2017年5月21日日曜日

5/21「苦しみを受ける」マタイ17:9-13

             みことば/2017,5,21(復活節第6主日の礼拝)  112
◎礼拝説教 マタイ福音書 17:9-13                     日本キリスト教会 上田教会
『苦しみを受ける』
 
 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
17:9 一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。10 弟子たちはイエスにお尋ねして言った、「いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。11 答えて言われた、「確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。12 しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」。13 そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。        (マタイ福音書 17:9-13)
                                         


 9節。「 一同が山を下って来るとき、イエスは『人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない』と、彼らに命じられた」。人の子、つまり救い主イエスが死人の中からよみがえるまでは、誰にも話してはならない。今は、どうでしょう? すでに救い主イエスは十字架の上で苦しみを受け、死んでよみがえられ、その復活の姿を多くの弟子たちに見せてくださり、弟子たちが見ている前で天に昇っていかれ、そのときから今に至るまで全世界の王としてずっと生きて働きつづけておられます。ですから、主イエスの弟子とされ、主イエスを信じる者とされた私たちは、もう誰にでも、この最も大切なことを話してよい。これが、今日わたしたちが聞き取るべき最も大切な一点です。誰にでも話してよいばかりではなく、それどころか、『救い主の死と復活』という福音の中身の上に立って、それぞれの生活を建てあげてきた私たちです。思い起こしつづけ、自分自身にも言い聞かせつづけて。聖書は証言しています。伝えられた福音。信じ、受け入れてきた福音の中身について。「あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れ、多くの者たちにキリストがその復活の姿を現してくださったこと」(コリント手紙(1)15:1-5と。
  10節。「救い主ご自身よりも先に、まずエリヤが来る」と律法学者らは言っていた。なぜなのか、と主イエスの弟子たちは質問します。よい質問です。律法学者らがそう言っていたのは、聖書自身がそう語ったからです;「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」(マラキ書4:5-6。父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。ここでは、ごく普通の一般的な親子関係のことが語られているのではなく、神の民とされた私たち(=その子供たち)と、神ご自身(=父)との関係のことです。神と私たちとが互いに心を向け合い、心を通わせ合うこと。しかも、洗礼者ヨハネこそがそのエリヤである、エリヤの役割を担う者であると主イエスご自身がはっきりと証言しています(マタイ11:14。子供のように慈しみ育てられてきた神の民イスラエルは神に背きつづけ、逆らい、離れ去った。ふたたび神の民が神のもとへと立ち戻るためには、預言者エリヤが間に入って、両者の仲を取り持たねばならない。遠い昔、別の預言者はやがて来られる救い主について預言しました。「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである』」(イザヤ書40:3-5。その預言を受けて、洗礼者ヨハネは、救い主がこの世界に現れる直前に、預言者エリヤがしようとしていたように、救い主を迎え入れるための道を人々に備えさせます、「悔い改めよ、天国は近づいた」と。洗礼者ヨハネこそが、「主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ」と呼ばわる『荒野の声』だったのです。すでにとっくの昔に神の民とされ、主を信じる生活を積み重ねていたはずの人々は、自分自身をつくづくと振り返ってみて心を痛めました。信じていると言いながらちっとも信じていないじゃないか、この私は。形ばかり、ただただ口先だけの信仰じゃないか。これではとうてい救い主を迎え入れることもできない。神を信じて生きることを今日から本気でしはじめよう、この私こそがと。すでに神の民とされていたはずの、信じているつもりになっていた人々が、改めて、我も我もとヨハネのもとに来て、神を信じて生きるための入門の儀式を受けはじめました。それが洗礼のはじまりです。洗礼者ヨハネは呼ばわりました、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている」(マタイ福音書 3:2-12と。洗礼者ヨハネこそが、救い主イエスを迎え入れる道備えのために再び遣わされた預言者エリヤだったのです。エリヤの役割を引き継いで、道備えを成し遂げる者です。11-12節。弟子たちの質問を受けて、主イエスが答えます。エリヤはふたたび来た。それが洗礼者ヨハネだった。しかし人々は、他の預言者たち同様に彼をも認めず、自分勝手に彼をあしらった。人の子、つまり救い主イエスもまた人々から自分勝手にあしらわれ、苦しみを受け、殺されるだろうと。13節、「そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った」。たしかにそうです。けれど二度目に来たエリヤである洗礼者ヨハネを、人々は認めず、自分勝手に彼をあしらった。そして、首をはねて殺してしまった(マタイ14:1-12参照)。しかも救い主イエスをさえ、人々は同じように退け、認めず、いいようにあしらい、やがて十字架のうえで苦しめて殺してしまいます。すると、それならば、どういうことになるでしょうか?

