けれどもあの物淋しい彼らは迷子になっていました。とても大切なことを忘れてしまっていたからです。この羊飼いや銀貨の持ち主は、人間ではない。神ご自身です。私たちの主であられます神は、私たち人間のような神ではありません。価値ある大きな羊だから、と探す神ではありません。格別に値段の高い、毛並みのいい、優良上等な美しい羊だから、と惜しむ神ではありません。他の粗悪に造られた価値の低い銀貨と違ってたいそう高額な特別仕立ての銀貨だから、と探す神ではありません。他の息子と違って見所と取り柄のある大きな息子だから、と探す神ではありません。兄弟姉妹たち、本当に良かった。私たちは、高く昇っていっても神のようにはなれず、人間の道理にかなってモノを見、人やモノや自分自身を、自分たちの道理の枠の中で判断し続けてしまいます。知っているつもりになって、何でも分かったつもりになって。自分や他の人々にどれだけの価値があるのかと、そればかりを気に病みつづけて。

 7,10節。「大きな喜びが天にある。神の天使たちの間に喜びがある」。神の喜びは、神の悲しみや痛みと表裏一体であり、一組です。神さまのほうに向いていたはずの1人のゆるされた罪人が、いつの間にか人間のほうへ人間のほうへと思いを曇らせ、心を惑わせてゆく。ついに人間のことばかり思い煩い、神を思うことを忘れてしまう。すると、その1人の魂を思って、天に大きな大きな悲しみと痛みがある。その1人の迷い出てしまった貧しく小さい哀れな罪人を思って、神さまご自身がどんなに心を痛め、どんなに深く嘆き悲しむことか。だからこそ、立ち帰ってきたその1人の罪人を思って、神ご自身が大喜びに喜んでくださる。その喜びの大きさと深さは、その人のための神さまご自身の悲しみや嘆きの大きさと一組でした。目を凝らしてください。あの1人の羊飼いは大喜びに喜んでいます。「皆さん、いなくなっていた羊をとうとう見つけました。一緒に喜んでください」。あの1人の女も喜んでいます。「嬉しい、嬉しい。本当に嬉しい。どうぞ、一緒に喜んでください」。喜んで下さる神さまと共に、私たちもますます喜びたい。一緒に喜びたいし、いつまででも喜びつづけたい。それは第一に、神のあわれみと真実とを受け取ること。第二に、受け取ること。第三にも四にも五にも、しっかりと受け取り手放さずにいることです。大事なことをすっかり見失いつづけていました。神さまが、その人自身のためにも大喜びに喜んだり、ひどく悲しみ嘆いたりなさっているということを。私たちの主なる神さまは、正しくあられ、またなんでもおできになるだけではなく、価なしにただ恵みによって憐れんでくださる慈しみ深い神です。ただその恵みと憐れみによって救われた私たちです。神に逆らい、背いていた、神を信じる心がほんのわずかしかなかった不信仰な私たちのために救い主イエス・キリストが死んでくださいました。死んで、死者の中からよみがえってくださいました。そのことによって、私たちに対する神の愛と憐みが示され、差し出されました(ローマ手紙8:5-11参照)ついに、とうとう思い出しました。価なしに、ただ恵みによってく愛され、多くをゆるされつづけてきた私たちです。迷子になったあの一匹の羊のように。あの1枚の銀貨のように。父を見失ってはぐれていたあの息子たちのように。いなくなっていたのに見つけ出していただきました。死んでしまうところだったのに、生き返らせていただきました。その1人の迷い出てしまった貧しく小さい哀れな罪人を思って、神さまご自身がどんなに心を痛め、どんなに深く嘆き悲しむことか。だからこそ、立ち帰ってきたその1人の罪人を思って、神ご自身が大喜びに喜んでくださる。その喜びの大きさと深さは、その人のための神さまご自身の悲しみや嘆きの大きさと一組でした。目を凝らしつづけましょう。1人の羊飼いは大喜びに喜んでいます。「皆さん、いなくなっていた羊をとうとう見つけました。一緒に喜んでください」。あの1人の女も喜んでいます。「嬉しい、嬉しい。本当に嬉しい。どうぞ、一緒に喜んでください」と。その一人の人のためにも、神さまご自身こそが恵みの御業を持ち運んで、生きて働いてくださっています。「嘆いたり、泣いたりしなくても良い。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ記8:9-12参照)

 

 


2/7こども説教「悪いことを相談し合う人々」使徒23:11-15

  2/7 こども説教 使徒行伝23:11-15

 『悪いことを相談し合う人々』

 

    23:11 その夜、主がパウロに臨んで言われた、「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない」。12 夜が明けると、ユダヤ人らは申し合わせをして、パウロを殺すまでは飲食をいっさい断つと、誓い合った。13 この陰謀に加わった者は、四十人あまりであった。14 彼らは、祭司長たちや長老たちのところに行って、こう言った。「われわれは、パウロを殺すまでは何も食べないと、堅く誓い合いました。15 ついては、あなたがたは議会と組んで、彼のことでなお詳しく取調べをするように見せかけ、パウロをあなたがたのところに連れ出すように、千卒長に頼んで下さい。われわれとしては、パウロがそこにこないうちに殺してしまう手はずをしています」。         (使徒行伝23:11-15

 

 救い主イエスの弟子とされたパウロをひどく憎んで、正しくないやり方で、自分たち思い通りに殺してしまおうと相談する者たちがいました。ほんの何人かではなく、とても大勢です。しかも祭司長たちまでが、その悪い相談の仲間入りをしようとしています。14-15節、「彼らは、祭司長たちや長老たちのところに行って、こう言った。『われわれは、パウロを殺すまでは何も食べないと、堅く誓い合いました。ついては、あなたがたは議会と組んで、彼のことでなお詳しく取調べをするように見せかけ、パウロをあなたがたのところに連れ出すように、千卒長に頼んで下さい。われわれとしては、パウロがそこにこないうちに殺してしまう手はずをしています』」。あの彼らは自分たちが正しいことをしていると思い込んでおり、それが神さまの御心にもかなうことだと考えています。サタンが、彼らの心を捕らえてしまい、彼らの悪い思いを駆り立てているからです。それでもなお、神さまがパウロたちの味方です。「しっかりしなさい」11節)と励ますだけではなく、ちゃんと助けの手を必要なだけ十分に差し伸べてくださるからです。

 

 

2021年2月1日月曜日

1/31「見失った一匹の羊を」ルカ15:1-7

            みことば/2021,1,31(主日礼拝)  304

◎礼拝説教 ルカ福音書 15:1-7                 日本キリスト教会 上田教会

『見失った一匹の羊を』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

15:1 さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。2 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。3 そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、4 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。5 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。7 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。                                   ルカ福音書 15:1-7

 

2:22 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。24 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。25 あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。

                   (1ペテロ手紙2:22-25)

 まず1-3節、「さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった」。罪人たちを迎えて一緒に食事をしている。主イエスを憎んで、踏みつけにしてやろうとする者たちのこのつぶやきは、その方を喜んで褒めたたえているわけではありません。あざけって、笑いものにしています。しかも、このパリサイ人や律法学者たちのつぶやきは、まったく的確であり、神の真実を言い当てていました。そのとおり。救い主イエスは、罪人を救うためにこの世界に降りて来られました。彼らの罪をゆるし、その彼らを清くし、神の国へと迎え入れること。それこそが、救い主イエスに託された使命です。このお独りの方は正しい人を招くためではなく、ただ罪人を招いて悔い改めさせ、罪から救い出してくださるためにこの世界に来てくださいました(1テモテ手紙1:15参照)

 そのために救い主はへりくだり、固守なさらず、かえってご自分を虚しくなさり、神であられることの栄光も尊厳も捨て去ってくださいました。けれど、この私たちには自分自身が罪人であり、神に背く罪深いものであり、度々わけもなく心を頑なにしてしまうという自覚が、ほんのわずかでもあるでしょうか。この自分こそがはなはだしくよこしまであり、神の怒りに価すると感じ取ることがあるでしょうか。むしろ、いつの間にかひどく傲慢(=ごうまん。思い上がった気持ちになり、人を見下す様子)になり、気高く善良で、神の恵みにふさわしい自分であると思い込んでしまったのかも知れません。あのパリサイ人たちのように。

 

              ◇

 

