2017年5月21日日曜日

5/21「苦しみを受ける」マタイ17:9-13

             みことば/2017,5,21(復活節第6主日の礼拝)  112
◎礼拝説教 マタイ福音書 17:9-13                     日本キリスト教会 上田教会
『苦しみを受ける』
 
 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
17:9 一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。10 弟子たちはイエスにお尋ねして言った、「いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。11 答えて言われた、「確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。12 しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」。13 そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。        (マタイ福音書 17:9-13)
                                         


 9節。「 一同が山を下って来るとき、イエスは『人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない』と、彼らに命じられた」。人の子、つまり救い主イエスが死人の中からよみがえるまでは、誰にも話してはならない。今は、どうでしょう? すでに救い主イエスは十字架の上で苦しみを受け、死んでよみがえられ、その復活の姿を多くの弟子たちに見せてくださり、弟子たちが見ている前で天に昇っていかれ、そのときから今に至るまで全世界の王としてずっと生きて働きつづけておられます。ですから、主イエスの弟子とされ、主イエスを信じる者とされた私たちは、もう誰にでも、この最も大切なことを話してよい。これが、今日わたしたちが聞き取るべき最も大切な一点です。誰にでも話してよいばかりではなく、それどころか、『救い主の死と復活』という福音の中身の上に立って、それぞれの生活を建てあげてきた私たちです。思い起こしつづけ、自分自身にも言い聞かせつづけて。聖書は証言しています。伝えられた福音。信じ、受け入れてきた福音の中身について。「あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れ、多くの者たちにキリストがその復活の姿を現してくださったこと」(コリント手紙(1)15:1-5と。
  10節。「救い主ご自身よりも先に、まずエリヤが来る」と律法学者らは言っていた。なぜなのか、と主イエスの弟子たちは質問します。よい質問です。律法学者らがそう言っていたのは、聖書自身がそう語ったからです;「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」(マラキ書4:5-6。父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。ここでは、ごく普通の一般的な親子関係のことが語られているのではなく、神の民とされた私たち(=その子供たち)と、神ご自身(=父)との関係のことです。神と私たちとが互いに心を向け合い、心を通わせ合うこと。しかも、洗礼者ヨハネこそがそのエリヤである、エリヤの役割を担う者であると主イエスご自身がはっきりと証言しています(マタイ11:14。子供のように慈しみ育てられてきた神の民イスラエルは神に背きつづけ、逆らい、離れ去った。ふたたび神の民が神のもとへと立ち戻るためには、預言者エリヤが間に入って、両者の仲を取り持たねばならない。遠い昔、別の預言者はやがて来られる救い主について預言しました。「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである』」(イザヤ書40:3-5。その預言を受けて、洗礼者ヨハネは、救い主がこの世界に現れる直前に、預言者エリヤがしようとしていたように、救い主を迎え入れるための道を人々に備えさせます、「悔い改めよ、天国は近づいた」と。洗礼者ヨハネこそが、「主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ」と呼ばわる『荒野の声』だったのです。すでにとっくの昔に神の民とされ、主を信じる生活を積み重ねていたはずの人々は、自分自身をつくづくと振り返ってみて心を痛めました。信じていると言いながらちっとも信じていないじゃないか、この私は。形ばかり、ただただ口先だけの信仰じゃないか。これではとうてい救い主を迎え入れることもできない。神を信じて生きることを今日から本気でしはじめよう、この私こそがと。すでに神の民とされていたはずの、信じているつもりになっていた人々が、改めて、我も我もとヨハネのもとに来て、神を信じて生きるための入門の儀式を受けはじめました。それが洗礼のはじまりです。洗礼者ヨハネは呼ばわりました、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている」(マタイ福音書 3:2-12と。洗礼者ヨハネこそが、救い主イエスを迎え入れる道備えのために再び遣わされた預言者エリヤだったのです。エリヤの役割を引き継いで、道備えを成し遂げる者です。11-12節。弟子たちの質問を受けて、主イエスが答えます。エリヤはふたたび来た。それが洗礼者ヨハネだった。しかし人々は、他の預言者たち同様に彼をも認めず、自分勝手に彼をあしらった。人の子、つまり救い主イエスもまた人々から自分勝手にあしらわれ、苦しみを受け、殺されるだろうと。13節、「そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った」。たしかにそうです。けれど二度目に来たエリヤである洗礼者ヨハネを、人々は認めず、自分勝手に彼をあしらった。そして、首をはねて殺してしまった(マタイ14:1-12参照)。しかも救い主イエスをさえ、人々は同じように退け、認めず、いいようにあしらい、やがて十字架のうえで苦しめて殺してしまいます。すると、それならば、どういうことになるでしょうか?

             ◇

 律法学者らが「救い主ご自身が来る前に、まず先に預言者エリヤが来ると聖書は証言していた」と言い立てていた理由は、目の前にいるそのイエスというお方を救い主と認めたくなかったからです。「先に来るはずのエリヤの姿がどこにも見えないじゃないか。するとつまり、お前は救い主じゃない。偽物だ」と言い張りたかったのです。だから、救い主に先立って来て道備えをするはずのエリヤの役割を担って洗礼者ヨハネが来て、十分に働いても、「悔い改めよ、天国は近づいた。まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ」と呼ばわっても、聞く耳をもたず、見る目を持ちませんでした。律法学者やパリサイ人たちのことはほどほどのことです。むしろ、いつも大問題であるのは、この私たち自身のことです。
 私たち自身と家族がはたして罪と滅びから救われるのかどうか。救われるためには、この私たちはどうしたらいいのか。11節で、「エリヤが来て万事を元どおりに改める」と語られながら、けれど洗礼者ヨハネは認められず、好き勝手にあしらわれて殺されました。救い主イエスご自身も同じように、十字架の上で無残な死を遂げました。何一つも成し遂げられなかったかのように見えます。世の人々の10人中10人がそう言うでしょう。そのとおり。これは主イエスを信じる信仰の目と心によってしか理解することも受け止めることもできない霊的な真実であるからです。救い主キリストを知る知識の香りは、ある人々にとっては『いのちからいのちに至らせる香り』であり、別の大勢の人々にとっては、まるで正反対に、『死から死へと至らせる香り』にすぎない(コリント手紙(2)2:15-16。それでもなにしろ洗礼者ヨハネと伝道者たちは、この私たちを救い主イエスの手に委ねていったのです。このお独りの方を私たちも信じることができるかも知れない。あるいは、できないかも知れない。すでに主イエスは、ご自身の死と復活を弟子たちに告げ知らせはじめています。先々週、1621節以下。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません。あっては困ります、不都合ですから止めてください」と弟子のペテロが立ちはだかったとき、主イエスは仰いました、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」。「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。なんと容赦のない、なんと厳しい叱責でしょう。サタン、引き下がれ。「引き下がれ」は、元々の言葉では『後ろへ回れ』と言っています。つまり、サタンが主の前に立っていたのです。主の御心、主のご意思よりも、自分の考え、自分の思いや計画ややり方を、自分だけの道理と理屈をどこまでも先立ててゆこうとするとき、私たちはサタンの誘惑にさらされています。サタンのとりこにされ、連れ去られようとしています。主の弟子の第一の務めは、『主の後から付いてゆくこと。主に従って、その後から行くこと』だったのです。先に立って、「こっちです。こっち、こっち。何をグズグズしているんですか」と思い通りの道筋へと導こうとするならば、私が主、私の思いとやり方こそが第一とするならば、もう、あなたは主の弟子ではありません。救い主イエスとはなんの関係もない者たちであり、主のものですらないでしょう。気がつくとあなたも私も、神をそっちのけにして、自分や周囲の人間たちのことばかり思い煩っています。
 主は、ご自分に従っていく私たちに、このように指図をなさいます。何度でも何度でも聴きましょう、1624-26節。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」。もちろん主は私たちに、喜びや楽しみをすっかり捨て去れなどと命じるのではありません。意味なく、ただやたらに苦痛や困難を求めよなどと乱暴な要求を突きつけるのでありません。けれど、鎮まって考えてみるならば、たしかに捨て去るべき『自分』があり、背負うべき『自分の十字架』があります。不思議な言い方がされています。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(25)。主イエスを信じて生きはじめた主の弟子たちよ。実は、「自分の命」だと思い込まされていたものは、命でもなんでもなく、そのほとんどは、かえって自分自身を困らせる重荷となり、むしろ、私たちを死と滅びへと至らせようとする偽りの喜びと楽しみでした。だからこそ、救い主イエスの福音を初めて聞いた者たちは、腰を抜かさんばかりに、とても驚いたのです。だからこそ救い主キリストを知る知識の香りは、ある人々にとっては『いのちからいのちに至らせる香り』であり、別の大勢の人々にとっては『死から死へと至らせる香り』にすぎなかった。このお独りの方を私たちも信じることができるかも知れない。あるいは、できないかも知れない。すでに主イエスは、ご自身の死と復活を弟子たちに告げ知らせています。とても苦い薬であったので、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません。あっては困ります、不都合ですから止めてください」と弟子のペテロも私たちもその福音の約束を退けたくなります。だからこそ主イエスは仰います、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。朝から晩まで、四六時中、ただただ自分自身と人間のことばかり思い煩いつづけて、神を思わず、神からの救いの約束を思う暇もない。もしあなたが私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」。ほんの少し前までは、私たちは皆、死と滅びに至る罪の奴隷でした。「自分の命。自分の命」とそそのかされて、ただただ虚しいだけの見せかけの希望にしがみついていました。けれど、ついにとうとう、その虚しい希望をポイと投げ捨てました。神からの生命を差し出すお方と出会い、その生命を受け取り、神さまの御前で、神に向かって新しく生きることをしはじめたからです。罪と肉の思いの奴隷にする悪い主人をポイと投げ捨てて、新しい主人に仕えはじめました。そう 新しい、ただお独りの主人に。救い主イエスに。










2017年5月14日日曜日

5/14こども説教「内側を清くする」ルカ11:37-41

 5/14 こども説教 ルカ11:37-41
 『内側を清くする』

11:37 イエスが語っておられた時、あるパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたいと申し出たので、はいって食卓につかれた。38 ところが、食前にまず洗うことをなさらなかったのを見て、そのパリサイ人が不思議に思った。39 そこで主は彼に言われた、「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている。40 愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。41 ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。
(ルカ福音書 11:37-41

 ケンちゃん、一年生になったね。朝起きて、顔を洗って歯も磨いて、ご飯を食べる前には石鹸をつけて手をよく洗って、夜にはお風呂に入って体をきれいに洗っていますね。それはとても大切なことです。
 そのことをよく分かった上で、それよりももっと大切なことがあるんです。それは、自分の体の内側を、頭の中や心の中も、できるだけきれいにしておくことです。かなり難しい。どうしてかというと、ほとんどの人は「自分は人に親切にする、優しくて思いやり深い、正しいことを願う、なかなか良い人間だ」と思い込んでいるからです。「どうですか」と質問すると、「わたしは良い人間ですよ」とほとんどの人が思っています。10人中9人、もしかすると10人全部が。神さまに「どうですか」と質問すると、「いいや。そうでもない。かなり悪い。この人もこの人も、みな一人残らずとても悪い」とお答えになります(創世記8:21,ローマ手紙3:9-28,テモテ手紙(1)1:12-15,ヨハネ手紙(1)1:8-10。ビックリです。本当のことですよ。もし、「この私は、本当は人に意地悪をしたり、困らせたりする、冷たい心の自分勝手でわがままな、かなり悪い人間だ」と神さまから教えてもらえるなら、自分はなかなか良い人間だと思い込んでいたその人も「ああ。そうだった」と気づきはじめます。そしたら、「神さま。私の中の悪い心をやっつけてください。正しい良い心を与えてください」と願い求めはじめます。その人の心は、少しずつだんだんときれいになっていきます。神さまこそが、そのとても悪い人のためにも、そうしてくださるからです。


    【補足・聖書の救いの道理/正しい人は一人もいない。罪人を救うためにこそ、救い主イエス・キリストは世に来られた】
    神に逆らう、自分勝手でとても悪い心を、すべての人間がもっています。正しく良い人間を救おうとしたら、全員が落第で失格になるはずでした。例外は、ただの一人もいません。救うためには、その罪深さをゆるして救う他、道はなかったのです。神さまは、ご自分が造った世界とすべての生き物をかわいそうに思ってくださり、救いの道筋を用意してくださいました。救い主イエスを信じる者たちを、ただただあわれんで救うという、ただ一筋の救いの道です「救い主イエス。この方による他、救いはない」(使徒4:12


5/14「主イエスにこそ聴け!」マタイ17:1-8

            みことば/2017,5,14(復活節第5主日の礼拝)  111
◎礼拝説教 マタイ福音書 17:1-8                   日本キリスト教会 上田教会
『主イエスにこそ聴け!』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  17:1 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。3 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。4 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。5 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。6 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。7 イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。8 彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。     (マタイ福音書 17:1-8)
                                                


  1-2節。「彼らの目の前でイエスの姿が変わり、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった」。主イエスの地上の生涯の中で最もよく知られた出来事の一つが、ここで報告されています。「山上の変貌」と言い慣わされてきました。この直前の16章の終りで、主イエスは弟子たちにご自分の十字架の死と三日目のよみがえりを予告し始めています(16:21-28)。弟子たちは混乱し、怖れおののき、深く悲しみ嘆きます。その6日後に、主はご自分の厳かで栄光にあふれた姿を彼らに見せてくださったのです。弟子たちの悲しみ嘆いた心は、次には、主の栄光にふれて喜び踊ります。
 この16章、17章のつながりの中に、私たちの信仰の歩みも据え置かれています。私たちは、なお生身の肉体を抱えて地上を歩んでいます。すぐ目の前の出来事にあまりに深く囚われ、目も心も奪われてしまいます。耳に入るほんの少しの事柄、周囲の人々のいくつかの声が、私たちの心を大きく左右します。まるで、いま目に映っているもの、いま耳に入っているものが私たちのためのすべてであるかのように。神の栄光や尊厳は、そうした私たちの生身の目からは隠されてしまい、厚いベールに覆われてしまっているかのようにです。その厚いベールの片隅が、今、ほんのわずか持ち上げられて、その後ろに隠されているものがひと時だけ姿を垣間見せます。主イエスの栄光と尊厳です。その顔は太陽のように輝き、身にまとっておられる服は光のように白くなりました。やがて再び来られる主イエスの栄光の姿を、私たちも自分自身の心によくよく刻んでおきたいと願います。なぜなら、それぞれの思い煩いと疲れと忙しさの只中で、私たちは栄光の主をすっかり忘れて、それぞれに物寂しく、心細く、アタフタと暮らしているからです。また、地上のものすべてがこの方に従うようになると告げられながら、いまだにそのような光景を見ていないからです(ヨハネ手紙(1)3:2)。けれど人の心に思いも浮かばなかったことを、神ご自身が私たちのために用意してくださっています。ただ約束されているだけではなく、主イエスの栄光の一部分は、3人の弟子たちの目ではっきりと見られ、証言されてもいます。彼らは「その栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ福音書1:14)のです。
  3節。弟子たち3人が見ていますと、旧約聖書の大勢の預言者たちを代表してモーセとエリヤが現れ、主イエスと語り合っていました。1500年近く前に死んで葬られたはずのモーセと、900年以上前につむじ風によって天に持ち運ばれていったエリヤ(申命34:6,列王下2:1)とが、3人の弟子たちの前に、その生きた姿を現しています。いいえ、それよりも何よりも、太陽のように輝いた主イエスの御顔、光のように白くなった主の衣服。栄光に輝くこの姿は、復活の主イエスの姿の先取りです。主イエスの復活は、ここにいるこの私たち自身が新しい生命によみがえることの初穂です。もし、主が復活したのなら、主イエスを信じて生きるこの私たちもまた復活します。もし仮に、そうではないのならば、私たちはやがて衰えるままに衰え去り、朽ちるままに朽ち果ててしまう他ありません。兄弟姉妹たち。この世の生活の中でだけキリストに望みをかけているのだとするならば、私たちの心の中でだけ、ほんの気休め程度にキリストに希望を託しているだけだとするならば、もしそうなら、私たちの信仰はあまりに虚しく、私たちはなお罪と悲惨さの只中に留まりつづける他なく、『私たちはすべての人の中で最も惨めな者』ということになります。もしそうならば、キリストを宣べ伝えることも、キリストを信じる信仰も無駄だった、ということになるでしょう(コリント(1)15:19)。その通りです。さて、主イエスは復活なさいました。復活の主イエスの栄光も輝きも、それは、十字架の主の栄光と別のものではありません。1つのものです。あの疑い深いトマスには、ずいぶんよく分かっていました。「主イエスのその手にクギ跡を見、わたしの指をクギ跡にさし入れ、また、わたしの手をその脇腹にさし入れてみなければ、決して信じない」と彼は言いました(ヨハネ福音書20:25)。その通り。「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹にさし入れなさい。さあ」と招かれて、そこでやっと彼は、主の御前にひざまずく者とされました。喜びにあふれて、「わが主よ、わが神よ」と膝を屈める者とされました。
 主はたしかに復活したのであり、私たち自身も復活します。私たちはただ衰えるままに滅び去るのではなく、朽ちるままに朽ち果てるのではありません。この世の生活を越えて、死の河波を乗り越えて神の都にきっと辿り着くと、キリストによって辿り着かせていただけると私たちも望みをかけています。皆さんは、どうですか? あなたは、あなたは。彼らも私たちも、この自分自身が、あらゆる人の中で最も豊かに祝福された人々の1人であると自覚しています。
  もう1つのこと。4-8節。モーセとエリヤが主イエスと語り合う光景を見て、主の弟子がこう提案します。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、お差し支えなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために」。主イエスご自身と御父は、このペトロの提案をどう聞いたでしょうか。はたして喜んだのか。あるいは、渋い顔をなさったでしょうか? 小屋は、今日風に言えば『○○記念会館。△□記念礼拝堂』といったところでしょう。モーセ記念会館、エリヤ記念会館、イエス記念礼拝堂。3つの福音書がこの同じ出来事とペテロの発言を報告していますが、ただマルコ福音書は「ペトロはどう言えばいいか分からなかった」9:6ので、それでこんなソソッカシイ、軽はずみで見当違いなことを言ったのだと。キツイ批判ですけれど、その通りです。確かにモーセやエリヤは重要だったし、旧約時代の預言者たち一人一人と同様に、大切な働きをさせていただいた人物たちでした。そうだとしてもなお、神ではない者たちのために、たかだか人間にすぎないものたちのために記念会館や記念礼拝堂などを建ててはなりません。銅像も建ててはダメです。素敵なリーダーや周囲にいる素敵なクリスチャンたちを偶像に仕立てたり、聖人君子扱いして拝んだり、神と並べて祭り上げたりしては決してなりません(コリント(1)1:12-13,4:6-7)
  なぜなら、(1)「モーセ記念会館、エリヤ記念礼拝堂を」とペトロが浮かれて見当ハズレなことを言いだした途端に、雲が彼らをすっかり覆い尽くして何も見えなくされたからです。(2)また、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」と、ただただ主イエスを指し示す天の父の御声が聞こえたからです。(3)ひれ伏して恐れる弟子たちにイエスが近づいてきて話しかけ、彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかには誰もいなかったからです。人間にすぎない者たちの声に信頼して聞き従おうとするいつもの習慣や性分が、私たちの中になお根強く残っています。信仰をもつ私たちの間でもそうです。神の声は聞き分けにくかったからですし、イエスに聞き従うためにこそ聖書を調べよ(ヨハネ5:39-40,20:30-31,使徒17:11,テモテ(2)3:15-17)と命じられても、自分の心で聖書を読むことはとても難しかったからです。けれどモーセもエリヤもダビデも、キング牧師もマザーテレサさんも皆、生身の人間たちであり、罪人の1人にすぎません。たびたび間違うこともあり、大きな心得違いをすることもあります。「あの立派な、物のよく分かった、賢い信仰深い○○先生がそう言うので」とついうっかりして言いなりに鵜呑みに信じたくなります。けれど天の御父の愛する子、イエス・キリスト。御父の御心に適う者、イエス・キリスト。「ただただ、この方に聞け」とあの弟子たちも私たちも命じられています。主イエスご自身も「私こそがただ一筋の道、一つの真理、一つの命」と。歩んでいくべきただ一筋の道があり、聞き従うべきただ1つの真理があり、私たちを自由に晴れ晴れとして生かしてくれるただ1つの格別な生命があります。救い主イエス・キリスト。この方による以外に救いはありません。私たちを救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていないからです(ヨハネ福音書14:6,使徒4:12)このお独りの方を信じて歩むなら、必ずきっと天の御父のもとへと辿り着ける。この方に聴き従うなら、神を信じて生きて死ぬために必要な真理をちゃんと掴み取ることができる。このお独りの方から受け取るなら、十分な生命をいただきつづけて生きることができる。救い主イエスこそがただ一筋の道、一つの真理、一つの命。文字通りに、そのまま丸ごと信じて受け止めつづけることができるかどうかが、いつもの別れ道でありつづけます。御父が主イエスを指差して、『これは私の愛する子、私の心にかなう者である。これに聞け』と私共に命じた。命じつづけます。「イエスにこそ聴き従う」。それはイエスにも聴き、それと並べて、それに負けず劣らず他の誰彼にも聞くし、聴き従うということではありません。例えば、第二次世界大戦中の日本とドイツで、「イエスにも聴き、それと並べて、それに負けず劣らず他の誰彼にも聞くし、聴き従う」という大失敗と嘘偽りがまかり通ってしまいました。イエスにも聞くけど、アドルフ・ヒットラーにも聞き、天皇陛下様にも国家権力にも、自分自身の腹の虫にもハイハイと従う。その場その場の空気も読み、空気にも負けず劣らずに聴き従う。とんだ嘘っ八だし、大間違いです。それではイエスに聴くことになりません。しかも闇が地を覆い、死の陰の谷に私たちは住んでいます。世俗化の波がキリストの教会を覆い尽くそうとしています。兄弟姉妹たち。教会の世俗化とは、主イエスに聴き従うことを私たちがすっかり止めてしまうことです。神さまへの信頼と従順がすっかり骨抜きにされ、ただただ口先だけの絵空事にされてしまうことです。この私たち自身のことです。例えば使徒行伝3-4章、足の不自由な人を神殿の入り口で癒してあげたあと、主イエスの弟子たちは議会に連れていかれて厳しく脅かされました。彼らは答えました。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい」(使徒4:19)と。同じく主イエスの弟子とされた私たちも、この同じ一つの質問を一生涯、突きつけられつづけます。神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか、判断してもらいたいと。しかも、「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方を疎んじるからである」(マタイ福音書6:24)。誰を自分の主人として、この私たちは生きるのでしょうか。神さまの御心にかなわない、ふさわしくない者たちがキリストの教会に招かれました。それが私たちクリスチャンです。けれど、その、御心にかなわない、ふさわしくない者たちが、だんだんと御心にかなう者へと変えられていきます。どうやって、どんなふうに? 主イエスに聴き従って生きていこうと本気で決心させられたからです。神さまに逆らって、人様の顔色とご機嫌を窺い、自分自身と人間のことばかり思い煩いつづけることを、もうキッパリ止めようと。