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 律法学者らが「救い主ご自身が来る前に、まず先に預言者エリヤが来ると聖書は証言していた」と言い立てていた理由は、目の前にいるそのイエスというお方を救い主と認めたくなかったからです。「先に来るはずのエリヤの姿がどこにも見えないじゃないか。するとつまり、お前は救い主じゃない。偽物だ」と言い張りたかったのです。だから、救い主に先立って来て道備えをするはずのエリヤの役割を担って洗礼者ヨハネが来て、十分に働いても、「悔い改めよ、天国は近づいた。まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ」と呼ばわっても、聞く耳をもたず、見る目を持ちませんでした。律法学者やパリサイ人たちのことはほどほどのことです。むしろ、いつも大問題であるのは、この私たち自身のことです。
 私たち自身と家族がはたして罪と滅びから救われるのかどうか。救われるためには、この私たちはどうしたらいいのか。11節で、「エリヤが来て万事を元どおりに改める」と語られながら、けれど洗礼者ヨハネは認められず、好き勝手にあしらわれて殺されました。救い主イエスご自身も同じように、十字架の上で無残な死を遂げました。何一つも成し遂げられなかったかのように見えます。世の人々の10人中10人がそう言うでしょう。そのとおり。これは主イエスを信じる信仰の目と心によってしか理解することも受け止めることもできない霊的な真実であるからです。救い主キリストを知る知識の香りは、ある人々にとっては『いのちからいのちに至らせる香り』であり、別の大勢の人々にとっては、まるで正反対に、『死から死へと至らせる香り』にすぎない(コリント手紙(2)2:15-16。それでもなにしろ洗礼者ヨハネと伝道者たちは、この私たちを救い主イエスの手に委ねていったのです。このお独りの方を私たちも信じることができるかも知れない。あるいは、できないかも知れない。すでに主イエスは、ご自身の死と復活を弟子たちに告げ知らせはじめています。先々週、1621節以下。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません。あっては困ります、不都合ですから止めてください」と弟子のペテロが立ちはだかったとき、主イエスは仰いました、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」。「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。なんと容赦のない、なんと厳しい叱責でしょう。サタン、引き下がれ。「引き下がれ」は、元々の言葉では『後ろへ回れ』と言っています。つまり、サタンが主の前に立っていたのです。主の御心、主のご意思よりも、自分の考え、自分の思いや計画ややり方を、自分だけの道理と理屈をどこまでも先立ててゆこうとするとき、私たちはサタンの誘惑にさらされています。サタンのとりこにされ、連れ去られようとしています。主の弟子の第一の務めは、『主の後から付いてゆくこと。主に従って、その後から行くこと』だったのです。先に立って、「こっちです。こっち、こっち。何をグズグズしているんですか」と思い通りの道筋へと導こうとするならば、私が主、私の思いとやり方こそが第一とするならば、もう、あなたは主の弟子ではありません。救い主イエスとはなんの関係もない者たちであり、主のものですらないでしょう。気がつくとあなたも私も、神をそっちのけにして、自分や周囲の人間たちのことばかり思い煩っています。
 主は、ご自分に従っていく私たちに、このように指図をなさいます。何度でも何度でも聴きましょう、1624-26節。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」。もちろん主は私たちに、喜びや楽しみをすっかり捨て去れなどと命じるのではありません。意味なく、ただやたらに苦痛や困難を求めよなどと乱暴な要求を突きつけるのでありません。けれど、鎮まって考えてみるならば、たしかに捨て去るべき『自分』があり、背負うべき『自分の十字架』があります。不思議な言い方がされています。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(25)。主イエスを信じて生きはじめた主の弟子たちよ。実は、「自分の命」だと思い込まされていたものは、命でもなんでもなく、そのほとんどは、かえって自分自身を困らせる重荷となり、むしろ、私たちを死と滅びへと至らせようとする偽りの喜びと楽しみでした。だからこそ、救い主イエスの福音を初めて聞いた者たちは、腰を抜かさんばかりに、とても驚いたのです。だからこそ救い主キリストを知る知識の香りは、ある人々にとっては『いのちからいのちに至らせる香り』であり、別の大勢の人々にとっては『死から死へと至らせる香り』にすぎなかった。このお独りの方を私たちも信じることができるかも知れない。あるいは、できないかも知れない。すでに主イエスは、ご自身の死と復活を弟子たちに告げ知らせています。とても苦い薬であったので、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません。あっては困ります、不都合ですから止めてください」と弟子のペテロも私たちもその福音の約束を退けたくなります。だからこそ主イエスは仰います、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。朝から晩まで、四六時中、ただただ自分自身と人間のことばかり思い煩いつづけて、神を思わず、神からの救いの約束を思う暇もない。もしあなたが私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」。ほんの少し前までは、私たちは皆、死と滅びに至る罪の奴隷でした。「自分の命。自分の命」とそそのかされて、ただただ虚しいだけの見せかけの希望にしがみついていました。けれど、ついにとうとう、その虚しい希望をポイと投げ捨てました。神からの生命を差し出すお方と出会い、その生命を受け取り、神さまの御前で、神に向かって新しく生きることをしはじめたからです。罪と肉の思いの奴隷にする悪い主人をポイと投げ捨てて、新しい主人に仕えはじめました。そう 新しい、ただお独りの主人に。救い主イエスに。