 この15章の3つのたとえ話(15:3-7,8-10,11-32)は3つで1組であり、『ルカ福音書の心』だと言い習わされてきました。いいえ、聖書66巻全体の心だと言っていいでしょう。4節以下です。迷い出てしまった一匹の羊と羊飼い。羊飼いは、見失ったその一匹の羊を見つけ出すまで、いつまででもどこまででも探しつづける。羊と羊飼いの姿は、聖書によって養われつづけてきた人々にとって、とても馴染み深いものです。羊飼いのような神が私の主であってくださる。また、この神によって支えられ、養われ、心強く守られて生きる私たちは一匹の羊のようだ(詩23,119:176,イザヤ53:6,エゼキエル34:1-24,ヨハネ福音書10:9-16,1ペテロ手紙2:25参照)。けれどさて、私たちはどこがどう羊に似ているというのでしょう。他の動物と比べて、羊には何があり、何がないのでしょう。立派なツノも恐ろしいキバもない。太くて強い腕もない。固い甲羅におおわれているわけでもない。ウサギのように危険を聞き取る良い耳を持っているわけでもない。格別に足が速いわけでもない。だから、私たちは羊のようなのだ。ライオンや熊に襲われ、狼に追い回され、羊ドロボウに狙われる。だから、私たちは羊のようです。その弱さと無防備さが、私たちです。ひどい近眼でとても目が悪い。目の前の、いま食べている草しか見えない。うまい草に目も心も奪われ、夢中になって食べているうちに、簡単に道を逸れ、迷子になってしまう。気がつくと仲間たちからも羊飼いからもはぐれて迷い出てしまう。

 あなたが群れからはぐれて道を迷い出ていったとき、良い羊飼いであられる救い主イエスはどんなに心を痛め、どんなに悲しみ、どれほどあわれに思ったことか。だからです。見つけ出すまで探し回り、どこまででも追い求め、見つけたときに大喜びに喜びます。「よかった。どうぞ、いっしょに喜んでださい。いなくなっていたあの一匹が見つかりました。死んでいたかも知れないあの一匹が、とうとう生き返った。こんなに嬉しいことはない」と。けれど今日では、危ういところを辛うじて連れ戻していただいた一匹の羊のために一緒に喜ぶことのできる羊たちは、あまり多くはないかも知れません。ある人は正直なところ、自分が羊だなどとは思ってもいませんでした。大きな熊か、素敵なカモシカか何かもっと強い、もっと足の速い、もっと利口でたくましい生き物だと思っていました。また別の人は、「たしかに私は羊かも知れないが、それでも、あの迷子の1匹なんかじゃなくて99匹の中の1匹だ。迷子になるなんて迂闊すぎる。考えが足りず、自分勝手だったんだろう。そんなつまらない愚かな価値の少ない1匹のことなんか放っておいて、私たち99匹の正しい羊たちの世話をもっとちゃんとしてほしいのに」と、他人事のように、まるでいかにも優れた見識を持つ評論家のように冷ややかに眺めていました。だから、こんなたとえ話を聞かされても、うれしくとも何ともない。そうでした。羊のもう一つの決定的な性質は、とても忘れっぽいことです。『喉元過ぐれば熱さを忘るる(=苦しい経験も、そのときに受けた恩義も、すぐに忘れてしまうこと)』と言いました。苦しいことや辛かったことを忘れてしまうだけではなく、嬉しかったことも心から感謝したことも、ごく簡単に忘れてしまいました。その羊たちも私たちも、ほんの少ししかゆるされなかったのではありません。少ししか愛されなかったわけではありません。けれど、とても多くゆるされたことも、多く愛されたことも、すっかり忘れ果ててしまいました。そのせいで人を愛したり、思いやったり、ゆるしてあげたり、神さまに感謝することさえも今ではほんのわずかしか出来なくなってしまいました(ルカ福音書7:44-48参照)

 あの格別な羊飼いの悪戦苦闘は、実は、見失ったその一匹をようやく連れ戻した直後から始まりました。99匹の残った群れの中にその1匹を戻し、「ああ良かった」と一息つく間もなく、別の一匹が見当たらないことに羊飼いは気づきます。気づいた途端に、羊飼いはまたもや手に取るように分かってしまう。その心細さと惨めさを。こうして羊飼いは、来る日も来る日も見失った羊を探し求めつづける。連れ戻しつづける。しかも、たった今連れ戻していただいたばかりの羊さえ、澄ました涼しい顔をして文句を言い始めます、「ああ。迷子になるなんて信じられない。考えが足りず、浅はかで、自分勝手だったんでしょう。まったく。そんな1匹のことなんか放っておいて、私たち99匹の正しい羊たちの世話をしてください」などと。けれど羊飼いには、なにしろあの一匹のことが憐れでならない。滅びるままに捨てておくことなどできない。今にも失われようとするその小さな一つの生命が、あまりに可哀そうで、惜しまれてならない。

