2021年1月18日月曜日

1/17「主イエスの弟子であること」ルカ14:25-33

                      みことば/2021,1,17(主日礼拝)  302

◎礼拝説教 ルカ福音書 14:25-33                   日本キリスト教会 上田教会

『主イエスの弟子であること』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 14:25 大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、26 「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。27 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。28 あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。29 そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、30 『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。32 もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう。33 それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。            (ルカ福音書 14:25-33

 

6:19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。(マタイ福音書 6:19-21


 25-27節、「大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、『だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない』」。クリスチャンとされ、救い主イエスを信じて生きる弟子とされた者たちは、もしそうすることが必要となった場合には、主であられる救い主イエスのためにはすべてのものを投げ捨てる心積りが必要だと教えられます。きびしいことが語られ始めました。もし誰かが主イエスに付いて行きたいと願うならば、そのために必要であるなら、自分の父親、母親、愛する連れ合い、息子や娘たち、兄弟姉妹を投げ捨て、それどころか自分自身の生命さえも投げ捨てるつもりでなければ、主イエスの弟子であることはできないと。

 分かりにくい、読むのがとても難しい箇所です。なぜなら聖書は、そのどの箇所も言葉の一つ一つも、聖書全体の調和の中で読まねばならないからです。聖書の中の他の箇所と相容れない、矛盾する仕方で読むならば、それはどこかで読み間違えており、神さまの御心にかなわないからです。父や母や、大切な家族を、主イエスのために投げ捨ててしまって良いのかどうか。「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」(出エジプト記20:12と神からの律法によって、はっきりと戒められているからです。困りました。ここで救い主イエスは、主に従って生きていこうとする私たちが、自分自身の最も近しい、また愛して止まない人々に対する愛よりも、さらに自分自身の生命を愛し惜しむよりも、なおそれ以上に深く強い愛で救い主イエスを愛するようにと命じておられます。そうでなければ、この主を信じて、主に従って生きてゆくことなどできないからと。このことです。主は、私たちが自分の大切な家族や親族たち、友人たちとむやみに争ったり仲違いすることが大切だなどとは決して言っておられません。けれど、もし、家族や友人や町内会や職場の同僚、上司などが願い、私たちに要求することと、神さまご自身が私たちに要求することが相容れないとき、両立しないときには、家族や友人や町内会や職場の者たちからの要求を断りなさいと命じられます。どちらか一方を選ぶようにと迫られるとき、私たちの救いのために死んで復活してくださったお独りの方、救い主イエスを嘆かせ、悲しませるよりは、むしろ家族や友人やその地域の人々、職場の上司の要求にさえも逆らうべきときがある。そのことを覚えて生きる必要があります。この私たちが、神を信じる信仰を投げ捨ててしまわないためには。神からの律法である『十戒』を主イエスご自身が要約して、2つにまとめて示してくださいました。「イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイ福音書 22:37-40と。神を愛し尊びなさいという第一の戒めと、隣人を自分のように愛しなさいという第二の戒め。第二の戒めも第一と「同様である」とは、まったく同列ではなく、はっきりした区別と優先順位があるという意味です。だからこそ、「まず、一番大切な第一のこと。そして第二に~」とおっしゃった。最も身近で大切な隣人として、父母や連れ合い、子供たちなどの家族が挙げられます。その場合にも、もちろん神を愛し、尊び、神にこそ仕えて聞き従うことが最優先の第一の戒めです。神を中心にするのでなければ、私たちは簡単に、神を二の次、三の次とし、神を愛し尊ぶことをどんどん後回しにして侮りつづけるようになってしまいます。そのことを、私たちは本気で恐れねばなりません。

 救い主イエスからここで差し出されている要求は、とくに厳しく、また私たち自身の心の中に何があるのかと問いかけるものです。だからこそ、この要求は賢く、また私たちにとって必要なものです。どこでどのように生きようとも、神を信じて生きようとするその人の魂にとってのつまずきの石(=妨げとなる障害物)は、しばしばその人自身の家庭の中や家族関係の中に生まれます。あるとき、友人や親しい家族との考え方や意見の衝突が起こり、すると、それは神を信じて生きようとする人々にとって大きな困難となります。そのとき、救い主イエスの御心に背き、逆らってしまうよりは、むしろ家族や周囲の人々の考えや願いに逆らうほうが良いのです。

 私たちが大切に思う人々の考えに同意できないことは、この私たちにとって重い十字架となります。けれども、とくに信仰の事柄においてはこれが真実です。もし、それが道理にかなわない間違ったことであると知りながら、なおその人たちを喜ばせるために自分もその悪いことをしてしまうならば、それは決してその人々を愛し、尊ぶことにはなりません。「あなたの父母を愛し、尊びなさい」。そのとおり。しかも、その父親や母親が間違ったことをしようとするなら、「お父さん、お母さん。それは間違っています。そんなことをしてはいけません」と断固として逆らって立つ必要があります。それこそが、その人々を真実に愛し、尊ぶことになるからです。