 私たちに語りかける声が耳元にいつもありました。「イエスは主であり、イエスを主とする私であり、生きるにも死ぬにも、私は私のものではなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものである」(コリント手紙(1)12:3,ヨハネ13:13,ローマ手紙10:9)と、あなたは言っていたね。まるで口癖のように言っていたじゃないか。そのあなたが、ここで、こんなふうに考え、そんな態度を取り、兄弟や大切な家族に対してそんな物の言い方をするのか。と私たちに語りかける声がありました。「イエスは主である。他のナニモノをも主とはしない」と口でも心でも認めているはずの、そのあなたが、争ったり妬んだり、人を軽々しく裁いたり、退けている。そのあなたが卑屈にいじけている。そのあなたが、ふさわしいとかふさわしくないとか、大きいとか小さいとか賢いとか愚かだとか品定めをし、また品定めをされることに甘んじているのか。そのあなたが、「~にこう思われている。~と人から見られてしまう。どう思われるか」などと簡単に揺さぶられ、すっかり我を忘れ、神さまを忘れてしまっている。『イエスこそ私の主』と言っているくせに、そのあなたが「なにしろ私の考えや好き嫌いは。私の立場は。私の誇りと自尊心は」と言い立てている。イエスは主なりと魂に刻んだあなたの信仰は、あれは、どこへ消えて無くなったのか。朝も昼も晩も、そうやって私たちに語りかける声があります。呼びかけつづける声があります。
 山の上で、また毎週毎週の礼拝の中で、栄光に輝く主イエスをほんのひと時だけ垣間見せられたのは、そこから始まる6日間の日々のためです。そこで、それぞれに手強い6日間の現実生活の場所で、あなたがなお心強く生き抜くためにです。誰にも言いなりにされず、語るべきことを、語るべき大切な相手に、心をこめて精一杯に語り始めるためにです。だからこそ、「これに聞け」と命じられています。「どうせ私は」と卑屈にいじける日々に、あのお独りの方に聞け。満ち足りる健やかなときに、あのお独りの方に聞け。弱り果てて心病む日々に、あのお独りの方に聞け。目の前のアレコレがあなたの目も心も惑わせ、目に写ることや耳に入るアレコレがあなたを深く支配しようとする日々に、そのときこそ、あのお独りの方に、救い主イエス・キリストにこそ一途に聞きなさい。朝も昼も晩も、聞き従いつづけなさい。 




2017年5月8日月曜日

5/7こども説教「あなたを照らす光」ルカ11:33-36

 5/7 こども説教 ルカ11:33-36
 『あなたを照らす光』

11:33 だれもあかりをともして、 それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。34 あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。35 だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。36 もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。            (ルカ福音書 11:33-36

  なぜ、私たちが「光の子」と呼ばれ、「世を照らす光」と呼ばれるのか。救い主イエスを信じて、その信仰によって毎日毎日の暮らしを生きているからです。主イエスは仰いました、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(マタイ5:14,ヨハネ福音書8:12,12:36,イザヤ書60:1-7「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから」
  1つ、難しいことを言われました。34-36節、「あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。救い主イエスを信じて、その信仰によって毎日毎日の暮らしを生きている。だから光の子だし、光を持っていると言いました。あなたのその目と心が、救い主イエスを、よくよく信じて、じ~っと見つめているのかどうか。それなら大丈夫。それなら、その目と心から、主イエスの光があなたの体の中にもどんどんどんどん入ってきます。体全部が明るくなって、神さまからの明るい光の中を朝も昼も晩も安心して嬉しく暮らしていくことができます。


     【補足/主イエスこそ光】
世を照らす光である救い主イエスを信じているし、そのお独りの方に目を凝らし、聴き従っている。だから私たちは、主イエスの光を鏡のように反射しつづけて、光の子たちなのです。それはちょうど太陽光発電の、屋根の上に並べられた反射板のようにして、そのようにして私たちは主イエスの光を反射しつづけます。主イエスの熱を蓄えつづけます。このことは、よくよく覚えておかねばなりません。ですから自分自身の中に何か明るく輝く材料がないかと探すのは、お門違いです。 (コリント手紙(2)4:4-7)「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」。


5/7「神を思うことができない病気」マタイ16:21-26

                みことば/2017,5,7(復活節第4主日の礼拝)  110
◎礼拝説教 マタイ福音書 16:21-26                      日本キリスト教会 上田教会
『神を思うことができない病気』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
16:21 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。26 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。                           (マタイ福音書 16:21-26)
                                               
6:10 最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。12 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。13 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。      (エペソ手紙 6:10-13)
  