 7,10節『悔い改める』。この聖書独特の言葉には、ただ単に「悪かった。とても反省しています」というよりも、もっと嬉しい豊かな意味があります。『神さまのほうへ向き直る』ことです。気もそぞろでフラフラしていた者が、『神さまのほうへ、グルリと向き直る』こと。神の御前に据え置かれて、そこで、『どんな神さまか。神さまがどんなふうに働いておられるのか。何を願って、どうしようとしておられるのか』と目を凝らしつつ生きることです。ですからそれは第一に、神のあわれみと真実とを受け取ること。第二に、受け取ること。第三にも四にも五にも、しっかりと受け取り手放さずにいることです。1人の罪人が悔い改める。物欲しそうにあちらこちらと見回していたあの人が、深く息をつき、腰をすえて、向きを変えた。神様のほうへ向き直った。自分自身と人間のことばかり思い煩っていた1人の人が、ついにとうとう神を思うことをし始める。神を思いながら、神へと思いを凝らしながら生きることをし始める。すると、悔い改める必要のない、神を思う必要のないとついうっかり思い込んでしまった99人の強く正しい人についてよりも、もっと大きな、ずっとずっと大きな喜びが天にある。それを神ご自身が、どんなに待ち侘びていたことか。その1人をようやく探し出し、ついにとうとう迎え入れることができたことを思って、神ご自身が大喜びに喜んでくださるのです(ルカ15:7,10,22-24,32)

 1人の人は、ここでようやく思い当たります。「そうだった。うっかり忘れていたが、この私こそが羊だった。それも、囲いの中の正しくふさわしい99匹じゃなくて。たびたび迷子になった。弱く、あまりに無防備な私だ。羊飼いのような主がこんな私のためにさえ確かにいてくださり、何度も何度も探し出し、連れ戻し、私に襲いかかってきた熊やライオンとも命がけで戦って、救い出してくださった。そうしていただくだけのふさわしさや価値があったからではなく、ただただ深く憐れんでいただいたので。だから、こんな私さえ心強い」と。主のものである羊たちよ。私たちの安らかさや満ち足りた慰め深さは、むしろ、深い痛手を負った羊飼いの膝元にある慰めでした。血を流し、体を引き裂かれて横たわる瀕死の、自分のために生命をさえ投げ出して死にゆく羊飼いの、その痛々しい枕元にある喜びと信頼でした。羊飼いの真実さや愛情深さは、そこにあったのです(ヨハネ10:11,15参照)。こんな自分のためにも深い痛手を負い、血を流してくださった羊飼いを、十字架につけられ、青ざめて身悶えするキリストを目の前に見て、目の前にありありと示されて、そこでその格別な慈しみを味わい知りました。「ああ、そうだったのか。そうだった、そうだった。すっかり忘れていた。けれど思い出した」。ついに、とうとう。

 キリストの教会とは何者でしょう。クリスチャンとは何者でしょう。キリストの福音とは、そもそも一体どんな福音だったのでしょうか。それは、救い主イエス・キリストと共にあわれみの食卓につくことです。あわれみの良い肉を食べ、あわれみの甘い飲み物を飲み、共々に分かち合いながら、「肉も飲み物も、食事のための晴れ着も、何の備えもなかった私たちだ」と喜び祝うことです。あの格別なお独りの羊飼いと共に。見つけ出され、連れ戻していただいた羊たちと共に。『救い主と共に食卓につく』のに誰がふさわしいだろうかと、私たちは、まだなお問わねばならないでしょうか。誰がふさわしいのか。そのふさわしさはどんなものかと。いいえ、主イエスを信じて生きる私たちには、それより千倍も万倍も大切なことがあった。私たちは主の群れ。主に養われる羊たちです。道を誤り、それぞれの方向に逸れて迷い出ていった私たちを、この格別に良い羊飼いであられるお独りの主こそが、ただ憐みによって連れ戻してくださった。喜んでください。今日は、食べて祝う日です。今日は『いなくなっていたのに見つかった』という記念日です。『死んでいたのに生き返った』という聖なる日です。だから嘆かなくても良いのです。悲しまなくてもよい。主を喜び祝うことこそ、私たちの力と幸いの源なのですから(ネヘミヤ記8:10)