28-32節、「あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう」。家を建てる場合と、自分が一国の王であり他の国の王と戦争をしようとする場合と、2つの場合を例にとって、『あらかじめ先の見通しを良く立てておくべきこと』だと勧められています。神を信じて生きることもまた、家を建てることや他の国と戦争をすることに似ている点があるからです。神を信じ、救い主イエスに聴き従って生きてゆくことには、喜びや幸いばかりでなく、苦しく嫌なことも起こります。そのために大きな代償を支払うことや、何かを犠牲にすること、そのために苦しみや悩みを引き受けて、それを耐え忍ばねばならないこともあります。そうしたことも分かった上で、神を信じて生きることを選び取るのです。ただ形ばかり、名ばかりのクリスチャンになって、ただ礼拝に出席しつづけるだけなら、それはたやすいことです。けれども本気になって救い主イエスの御声を聴き、イエスに従い、信じ、救い主イエス・キリストを自分の唯一の主人であると告白し、そのように生きようとするならば、私たちは主であられる救い主イエスご自身から多くの自己否定を要求されます。「自分を捨てて、自分が負うべき十字架を背負って、私に従ってきなさい」(ルカ福音書9:23参照)と主イエスから命じられて、主イエスに聴き従って生きてきた私たちです。捨て去るべき自分とは、私たちの罪深さであり、「自分は正しい、正しい」と言い張る傲慢(ごうまん=思い上がった気持ちになって、むやみに他人を見下すこと)さや自己義認の罪であり、自分の安楽や思い通りの生き方を願う自己中心の思いであり、世間やまわりの人々から良い評価を得て、皆から尊ばれたいと願う世俗性です。それらすべてを、私たちは投げ捨てなければならいし、しかも、そうすることがこの私たちにも必ずできると約束されています。それらすべてが、私たちが闘って打ち破るべき敵対者たちです。『あらかじめ先の見通しを良く立てておくべきこと』だと勧められているのは、このことです。喜びや幸いばかりでなく、苦しく嫌なことも起こります。そのために大きな代償を支払うことや、何かを犠牲にすること、そのために苦しみや悩みを引き受けて、それを耐え忍ばねばならないこともある。それは、このようなことです。

主イエスは、なぜ、こんなことを語りかけるのか。ご自身の弟子たちを最初のうちから落胆させて、神を信じて生きることを諦めようとなさっているのか。永遠のいのちに至る門を、もっともっと狭く見せようとしておられるのか。いいえ、決してそうではありません。主イエスに聞き従って生きようとる私たちが、軽はずみに、あまり考えもなしに新しい生活を生き始めないためにです。誘惑にあう試練の時に、この私たちがごく簡単に、虚しい不信仰へと転げ落ちてまわないためにです。後戻りをしてしまって、いつの間にか、ついつい信仰を失ってまうのは、とても惨めで残念なことだからです。

 33節、「それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない」。古い罪の自分と死に分かれ、財産であり宝物だと思い込まされていた古くて虚しいだけの見せかけだけの財産をことごとく捨て去り、それと物々交換のようにして、新しい財産を神さまから贈り与えられる。本当に価値のあるその新しい財産を天に蓄え続け、そのようにして私たちは生きるのです。痛みが伴います。けれど、とても役に立ち、ぜひとも知っておくべき必要不可欠な教えです。そうすることが私たちもできるし、それこそが神を信じ、救い主イエスの御声と御心に聞き従って生きる私たちのための幸いである。これが神からの約束です。別の箇所で主イエスはおっしゃいました、「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである」(マタイ福音書6:19-21

 

               ◇

 

 今日ごいっしょに読み味わったことは、思い巡らせつづけるに価します。救い主イエスに仕え、このお独りの方に聞き従って生きることを恐れなくても良いのです。むしろすでに、その幸いな歩みをはじめ、積み重ねてた自分たちではありませんか。しかも、すでに堅固な家を建て始めている私たちです。その家の土台は救い主イエスご自身であり、その家を建て上げる建築責任者もまたイエスご自身です。「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいない」(1コリント手紙3:10-12,127:1-2,ピリピ手紙1:6と証言され、約束されているとおりです。ですから、私たちが試練や苦しみや悩みも次々と立ち塞がってくる中で、なお耐え忍び、主イエスを信じて生きる道からこぼれ落ちてしまわないように、なによりも神さまからの支えと恵みとを祈り求めましょう。

 

     ≪祈り≫

     父なる神さま。すべてが新しくされ、新しく生きるときがはじまっています。救い主イエスがこの地上に降りてこられたからです。ふたたびこの救い主が来てくださる終わりの日を待ち望みながら生きるときが、そのようにしてはじまっています。主イエスを待ち望む信仰によって、私たちを日毎に新しく生きる者たちであらせてください。その信仰によって、どうか私たちをあなたの恵みの中に据え置いてください。

     貧しく心細く暮らす人たちが世界中に、そしてこの日本にもたくさんいます。どうぞ、その人たちの生活が守られますように。病気にかかって苦しんでいる人たちをお守りください。病院や老人施設で働く人たち、保育園、幼稚園の職員の方々の働きとその家族の健康をお支えください。他のさまざまな国から日本に来て暮らす外国人とその子供たち、家族の生活が支えられますように。働きと住む場所を失ったとてもたくさんの人たちの一日一日の暮らしが心強く支えられますように。淋しく苦しい思いを抱えている人たちに、どうか、一日ずつを生き延びてゆくための希望と支えが差し出されますように。

     主なる神さま。私たちの中に思いやり深く温かい良い心を呼び起こしてくださって、神さまに喜ばれる良いことを教え、それを選び取らせてください。あなたや周りの人たちを悲しなせ、苦しめるような、してはいけない悪いことが何なのかをよくよく教えてくださって、この私たちも、古い罪の自分を投げ捨てつづけて、あなたの御前に新しくされて生きることができますように。

救い主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン