2021年1月26日火曜日

1/24「わたしたちは地の塩」ルカ14:34-35

             みことば/2021,1,24(主日礼拝)  303

◎礼拝説教 ルカ福音書 14:34-35                 日本キリスト教会 上田教会

『わたしたちは地の塩』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい。     (ルカ福音書 14:34-35)

                                               

あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。      (マタイ福音書5:13-16

 

あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。

                       (ヨハネ福音書 15:3

 34-35節、「塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」。神を信じ、救い主イエスに聴き従って生きるすべてのクリスチャンは、『地の塩』であり、『世のための光』であると主イエスご自身から言い渡されています。別の福音書は、もう少し詳しく報告しています、「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ福音書5:13-16

 救い主イエスから、ご自身を信じて生きる私たちクリスチャンに言い渡されていることがあります。私たちには、この世界で果たすべき役割があり、そのための明らかな性質があるということです。『地の塩』であり、『世のための光』であると。ここでは『塩』のことだけが取りあげられていますが、『地の塩。世のための光』は一組ですから、合わせて思い描くほうが好都合です。また、なぜ、どのようにして塩であり、光であるのか。どう生きることができるのかと思いを巡らせたいと願います。私たちが塩であり光であることの根拠は、ただ神の側にあります。ですから、そうしてくださった神の御心と御計画とを問わねばなりません。

 すべてのクリスチャンは、この世にあって、地の塩のような存在です。さて、塩は他のどんな物質とも違う固有の性質をもっています。他のものと混ぜ合わされると、塩は、その混ぜ合わされたものが変質して腐ってしまうのを防ぎます。塩はつまり、混ぜ合わされるさまざまなものに、そのもの自身を清くして保つ性質を分け与えることができるのです。それが塩の効き目です。地の塩とされた私たちには役割があり、果たすべき責任があります。その場所に置かれていることの大切な意味があります。また私たちは、この世を照らす光ともされています。たとえ真っ暗な部屋であっても、そこで小さな光がまたたくなら、すぐにその光は見つけられます。神によって造られたすべてのものの中で、光はとても役に立ちます。光は私たちの心と生活を豊かにします。光は、暗闇の中で私たちの歩みを導きます。光は、私たちの心を和ませ、元気づけ、励まします。だから神が世界をお造りになったとき、まず最初に「光あれ」とお命じになりました。これが、神によって造られた世界の出発点です。なぜ、私たちが『地の塩。世のための光』でありうるのか。主イエスが語られた言葉によって、私たちがすでに清くされているからです。また、主イエスご自身が世を照らすまことの光であり、その光を私たちが浴び、その光を照り返し続けているからです(ヨハネ福音書15:3,8:12,31-32を参照)

 クリスチャンとは、神の民とされ、救い主イエス・キリストのものとされた人々です。私たちはクリスチャンです。私たちは、神からの恵みを必要なだけ十分に受けているでしょうか。それは目に見えるもので、自分自身にも周囲の人々にも見えて、感じ取ることができるはずのものです。神からの恵みを受けていることは、やがて良い実を結びます。主イエスは何度も何度も、「あなたの信仰があなたを救った」「あなたの信仰があなたを救った」「あなたの信仰があなたを救った」と救われた人々を励まして、それぞれの生活の中へと送り出しつづけました。私たちが神から贈り与えられた信仰と恵みは、もちろん十分なものであり、私たち自身と家族とを救うことのできる信仰です。そうであるならば、心の在り方や、ものの考え方、習慣やそのときどきの判断に、なにかしらの変化が生じたはずです。他の人々とどう違うのかというよりもむしろ、神を信じて生き始める以前の自分とは決定的に違う、新しい何かが、この私たちの中にすでに始まっています。

 

 私たちは、どのように生きることができるでしょうか。

 救い主イエスの教えと、旧約聖書以来ずっと受け継がれてきた律法の教えとは一貫しており、連続して同じ一つのものです。主イエスはおっしゃいました、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」(マタイ福音書5:17-18。神の律法と預言者たちの言葉を成就するために来た、とおっしゃった主イエスの言葉を私たちは覚えておきましょう。救い主イエスは、預言者たちの預言を成し遂げるためにこの世界に降りて来られました。預言者たちは、やがて救い主が来てくださると預言しつづけました。この救い主イエスは、ご自身が世の罪を取り除くための献げものとなられて、律法を成就なさいました。旧約時代のすべての献げものは、神の独り子がご自身のいのちをささげたただ一回のささげものを指し示しつづけていました(ヘブル手紙7:27-8:19,9:24-28,10:8-14参照)。その十字架の死について、聖書は、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ手紙2:6-8と証言し、それが父なる神さまへのまったき『従順のささげもの』だったと説き明かしています。他の誰にも、そのような従順を神にささげることなど出来ませんでした。私たち罪人を罪から買い戻してくださるためにご自身のいのちというあまりに高価な代価を支払ってくださいました。あがないの血によって、救い主イエスは私たちを罪から清め、神に逆らう罪から贖(あがな)い出してくださいました。他の誰にも、そのような支払いをすることはできませんでした。ただ一度、救い主イエスがご自身をささげることによって、私たちは罪から贖い出されました。

 