1/31こども説教「救い主イエスの証人とされて」使徒23:6-11

 1/31 こども説教 使徒行伝23:6-11

 『救い主イエスの証人とされて』

 

23:6 パウロは、議員の一部がサドカイ人であり、一部はパリサイ人であるのを見て、議会の中で声を高めて言った、「兄弟たちよ、わたしはパリサイ人であり、パリサイ人の子である。わたしは、死人の復活の望みをいだいていることで、裁判を受けているのである」。7 彼がこう言ったところ、パリサイ人とサドカイ人との間に争論が生じ、会衆は相分れた。8 元来、サドカイ人は、復活とか天使とか霊とかは、いっさい存在しないと言い、パリサイ人は、それらは、みな存在すると主張している。9 そこで、大騒ぎとなった。パリサイ派のある律法学者たちが立って、強く主張して言った、「われわれは、この人には何も悪いことがないと思う。あるいは、霊か天使かが、彼に告げたのかも知れない」。10 こうして、争論が激しくなったので、千卒長は、パウロが彼らに引き裂かれるのを気づかって、兵卒どもに、降りて行ってパウロを彼らの中から力づくで引き出し、兵営に連れて来るように、命じた。11 その夜、主がパウロに臨んで言われた、「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない」。  

  (使徒行伝23:6-11

 

 ユダヤの神を信じる人々の中には、死んだ人たちがよみがえることを信じるパリサイ人たちと、それを信じないサドカイ人たちがいました。主イエスの弟子とされたパウロも、私たちすべてのクリスチャンも、救い主イエスに導かれて、死んだ後で私たち自身もよみがえることを信じています。それで6節で、「私もパリサイ人たちと同じ信仰の教えを受けた者であり、 死人の復活の望みをいだいていることで裁判を受けている」と皆の前で答えました。正直な、正しい答えです。パリサイ人たちとサドカイ人たちとの言い争いがとても激しくなりすぎたので、議会での話し合いは打ち切りになりました。11節、「その夜、主がパウロに臨んで言われた、「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない」。パウロと同じに、クリスチャンであるこの私たち一人一人も、救い主イエスについて皆に知らせる大切な役割を与えられています。

 

2021年1月26日火曜日

1/24「わたしたちは地の塩」ルカ14:34-35

             みことば/2021,1,24(主日礼拝)  303

◎礼拝説教 ルカ福音書 14:34-35                 日本キリスト教会 上田教会

『わたしたちは地の塩』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい。     (ルカ福音書 14:34-35)

                                               

あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。      (マタイ福音書5:13-16

 

あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。

                       (ヨハネ福音書 15:3

 34-35節、「塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」。神を信じ、救い主イエスに聴き従って生きるすべてのクリスチャンは、『地の塩』であり、『世のための光』であると主イエスご自身から言い渡されています。別の福音書は、もう少し詳しく報告しています、「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ福音書5:13-16

 救い主イエスから、ご自身を信じて生きる私たちクリスチャンに言い渡されていることがあります。私たちには、この世界で果たすべき役割があり、そのための明らかな性質があるということです。『地の塩』であり、『世のための光』であると。ここでは『塩』のことだけが取りあげられていますが、『地の塩。世のための光』は一組ですから、合わせて思い描くほうが好都合です。また、なぜ、どのようにして塩であり、光であるのか。どう生きることができるのかと思いを巡らせたいと願います。私たちが塩であり光であることの根拠は、ただ神の側にあります。ですから、そうしてくださった神の御心と御計画とを問わねばなりません。

 すべてのクリスチャンは、この世にあって、地の塩のような存在です。さて、塩は他のどんな物質とも違う固有の性質をもっています。他のものと混ぜ合わされると、塩は、その混ぜ合わされたものが変質して腐ってしまうのを防ぎます。塩はつまり、混ぜ合わされるさまざまなものに、そのもの自身を清くして保つ性質を分け与えることができるのです。それが塩の効き目です。地の塩とされた私たちには役割があり、果たすべき責任があります。その場所に置かれていることの大切な意味があります。また私たちは、この世を照らす光ともされています。たとえ真っ暗な部屋であっても、そこで小さな光がまたたくなら、すぐにその光は見つけられます。神によって造られたすべてのものの中で、光はとても役に立ちます。光は私たちの心と生活を豊かにします。光は、暗闇の中で私たちの歩みを導きます。光は、私たちの心を和ませ、元気づけ、励まします。だから神が世界をお造りになったとき、まず最初に「光あれ」とお命じになりました。これが、神によって造られた世界の出発点です。なぜ、私たちが『地の塩。世のための光』でありうるのか。主イエスが語られた言葉によって、私たちがすでに清くされているからです。また、主イエスご自身が世を照らすまことの光であり、その光を私たちが浴び、その光を照り返し続けているからです(ヨハネ福音書15:3,8:12,31-32を参照)