  目に見えて、頭で理解できることは分かりやすい。そうでないものは分かりにくい。「だから目に見えて理解できるものばかりが現実だ、そうでないものは絵空事だ」と私たちは思い込みます。『サタン悪魔』は、実在します。たとえ目に見えなくても、私たちのちっぽけな頭では理解できなくてもです。悪魔の働きを見くびり、軽んじる者は、多分それだけではなく、神さまの存在と働きに対しても同じく見くびり、話半分に聞き流し、同じく軽んじるでしょう。「そんなものは存在しない。あるとしたら、心の中の片隅にだけあるのだろう。あるような気がするだけだろう」と。けれど聖書は証言し、また警告します。悪魔は私たちを食い尽くそうと探し回っており、だからこそ、身を慎んで目を覚ましていなさいと。神に敵対する勢力が現にあり、私たちを神に背かせ、「神などいない」と思わせようとする誘惑があります。踏みとどまって抵抗するのです(エペソ4:11-)
  主イエスは、弟子たちに打ち明けます。「自分が必ずエルサレムに行き、多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえる。必ず、そうなる」(21節を参照)と。今日のこの箇所全体の中で最も大切な言葉は、この「必ず~するべきこと」です。奇妙な言い方です。この世の中に、あらかじめ『必ず~することになっている』ことなどあるでしょうか。ありません。天気予報も株価変動の予測も、だいたいのことです。テレビや雑誌の運勢の星占いも、だいたいのことです。そうなることもあれば、ならないこともある。不確かで、先の見えない私たちの日々ではありませんか。来年のことを言えば鬼が笑う。来年どころか、半年後、半月後の私が果たしてどうなっているのか。明日の我が身さえ、何一つ確実に言えることなどありません。若い恋人同士の永遠の愛の熱烈な誓いも、もしかしたら数年か数ヶ月のうちに色褪せてしまうかも知れません。「たとえ皆がつまずくとしても、私だけはあなたに従います」と主の弟子ペテロは言い張りました。その真情あふれる忠誠の約束がほんの数時間で崩れ落ちてしまったように(マタイ26:33,69-。けれど、21節の「必ず~なるべきこと」これだけは違います。「必ず~することになっている」とは、『神が、~と決めておられる』という言葉です。神が決断し、断固として決め、その出来事をご自身で持ち運ぶ。だからこそ『必ず~することになっている』。主イエスは弟子たちに、ご自分が進んでいく道筋を繰り返し、はっきりと語られます(マタイ16:21-,22-,20:17-)。それは、十字架の死と復活の道筋です。また、ただそれを通してだけ与えられる救いと平和。けれど、ペテロと弟子たちには、また私たちには、受け入れがたい。この直前、先週の13-20節では主イエスに対して「あなたは救い主です」と信仰を言い表したはずのペテロが、ここで主イエスの言葉を拒み、主ご自身を退けています。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」(22)。「あなたは確かに私たちを救ってくださる。けれど、そういうやり方ではない。それでは私にとっては不都合だし、とても迷惑で困る」とペテロは言いたい。力ある王であってほしい。誇り高く、偉大で素敵な勝利者であってほしい。その王の輝くばかりの栄光と豊かさの分け前に預かりたい。それが、その時、ペテロたちの望んでいた救いでした。では、この私たち自身はどんな救い主を望むでしょう。何を期待して、私たちは主を信じているのでしょうか。
  23節。イエスは振り向いてペテロに言われました。「サタンよ、引き下がれ。私の邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。なんと容赦のない、なんと厳しい叱責でしょう。サタンよ、引き下がれ。「引き下がれ」は、元々の言葉では「後ろへ回れ」と言っています。つまり、サタンが主の前に立っている。主の御心、主のご意思よりも、自分の考え、自分の思いや計画ややり方を先立ててゆくとき、私たちはサタンの誘惑にさらされています。サタンのとりこにされ、死と滅びの只中へと今にも連れ去られようとしています。主の弟子の第一の務めは、『主の後から付いてゆくこと。主に従って、その後から行くこと』です。先に立って、「こっちです。こっち、こっち。何をグズグズしているんですか」と、もし自分自身の思い通りの道筋へと導こうとするならば、私が主、私の思いとやり方こそが第一とするならば、もう、あなたは主の弟子ではありません。主のものですらないでしょう。
 主イエスは、一人の弟子を叱りながら、弟子たち皆を見据えつづけています。ペテロだけのことではありません。ペテロはしばしば弟子たちのリーダー格として皆を代表して語り、行動します。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」;それは、弟子たち皆の思いでした。振り返る主の目に、ペテロと同じ思いを抱く弟子たちと私たち一人一人の顔が見据えられます。「サタンよ、引き下がれ。邪魔をするのを止めて、私の後ろへ回れ。神のことを思わず、自分自身と人間のことばかり朝も昼も晩も思い募り、思い煩っている。それは、あなたのことだ」と。まったくそうです。その通りです。気がつくと僕も、神のことではなく自分自身と人間のことばかり思い煩っている。『人間のこと』とは何でしょう。目を凝らしましょう。――ある人にとって、それは自分の体面、体裁。ある人にとって、それは自分の願い、自分の計画、自分の強い欲求。また自分が受けた恥、うらみ、胸の内にくすぶりつづける怒り。では、この私自身にとっては? 私の思いを神から遠ざけ、神を阻み、暗く狭い場所に私を閉じ込めているものは何でしょうか。この私という一個の人間は、いったい何を心の中に抱えているのか。自分自身と周囲の人間たちのことばかり思い煩い、グズグズと思い悩み、そのあまりに神のことをほんのわずかも思えなくなっている私ではないか。気がつくと、あの弟子のように私も主の前に回り込み、主に先立って行こうとし、主を後回しにし、脇へ脇へと押しやっている。「私のうちに芽生えるサタンよ、引き下がれ。後ろへ回れ。私自身よ、引き下がれ。私こそ、主の後ろへ回れ」。神へと思いを向けさせず、人間にばかり心を留め、くすぶらせ続けるなら、この私こそが「サタンよ」と叱られるだろう。この私自身よ、さっさと退け。後ろへ回れ。 
  主は、ご自分に従っていく私たちに、このように指図をなさいます。24-26節。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」。もちろん主は私たちに、喜びや楽しみをすっかり捨て去れなどと命じるのではありません。意味なく、ただやたらに苦痛や困難を求めよなどと乱暴な要求を突きつけるのでありません。けれど、鎮まって考えてみるならば、たしかに捨て去るべき『自分』があり、背負うべき『自分の十字架』があります。不思議な言い方がされています。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(25)。目に見えるすべてのものは、やがて直ちに過ぎ去っていきます。財産も地位も名誉も、人からすばらしいと誉められることも、過ぎ去っていきます。若さも健康も生命さえ、やがて失われるときが来ます。必死にしがみついているその大事なかけがえのないものが一つ、また一つと過ぎ去っていくときに、あなたは一体どうするのでしょう。聖書は勧めました。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日が来たり、年が寄って、『私には何の楽しみもない』と言うようにならない前に、また日や光や、月やほしがの暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ」(伝道の書12:1)。もちろん、造り主を覚え、心に刻んだからといって、大雨と嵐の夜が来ないわけではありません。覚えたからといって、だから年が寄らないわけではありません。私たちを悩ませるものたちが押し寄せる夜の日々に、それらが私たちの目も心も奪おうとするときに、けれど造り主を覚えた者たちは、少し違うふうに大雨と嵐に立ち向かうからです。「あなたの若いうちに」とは、間に合ううちにという意味です。多分、まだ間に合います。私たちにとっても、私たちが心に掛けている大切な人々にとっても。まだ間に合います。造り主を覚え、心に深々と刻んで、備えをすることができます。なぜなら私たちは、見えないものに目を注ぐからです。目に見えるものによらず、そうではない仕方で歩んでいるからです。過ぎ去らず、決して朽ちないものの只中に身を置いて、そこに足を踏みしめて、私たちは立っているからです(コリント手紙(2)4:18-)
  「安らかであれ、私の心よ」と讃美歌298(賛美歌21532番)は歌いました。「安らかであれ、安らかであれ、安らかであれ」と繰り返し、噛んで含めるように自分自身の心に言い聞かせています。痛みにも苦しみの只中にあっても。波風が荒々しく打ち寄せる嵐の夜にも。月日が移ろっていき、不自由さと物淋しさに悩まされ、年老いてすっかり衰えたとつくづく思い知らされる日々にも、なお私の心よ、安らかであれ。どうしたら安らかでいられるでしょう。何がどうであれば、私たちは満たされ、平安であることができるでしょうか。「もっと慰めの言葉を聞きたい」と言われつづけます。「もっと人を活かす言葉を」と。奇妙なことです。キリスト教会と伝道者たちはそうした要望に応えようと慰めと癒しの言葉を何十年も何百年も語り、けれどその言葉は虚しくこぼれ落ちつづけてきたのかも。いいえ神ご自身こそが私たち人間を癒し、人間とすべての生き物を活かそうとしてきたのではなかったでしょうか。聖書をとおし、また主の働き人たちを用いて、慰めと癒しの言葉を神ご自身が語りつづけてきたはずではありませんか。それなのに、どうしたことか。立ち止まって真に問うべきだったのは、どんな慰めなのか。どこから出てきた癒しなのか。人間とすべての生き物を救いと祝福へと招き入れようとする神ご自身からの慰めと救いなのか。神ご自身からのいのちと平安なのか。あるいは、別のところから出てきた、別の慰めと救いなのか。神ご自身も私たちも慰めや癒しを心から願いつづけているとして、けれどわたしたちが思い描き、願い求めている「慰め」や「癒し」は、どこへと向かわせる慰めなのか。偽りの預言者たちがかつても今も、神を忘れさせようとして、神から離れ去らせようとして虚しい慰めをささやきつづけているからです。だからこそ主の働き人たちは「主のもとへと立ち帰れ」と呼ばわりつづけ、「悔い改めて、福音を信ぜよ」と告げつづけてきました。心を鎮めて、よくよく見定めねばなりません。
そういえば、キリスト教の根本的な希望と慰めを告げるローマ手紙6章は、「もし、わたしたちが死んだのなら、~生きることになる。もし、わたしたちがキリストと共に死んだのなら、また彼と共に生きる」とクドクドと語りかけます。つまり、「もし、死ななかったのならば、~生きることには決してならない」と。洗礼を受けてクリスチャンとされ、2ヶ月たち3ヶ月たち、3040年たって、けれどいっこうに新しい生命が始まる気配もない。どうしたわけか。もしかしたらずっと何十年も、古い罪の自分と死に別れ損なっているのかもしれません、この私たちこそが。死と滅びへと至る罪の奴隷状態のまま、罪と肉の思いにがんじがらめに閉じ込められつづけているのかもしれません、この私こそが。聖書自身が告げるところの『救い』の中身は、罪のゆるしです。罪あるままにいいよいいよと放置することではなく、罪深さにふかく囚われたまま平安平安と気安めを告げるのでもなく、罪の奴隷状態からの解放でありつづけます。罪から解放された者が神への従順に、具体的に現実的に新しく生きはじめることです。キリストが確かに十字架につけられ、死んで復活なさったからには、このわたしたち自身の内にある古い罪の自分もまたキリストと共に十字架につけられ、滅ぼされ、そのようにして新しいいのちに生きる。それ抜きにして、どんな慰めや救いがありうるでしょう。癒しを必要とする私たちですが、それは私たちがはなはだしく病んでいるからです。死と滅びに至る重い病いに。すると他のどの医者でもなく、格別に良い医者である神ご自身へと、私たち自身こそが大慌てで本気になって立ち戻らねばなりません。喜びと感謝にあふれて、晴れ晴れと生きるためには。主イエスは仰いました、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ福音書2:17





