2017年5月8日月曜日

5/7「神を思うことができない病気」マタイ16:21-26

                みことば/2017,5,7(復活節第4主日の礼拝)  110
◎礼拝説教 マタイ福音書 16:21-26                      日本キリスト教会 上田教会
『神を思うことができない病気』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
16:21 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。26 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。                           (マタイ福音書 16:21-26)
                                               
6:10 最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。12 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。13 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。      (エペソ手紙 6:10-13)
  


  目に見えて、頭で理解できることは分かりやすい。そうでないものは分かりにくい。「だから目に見えて理解できるものばかりが現実だ、そうでないものは絵空事だ」と私たちは思い込みます。『サタン悪魔』は、実在します。たとえ目に見えなくても、私たちのちっぽけな頭では理解できなくてもです。悪魔の働きを見くびり、軽んじる者は、多分それだけではなく、神さまの存在と働きに対しても同じく見くびり、話半分に聞き流し、同じく軽んじるでしょう。「そんなものは存在しない。あるとしたら、心の中の片隅にだけあるのだろう。あるような気がするだけだろう」と。けれど聖書は証言し、また警告します。悪魔は私たちを食い尽くそうと探し回っており、だからこそ、身を慎んで目を覚ましていなさいと。神に敵対する勢力が現にあり、私たちを神に背かせ、「神などいない」と思わせようとする誘惑があります。踏みとどまって抵抗するのです(エペソ4:11-)
  主イエスは、弟子たちに打ち明けます。「自分が必ずエルサレムに行き、多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえる。必ず、そうなる」(21節を参照)と。今日のこの箇所全体の中で最も大切な言葉は、この「必ず~するべきこと」です。奇妙な言い方です。この世の中に、あらかじめ『必ず~することになっている』ことなどあるでしょうか。ありません。天気予報も株価変動の予測も、だいたいのことです。テレビや雑誌の運勢の星占いも、だいたいのことです。そうなることもあれば、ならないこともある。不確かで、先の見えない私たちの日々ではありませんか。来年のことを言えば鬼が笑う。来年どころか、半年後、半月後の私が果たしてどうなっているのか。明日の我が身さえ、何一つ確実に言えることなどありません。若い恋人同士の永遠の愛の熱烈な誓いも、もしかしたら数年か数ヶ月のうちに色褪せてしまうかも知れません。「たとえ皆がつまずくとしても、私だけはあなたに従います」と主の弟子ペテロは言い張りました。その真情あふれる忠誠の約束がほんの数時間で崩れ落ちてしまったように(マタイ26:33,69-。けれど、21節の「必ず~なるべきこと」これだけは違います。「必ず~することになっている」とは、『神が、~と決めておられる』という言葉です。神が決断し、断固として決め、その出来事をご自身で持ち運ぶ。だからこそ『必ず~することになっている』。主イエスは弟子たちに、ご自分が進んでいく道筋を繰り返し、はっきりと語られます(マタイ16:21-,22-,20:17-)。それは、十字架の死と復活の道筋です。また、ただそれを通してだけ与えられる救いと平和。けれど、ペテロと弟子たちには、また私たちには、受け入れがたい。この直前、先週の13-20節では主イエスに対して「あなたは救い主です」と信仰を言い表したはずのペテロが、ここで主イエスの言葉を拒み、主ご自身を退けています。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」(22)。「あなたは確かに私たちを救ってくださる。けれど、そういうやり方ではない。それでは私にとっては不都合だし、とても迷惑で困る」とペテロは言いたい。力ある王であってほしい。誇り高く、偉大で素敵な勝利者であってほしい。その王の輝くばかりの栄光と豊かさの分け前に預かりたい。それが、その時、ペテロたちの望んでいた救いでした。では、この私たち自身はどんな救い主を望むでしょう。何を期待して、私たちは主を信じているのでしょうか。