では私たちは、どのように生きることができるでしょうか。

 もちろん神から授けられた十の戒めこそが、良いことと悪いことについての神の究極の判断基準でありつづけます。救い主イエスが、その10項目の戒めを2つに要約なさいました、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイ福音書22:37-40第一に、神を心から愛し、尊ぶこと。第二に、自分自身を愛するほどに私たちの隣人を愛し、尊ぶこと。この戒めによって、私たちは自分自身がどんなに罪深いかを突きつけられ、つくづくと思い知らされます。神を侮り、二の次、三の次へと後回しにしつづけるからです。また自分のことばかりに執着して、隣人を愛し、慈しみ、思いやる心にはなはだしく欠けているからです。神の憐みを必要とする私たちであることを痛感させられ、私たちは憐みと救いを求めて救い主イエスのもとへと駆け戻ります。救い主イエスは、神のゆるしと憐みを受けた私たちに、改めて、この神からの戒めによって導かれ、教え諭されながら、神への感謝の生活を送るようにと促します。つまり神の律法によって、自分がどんなにふさわしく正しいかを知らされるのではなく、まったく逆に、この自分こそがどんなに罪深い人間であるかを突きつけられ、救い主イエスによるゆるしと憐れみを慕い求めさせる。このように神の律法は、私たち罪人をますます救い主イエスへと向かわせ、このお独りの仲保者によって神との間に平和を受け取るようにと願い求めさせます。このようにして、『神の律法』は『神の福音』に負けず劣らず、神を信じて生きるための最重要の指針でありつづけます。

 自分自身のはなはだしい罪深さをはっきりと知らされ、その罪からのゆるしがどんなに大きな恵みであるのかを知らされれば知らされるほど、それだけ多く、私たちは神を愛することができます。「多くゆるされたから、それだけ多く愛している」(ルカ福音書7:47-48参照)とあの罪深い女性を指し示して、主イエスがおっしゃったようにです。すると、多くをゆるされ、多く愛されていることがあまりよく分からないうちは、この私たちは、神をも家族や隣人をもほんの少ししか愛する子ともゆるすことも出来ません。ただ不平不満をつぶやくばかりで、もの寂しい日々がつづきます。救い主イエスによって私たち自身の罪のゆるしが完全に十分に成し遂げられていることが鮮やかに分かれば分かるほど、それだけますます私たちは、いよいよ神さまをほめ讃え、心から感謝し、神の御声によくよく耳を傾けて聞き従う者たちとされてゆきます。語られ、聞き取りつづけてきた救い主イエスの言葉によってこそ私たちは清くされつづけるからです。その清さには殺菌消毒の強い作用があって、いっしょに生きる者たちとも混じり合い、その彼らを清め、食品が腐ってしまうことを防いで鮮度を保つように、私たちを清く保ちます。世を照らすまことの光であられる救い主イエスを仰ぎ続けている私たちなので、自分自身の中にある薄暗がりをも明るく照らし出されつづけ、身の回りにもその明るさや輝きを照り返して生きることができます。

 この私たちも、『地の塩。世のための光』として生きることができます。その清さと殺菌消毒の効き目は、語られつづけてきたキリストの御言葉から生み出されつづけます。その光は、世を照らすまことの光であられるキリストご自身の光を照り返して、私たち自身とその生活の中で輝きつづけます。


           補足/キリスト教信仰の教え 

 

 ☆あなたは 何を信じますか。

★わたしは、父なる神と、子なる神イエス・キリストと、聖霊なる神を信じます。

                 ⇒ ヨハネ福音書 1:18,コリント手紙(2)13:13

 ☆あなたは なぜ 神のことが分かるのですか。

★神が 聖書によって教えてくださるからです。

           ヨハネ福音書 5:39-40,同20:31,イザヤ書55:10-11,テモテ手紙(2)3:14-17

 ☆神は たくさんおられるのですか。

★いいえ。ただおひとりです。父なる神と子なる神イエス・キリスト、そして聖霊なる神という三つの区別があり、思いを一つにして働いてくださいます。

この神を、三位一体(さんみ・いったい)なる神といいます。

          ⇒  マタイ福音書3:17,同11:27,同17:5,コリント手紙(1)12:3

ヨハネ福音書14:26,ヨハネ手紙(1)4:1-3

 ☆あなたは神からの救いとともに、ほかからの救いも望みますか。

★いいえ。神にだけ救いを願い、神にだけ仕えます。

           マタイ福音書 4:8-10,申命記6:13,使徒4:10-12,同4:19-20

 ☆あなたは すでに救われていますか。

★はい、救われています。

☆どうしてですか。あなたは罪人ではないのですか。

★はい。わたしは罪人ですし、いまも神に背きますが、

 主イエスを信じる信仰によって、ただ恵みによって救われているからです。

             ローマ手紙3:21-28,同5:5-11,ヨハネ福音書3:16,テモテ手紙(1)1:12-17

 ☆神は正しいかたで、罪を憎むのではありませんか。

★そのとおりです。神は罪を憎みますが、罪人であるわたしたちを愛することを決してお止めになりません。

                       創世記4:1-15 ,同8:20-22,申命記31:8

 ☆主イエスは、どんなかたですか。

★まことの神であり、

 どうじに、まことに人間でもあります。

              ⇒  ピリピ手紙2:5-11,ヘブル手紙2:17-18,同4:14-16

 ☆主イエスは、いつから おられますか。

★世界が造られる前から 永遠に おられます。

                 ヨハネ福音書1:1-18,同8:56-58,ヘブル手紙1:1-3

                (当教会「こども交読文3」より)