2017年5月2日火曜日

4/30こども説教「あの彼らは悔い改めた」ルカ11:29-32

 4/30 こども説教 ルカ11:29-32
 『あの彼らは悔い改めた』

11:29 さて群衆が群がり集まったので、イエスは語り出された、「この時代は邪悪な時代である。それはしるしを求めるが、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。30 というのは、ニネベの人々に対してヨナがしるしとなったように、人の子もこの時代に対してしるしとなるであろう。・・・・・・32 ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。(ルカ福音書 11:29-32)

 「ソロモンにまさる者。ヨナにまさる者」31,32節)って誰のことですか。救い主イエスのことです。救い主イエスによって、また神の働き人たちによって、神さまご自身の知恵や、神の救いの計画が、告げ知らされつづけてきました。
 ケンちゃん。昔々、自分勝手で意地悪で乱暴で、人をいじめたり困らせたりエンエンって泣かせたりする悪い悪い人たちが住んでいる町がありました。ニネベという名前の町です。神さまから命じられて預言者が来て、「悪者ども、神さまはとても怒っているぞお。お前たちが毎日毎日やっているその悪いことをやめないと、神さまがお前たちを滅ぼしてしまうぞ。それでもいいのか」って。そしたら、その町の人たちは心を入れ替えて、自分勝手で意地悪で乱暴で人をいじめたり困らせたりエンエンって泣かせたりすることをキッパリ止めました。もちろん神さまは心の優しい神さまですから、その悪者たちをゆるしてあげました(ヨナ書3:1-4:2参照)
  「しるしを見せてくれたら信じてやろう」という人々が、主イエスの時代にも今の時代にもたくさんいます。でも、それはただの言い訳でした。だって、神さまの働き人たちがあの預言者と同じことを知らせつづけてきたからです。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と救い主イエスもいいました。主の弟子たちも、「悔い改めて信じなさい。悔い改めて信じなさい」と語りかけつづけているからです。神さまへと心を向け返して、耳を傾けることが誰にでもできるからです。もし、そうしたいと願うなら。



   【補足/不信仰な者を憐れむ神】
「しるしを与えない」という言葉と裏腹に、実は、神は山ほどのしるしを次々と贈り与えつづけ、信じて生きるためのしるしと手立てで私たちを幾重にも取り囲みつづけます。疑い深いトマスのためにも、わざわざ出かけてきてくださって、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と熱心に勧めてくださったように(創世記12:10-20,17:15-19,18:9-15,20:1-18,26:6-11,士師記6:17-40,ヨハネ福音書20:24-29)。どうしてでしょうか? 「わが主よ、わが神よ」とひれ伏すことができたらどんなに幸せかと、神はこの私たちをも深く憐れむからです。右も左もちっとも弁えない者たちを、神に背きつづける者たちを、けれど滅びるままに捨ててはおけないと。惜しくて惜しくて、あまりにもったいないと。ああ。