 クリスチャンとは、神の民とされ、救い主イエス・キリストのものとされた人々です。私たちはクリスチャンです。私たちは、神からの恵みを必要なだけ十分に受けているでしょうか。それは目に見えるもので、自分自身にも周囲の人々にも見えて、感じ取ることができるはずのものです。神からの恵みを受けていることは、やがて良い実を結びます。主イエスは何度も何度も、「あなたの信仰があなたを救った」「あなたの信仰があなたを救った」「あなたの信仰があなたを救った」と救われた人々を励まして、それぞれの生活の中へと送り出しつづけました。私たちが神から贈り与えられた信仰と恵みは、もちろん十分なものであり、私たち自身と家族とを救うことのできる信仰です。そうであるならば、心の在り方や、ものの考え方、習慣やそのときどきの判断に、なにかしらの変化が生じたはずです。他の人々とどう違うのかというよりもむしろ、神を信じて生き始める以前の自分とは決定的に違う、新しい何かが、この私たちの中にすでに始まっています。

 

 私たちは、どのように生きることができるでしょうか。

 救い主イエスの教えと、旧約聖書以来ずっと受け継がれてきた律法の教えとは一貫しており、連続して同じ一つのものです。主イエスはおっしゃいました、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」(マタイ福音書5:17-18。神の律法と預言者たちの言葉を成就するために来た、とおっしゃった主イエスの言葉を私たちは覚えておきましょう。救い主イエスは、預言者たちの預言を成し遂げるためにこの世界に降りて来られました。預言者たちは、やがて救い主が来てくださると預言しつづけました。この救い主イエスは、ご自身が世の罪を取り除くための献げものとなられて、律法を成就なさいました。旧約時代のすべての献げものは、神の独り子がご自身のいのちをささげたただ一回のささげものを指し示しつづけていました(ヘブル手紙7:27-8:19,9:24-28,10:8-14参照)。その十字架の死について、聖書は、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ手紙2:6-8と証言し、それが父なる神さまへのまったき『従順のささげもの』だったと説き明かしています。他の誰にも、そのような従順を神にささげることなど出来ませんでした。私たち罪人を罪から買い戻してくださるためにご自身のいのちというあまりに高価な代価を支払ってくださいました。あがないの血によって、救い主イエスは私たちを罪から清め、神に逆らう罪から贖(あがな)い出してくださいました。他の誰にも、そのような支払いをすることはできませんでした。ただ一度、救い主イエスがご自身をささげることによって、私たちは罪から贖い出されました。

 

では私たちは、どのように生きることができるでしょうか。

 もちろん神から授けられた十の戒めこそが、良いことと悪いことについての神の究極の判断基準でありつづけます。救い主イエスが、その10項目の戒めを2つに要約なさいました、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイ福音書22:37-40第一に、神を心から愛し、尊ぶこと。第二に、自分自身を愛するほどに私たちの隣人を愛し、尊ぶこと。この戒めによって、私たちは自分自身がどんなに罪深いかを突きつけられ、つくづくと思い知らされます。神を侮り、二の次、三の次へと後回しにしつづけるからです。また自分のことばかりに執着して、隣人を愛し、慈しみ、思いやる心にはなはだしく欠けているからです。神の憐みを必要とする私たちであることを痛感させられ、私たちは憐みと救いを求めて救い主イエスのもとへと駆け戻ります。救い主イエスは、神のゆるしと憐みを受けた私たちに、改めて、この神からの戒めによって導かれ、教え諭されながら、神への感謝の生活を送るようにと促します。つまり神の律法によって、自分がどんなにふさわしく正しいかを知らされるのではなく、まったく逆に、この自分こそがどんなに罪深い人間であるかを突きつけられ、救い主イエスによるゆるしと憐れみを慕い求めさせる。このように神の律法は、私たち罪人をますます救い主イエスへと向かわせ、このお独りの仲保者によって神との間に平和を受け取るようにと願い求めさせます。このようにして、『神の律法』は『神の福音』に負けず劣らず、神を信じて生きるための最重要の指針でありつづけます。