4/30「この岩の上に」マタイ16:13-20,ヨシュア24:14-25

                                みことば/2017,4,30(主日礼拝)  109
◎礼拝説教 マタイ福音書 16:13-20,ヨシュア記24:14-25  日本キリスト教会 上田教会
『この岩の上に』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
16:13 イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。14 彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。15 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。19 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。20 そのとき、イエスは、自分がキリストであることをだれにも言ってはいけないと、弟子たちを戒められた。     (マタイ福音書 16:13-20)
                                               


  20節で「だれにも言ってはいけない」と釘をさされたことを、まず解決しておきましょう。あのとき弟子たちは、主イエスについて人々に知らせるための準備が整っていませんでした。「まだ、いけない」という期限付きの禁止でした。今では、私たちも含めてすべての弟子たちに準備が整っています。ですから今では、安心して晴れ晴れして、「イエスこそ救い主である」と私たちも誰にでも知らせることができます。
  さて、13節。ペテロが主イエスへの信仰を言い表したとき、主と弟子たちは「ピリポ・カイザリア地方」にいました。その土地は、ギリシャ神話の多くの神々を拝むことでよく知られていました。その当時、ユダヤの国はローマの植民地にされていました。ヘロデ王がローマ皇帝からこの土地を任せられた際、皇帝にお世辞を言うつもりで「カイザリア=ローマ皇帝さまの町」と名付けました。その子供ヘロデ・ピリポがさらに「ピリポ・カイザリア=ピリポが治める、皇帝の町」と名を改めました。ここはそういう土地です。多くの神々と共にローマ皇帝が神のように崇められ、また地元の支配者たちが権力を振るう土地。そこは、主イエスが弟子たちに、ご自分が神の独り子であり救い主であると認めさせるのにふさわしい場所だったのです。「ピリポ・カイザリア」はまた、私たちの住むこの世界によく似ています。目に見えない神は、見えにくく分かりづらかったのです。語りかけるその御声はあまりにか細く、ささやき声のようで、聞き分けることがとても難しかった。だからここでも、目に見える多くの神々が崇められ、目に見える多くの支配者たちが、それぞれ小さな小さな粗末な神にでもなったつもりで我が物顔に振舞います。多くの神々、多くの支配者たちが、入れ替わり立ち代りやって来て、「頭を下げなさい。ひれ伏して崇めなさい。ただただ従いなさい」と迫ります。その只中で主は、「人々は私(『人の子』=主イエスご自身)のことを誰と言っているか」と問いかけます。主イエスについて、あの当時も今も、多くの人々が様々なことを言います。けれど、他の者がイエスについて何と言っているのか、どう考えているのかはほどほどのことで、それほど大切なことではありません。問題は、あなたがどう言うのかです。あなた自身がどう考えるかです。
 多くの神々、そして神に似た多くの支配者たちが満ちあふれる世界で、『私たちは何に従うのか、何を自分自身の導き手とするのか』と選択を迫られつづけます。最初に読んでもらったヨシュア記24章もそうです。モーセから職務を引き継いだとき、ヨシュアはとても臆病な若者でした。敵対者たちの数の多さや力強さを恐れつづけ、自分自身の弱さと貧しさをつくづくと思い知らされつづけて生きてきました。主に仕える中で、その恐ろしさや心細さを乗り越えさせられつづけてきた彼が、その生涯の終りに、仲間たちに語りかけます。「主に仕えなさい。いやいや、誤解しないでもらいたい。無理にでも嫌々渋々にでもどうあっても、というわけじゃない。もし、主に仕えたくないというのならば、川の向こう側の大小様々な神たちでも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のあの神、この神、このイワシの頭でもサンマの尻尾でも何でも仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。あなたがたの自由。さあどうぞ。望むまま、好きなようにしなさい」(ヨシュア24:14-)と。今日、あなたが自分で選びなさい。なぜなら、たとえもし、どの神にも私は仕えないと堅く心に誓っても、選ばないままに放っておいても、知らず知らずのうちに、私たちは仕えさせられているではありませんか。あの神、この神に。この指導者たち、そこらへんのご立派な方々に。イワシの頭のようなサンマの尻尾のような生身の人間たちに。また、自分自身の腹の思いに(ローマ16:18,ピリピ3:19)。知らず知らずのうちに、奴隷のように仕えさせられ、従わせられ、右に左に引き回されているではありませんか。だからこそ、あなたが仕えたいと思うものを今日、あなたが自分で選ぶのです。
 平穏な日々には、『イエスを何者と言うのか』という問いはあまり大きな意味を持たない、と思えるかも知れません。『誰を主とし、誰に聞き従うのか』とわざわざ確かめなくてもよいと思い、その都度その都度、目に見える、目の前にある誰彼のそれらしい声に聞き従えばいいと思えるかも知れません。だって何しろ、目に見えない神は、見えにくく分かりづらかったのですから。語りかけるその御声はあまりにか細く、ささやき声のようで、聞き分けることがとてもとても難しかったのですから。けれどなお『イエスは主である』という信仰によって、『イエスをこそ主とする』という信仰を岩として、キリストの教会は立ってきました(「この岩の上に」と主イエスが仰ったその『岩』とは何かということを巡って、いくつかの理解が並び立ちつづけます。「ペテロが岩だ」と考える人々もいます。確かに、ペテロ(岩という意味)というあだ名を彼に付けたのは主イエスでした。ヨハネ福音書1:42。けれど岩のようにビクともしない確固たる人間などどこにもいません。ペテロも私たちも、むしろ砂粒のような者たちです。誰も彼もが、小さく危うく、あまりに脆い、壊れ物のような存在です。それでもなおイエスを信じる信仰こそが、その砂粒のような人々を岩のように生きる者とします砂粒のようでありつづけながら、なお確固として生きる者たちへとされる。奇妙なことです)。雨が降り出すからです。川があふれ、風が吹き、その家をすさまじい濁流と大きな嵐が襲うからです。しっかりした岩を土台としているのでなければ、その家は倒れてしまうからです。しかもその倒れ方はひどいからです(マタイ7:25-)。すでに警戒警報と住民への避難勧告が出され、まもなく暴風雨圏内に突入しようとしているからです。『イエスは主である』という信仰によって、キリストの教会は立ってきました。1人のクリスチャンも、その生活も、イエスは主であるという眼差しと腹の据え方によって立ってきました。むしろ、こう言いましょう。『イエスは主である』という根源の土台をうっかり見失いかけて、その信仰は幾度も幾度も泥にまみれ、致命的な打撃を受けたのだと。例えば1933年から45年にかけて、ドイツではヒットラーのナチス政権に抵抗して、ルター派と改革派と、そして合同教会は1つの旗印のもとに戦いました。34年の『バルメン宣言』はそのきびしい戦いの道しるべとなりました。宣言の第1項は告げます;「聖書において私たちに証しされているイエス・キリストは、私たちが聞くべき、また私たちが生と死において信頼し、服従すべき、神の唯一のみ言葉である。教会がその宣教の源として、神のこの唯一のみ言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認できるとか、承認しなければならないという誤った教えを、私たちは退ける」と。兄弟姉妹たち。『誤った教え』は、かなり手ごわかったのです。しかも目に見えない神は、見えにくく分かりづらかったのですから。語りかけるその御声はあまりにか細く、ささやき声のようで、聞き分けづらかったのですから。その隙をついて、目に見える目の前にいる父のような顔つきで、母のような声で、やさしい兄や姉のようなそぶりでそれは語りかけてきました。イエスをこそ主とする信仰に堅く立ちつづけることは、至難の業でした。戦時中にドイツの国中を巻き込んだ『誤った教え』と、それへの苛酷な戦いに、戦後の日本のキリストの教会は驚きながらよくよく目を凝らしました。そっくり同じことが、この日本でも起こっていたのですから。父のような母のような声は語りかけました、「神ではないものを神として崇めなさい。神と並べて、あれにも聞き、これにもこれにも耳を傾けなさい。あれにもこれにも聞き従いなさい」と。ヒットラーも天皇も神ではありませんでした。勇敢に戦った兵隊も英雄も聖母マリアもマザーテレサさんも、たとえ死んでも人間は神になどなるはずがなかったのです。人間はどこまで行っても人間にすぎなかったのですから。けれど、それには目をつぶって、神をあがめながら同時に神ではないものを横に並べて、キリストの教会は崇めつづけてしまいました。それでも何の問題も不都合もない、と教えられました。右に左に道を逸れ、また立ち戻り、また道を逸れ、立ち戻り、またいつの間にか逸れていって。それが、キリストの教会の歴史です。
  例えば、『牧師(あるいは長老、役員、大会議長、中会議長など)という人間』に対して、私たちはどう考え、どのように付き合ったらいいでしょうか。それについてのまったく正反対の2種類の判断が、私たちの教会の中にありつづけます。ある人々は、『牧師は教会の責任者であり、ボスだ。お父さんのようなリーダーだ。だから、なにしろこの人の判断に聞き従い、この人の指示に従っていく。この人の思い通りの、望むままの仕方で教会を運営していくことが良いことなのだ』と。別のほんの一握りの、ごく少数の人々は言います。『いや、そうじゃない。その考え方は間違っている。牧師は頭ではなく、ボスでもない。父親のような権威者でもない。キリストに仕えるしもべだ。聖書はそう言っていたじゃないか。私たちは仕えるしもべ同士だったじゃないか。主にこそ従っていくのだ』と。けれどなお多くの者たちは言います、『主など、いったいどこにいる。そんなもの、ただの建前じゃないか。ただのお題目にすぎないじゃないか。目に見えず、その声も聞き分けにくい。だったら、目の前にいるリーダーたちに従って、その人たちの判断に任せていくほうがずっと分かりやすく、簡単じゃないか。私たちは、主に従うことなどできない。あの人この人たちに従い、あの人この彼らに仕えていこう』と。教会では牧師や長老に従い、家に帰ったら夫や父親に従い、親戚たちの間では幅を効かせている叔父さん叔母さんに従い、町内会では班長や世話役に従い、職場では上司や現場主任の言うことを聞いて、国家権力や政府をオカミと崇めたてまつって言いなりに従っていればいい。主なる神に従うことなど、私たちにはできるはずがない』と。ヨシュアは問いかけました。「あなたがたの仕える者を、今日、自分で選びなさい」。彼らは答えました。「主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、われわれは決していたしません」。「いや、あなたがたは主に仕えることはできないであろう」(ヨシュア24:19)。神ではないものたちと多くの支配者・指導者たちが君臨し、思いのままに人を従わせつづける土地に、私たちも住んでいます。数の多いものや賢い者や強い者たちが、「膝を屈め、従いなさい」と私たちに迫ります。心が弱ります。ついうっかりして膝を屈めようとするときに、けれど『イエスは主である』と告白している私には、それはできません。高ぶって、誰かを軽々しく裁こうとするとき、冷たく退けようとするときに、私の主であってくださる方がどんな方だったか、何をなさったのかが、私の前に立ち塞がります。兄弟に対して、また貧しく身を屈めさせられ小さくされた1人の人に向けて、何ごとかをなそうとするとき。何気ない一言を口に出そうとするとき、思いとどまらせるものがあります。見て見ぬふりをし、恐れて口をつぐんでしまおうとするとき、なお私を促すものがあります。「それは、イエスは主であるという言い表しに反しているじゃないか。キリストはその1人の兄弟のためにも死んでくださったのではなかったか」(コリント(1)12:3,ローマ10:9,14:15)と。私たちの家の土台が、私たちに向かって、物を言い始めています。この格別な土台は、黙り込んでいるただの飾り物などではなく、物を言う、私たちに向かって語りかける土台だったのです。踏みしめている私の足もとから、私たちの土台が物を言っています。たしかに、その根源の土台からの声は、ささやくような小さな声でした。うっかり聞き漏らしてしまうほどに、ぼんやりしていると聞き流してしまうほどに、小さなかすかな声です。けれど、いったん耳を傾け始めたならば、その声はどんどんどんどん大きくなり、語りかけ続けます。だから、私たちは耳を傾けましょう。耳のある者は聞くがよい(列王記上19:12,マタイ11:15。「年老いた。衰えて、体も心もすっかり弱り果てた」という私の恐れと嘆きにとっても、イエスこそが主です。「人がどう思うだろう。どんなふうに見られるだろうか」とキョロキョロ見回している私の心細さや臆病さに対しても、イエスこそ主。家の土台が、踏みしめている私の足もとから物を言っています。「子供たちが安心して豊かに生き抜いていけるように、心強い確かなものを、ぜひ手渡してあげたい」という私の切なる願いにとっても、イエスは主であってくださる。「私自身も、誰を恐れることもなく誰に何を恥じることもなく日々の生活を安らかに送りたい」という願いと恐れにとっても、なおさら、そこでこそ、イエスは主である。イエスこそ主である。家の土台が、踏みしめている私の足もとから物を言っている。踏みしめている土台に確かな岩がある。堅くしっかりした岩の上に、私たちの家が立っている。立ちつづけます。
もちろん、波風立つのは当たり前です。周囲の人々に受け入れられる時もあれば、退けられ拒まれるときもある。年老いて衰えてゆくことも、貧しく身を屈めさせられる日々もある。いつか病気になって足腰立たなくなることも、やがて誰でも必ず死んでゆくことさえ、それらは驚くに及びません。よい日も悪い日もある。喜ぶときもある。痛みに耐える日々も来る。人の気持ちや痛みが分かるようでありたいが、あまりに顔色をうかがうようでは困ります。他人の考えやあり方を尊重する私でありたいが、言いなりにされ、引き回され流されつづけるようでは困ります。自己中心で身勝手なのも困るが、臆病に恐れつづけるのも、とても困ります。広々として心安く、確固としてありたいからです。だから、私自身は決めました。がっちりしたビクともしない岩の上に家を立てようと。ぜひとも、なんとしても。イエスは主である。この1つの岩の上にこそ、私は立っていようと。私は、ここに立ちます。立ち続けます。