 自分自身のはなはだしい罪深さをはっきりと知らされ、その罪からのゆるしがどんなに大きな恵みであるのかを知らされれば知らされるほど、それだけ多く、私たちは神を愛することができます。「多くゆるされたから、それだけ多く愛している」(ルカ福音書7:47-48参照)とあの罪深い女性を指し示して、主イエスがおっしゃったようにです。すると、多くをゆるされ、多く愛されていることがあまりよく分からないうちは、この私たちは、神をも家族や隣人をもほんの少ししか愛する子ともゆるすことも出来ません。ただ不平不満をつぶやくばかりで、もの寂しい日々がつづきます。救い主イエスによって私たち自身の罪のゆるしが完全に十分に成し遂げられていることが鮮やかに分かれば分かるほど、それだけますます私たちは、いよいよ神さまをほめ讃え、心から感謝し、神の御声によくよく耳を傾けて聞き従う者たちとされてゆきます。語られ、聞き取りつづけてきた救い主イエスの言葉によってこそ私たちは清くされつづけるからです。その清さには殺菌消毒の強い作用があって、いっしょに生きる者たちとも混じり合い、その彼らを清め、食品が腐ってしまうことを防いで鮮度を保つように、私たちを清く保ちます。世を照らすまことの光であられる救い主イエスを仰ぎ続けている私たちなので、自分自身の中にある薄暗がりをも明るく照らし出されつづけ、身の回りにもその明るさや輝きを照り返して生きることができます。

 この私たちも、『地の塩。世のための光』として生きることができます。その清さと殺菌消毒の効き目は、語られつづけてきたキリストの御言葉から生み出されつづけます。その光は、世を照らすまことの光であられるキリストご自身の光を照り返して、私たち自身とその生活の中で輝きつづけます。


           補足/キリスト教信仰の教え 

 

 ☆あなたは 何を信じますか。

★わたしは、父なる神と、子なる神イエス・キリストと、聖霊なる神を信じます。

                 ⇒ ヨハネ福音書 1:18,コリント手紙(2)13:13

 ☆あなたは なぜ 神のことが分かるのですか。

★神が 聖書によって教えてくださるからです。

           ヨハネ福音書 5:39-40,同20:31,イザヤ書55:10-11,テモテ手紙(2)3:14-17

 ☆神は たくさんおられるのですか。

★いいえ。ただおひとりです。父なる神と子なる神イエス・キリスト、そして聖霊なる神という三つの区別があり、思いを一つにして働いてくださいます。

この神を、三位一体(さんみ・いったい)なる神といいます。

          ⇒  マタイ福音書3:17,同11:27,同17:5,コリント手紙(1)12:3

ヨハネ福音書14:26,ヨハネ手紙(1)4:1-3

 ☆あなたは神からの救いとともに、ほかからの救いも望みますか。

★いいえ。神にだけ救いを願い、神にだけ仕えます。

           マタイ福音書 4:8-10,申命記6:13,使徒4:10-12,同4:19-20

 ☆あなたは すでに救われていますか。

★はい、救われています。

☆どうしてですか。あなたは罪人ではないのですか。

★はい。わたしは罪人ですし、いまも神に背きますが、

 主イエスを信じる信仰によって、ただ恵みによって救われているからです。

             ローマ手紙3:21-28,同5:5-11,ヨハネ福音書3:16,テモテ手紙(1)1:12-17

 ☆神は正しいかたで、罪を憎むのではありませんか。

★そのとおりです。神は罪を憎みますが、罪人であるわたしたちを愛することを決してお止めになりません。

                       創世記4:1-15 ,同8:20-22,申命記31:8

 ☆主イエスは、どんなかたですか。

★まことの神であり、

 どうじに、まことに人間でもあります。

              ⇒  ピリピ手紙2:5-11,ヘブル手紙2:17-18,同4:14-16

 ☆主イエスは、いつから おられますか。

★世界が造られる前から 永遠に おられます。

                 ヨハネ福音書1:1-18,同8:56-58,ヘブル手紙1:1-3

                (当教会「こども交読文3」より)