  23節。イエスは振り向いてペテロに言われました。「サタンよ、引き下がれ。私の邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。なんと容赦のない、なんと厳しい叱責でしょう。サタンよ、引き下がれ。「引き下がれ」は、元々の言葉では「後ろへ回れ」と言っています。つまり、サタンが主の前に立っている。主の御心、主のご意思よりも、自分の考え、自分の思いや計画ややり方を先立ててゆくとき、私たちはサタンの誘惑にさらされています。サタンのとりこにされ、死と滅びの只中へと今にも連れ去られようとしています。主の弟子の第一の務めは、『主の後から付いてゆくこと。主に従って、その後から行くこと』です。先に立って、「こっちです。こっち、こっち。何をグズグズしているんですか」と、もし自分自身の思い通りの道筋へと導こうとするならば、私が主、私の思いとやり方こそが第一とするならば、もう、あなたは主の弟子ではありません。主のものですらないでしょう。
 主イエスは、一人の弟子を叱りながら、弟子たち皆を見据えつづけています。ペテロだけのことではありません。ペテロはしばしば弟子たちのリーダー格として皆を代表して語り、行動します。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」;それは、弟子たち皆の思いでした。振り返る主の目に、ペテロと同じ思いを抱く弟子たちと私たち一人一人の顔が見据えられます。「サタンよ、引き下がれ。邪魔をするのを止めて、私の後ろへ回れ。神のことを思わず、自分自身と人間のことばかり朝も昼も晩も思い募り、思い煩っている。それは、あなたのことだ」と。まったくそうです。その通りです。気がつくと僕も、神のことではなく自分自身と人間のことばかり思い煩っている。『人間のこと』とは何でしょう。目を凝らしましょう。――ある人にとって、それは自分の体面、体裁。ある人にとって、それは自分の願い、自分の計画、自分の強い欲求。また自分が受けた恥、うらみ、胸の内にくすぶりつづける怒り。では、この私自身にとっては? 私の思いを神から遠ざけ、神を阻み、暗く狭い場所に私を閉じ込めているものは何でしょうか。この私という一個の人間は、いったい何を心の中に抱えているのか。自分自身と周囲の人間たちのことばかり思い煩い、グズグズと思い悩み、そのあまりに神のことをほんのわずかも思えなくなっている私ではないか。気がつくと、あの弟子のように私も主の前に回り込み、主に先立って行こうとし、主を後回しにし、脇へ脇へと押しやっている。「私のうちに芽生えるサタンよ、引き下がれ。後ろへ回れ。私自身よ、引き下がれ。私こそ、主の後ろへ回れ」。神へと思いを向けさせず、人間にばかり心を留め、くすぶらせ続けるなら、この私こそが「サタンよ」と叱られるだろう。この私自身よ、さっさと退け。後ろへ回れ。 
  主は、ご自分に従っていく私たちに、このように指図をなさいます。24-26節。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」。もちろん主は私たちに、喜びや楽しみをすっかり捨て去れなどと命じるのではありません。意味なく、ただやたらに苦痛や困難を求めよなどと乱暴な要求を突きつけるのでありません。けれど、鎮まって考えてみるならば、たしかに捨て去るべき『自分』があり、背負うべき『自分の十字架』があります。不思議な言い方がされています。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(25)。目に見えるすべてのものは、やがて直ちに過ぎ去っていきます。財産も地位も名誉も、人からすばらしいと誉められることも、過ぎ去っていきます。若さも健康も生命さえ、やがて失われるときが来ます。必死にしがみついているその大事なかけがえのないものが一つ、また一つと過ぎ去っていくときに、あなたは一体どうするのでしょう。聖書は勧めました。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日が来たり、年が寄って、『私には何の楽しみもない』と言うようにならない前に、また日や光や、月やほしがの暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ」(伝道の書12:1)。もちろん、造り主を覚え、心に刻んだからといって、大雨と嵐の夜が来ないわけではありません。覚えたからといって、だから年が寄らないわけではありません。私たちを悩ませるものたちが押し寄せる夜の日々に、それらが私たちの目も心も奪おうとするときに、けれど造り主を覚えた者たちは、少し違うふうに大雨と嵐に立ち向かうからです。「あなたの若いうちに」とは、間に合ううちにという意味です。多分、まだ間に合います。私たちにとっても、私たちが心に掛けている大切な人々にとっても。まだ間に合います。造り主を覚え、心に深々と刻んで、備えをすることができます。なぜなら私たちは、見えないものに目を注ぐからです。目に見えるものによらず、そうではない仕方で歩んでいるからです。過ぎ去らず、決して朽ちないものの只中に身を置いて、そこに足を踏みしめて、私たちは立っているからです(コリント手紙(2)4:18-)
  「安らかであれ、私の心よ」と讃美歌298(賛美歌21532番)は歌いました。「安らかであれ、安らかであれ、安らかであれ」と繰り返し、噛んで含めるように自分自身の心に言い聞かせています。痛みにも苦しみの只中にあっても。波風が荒々しく打ち寄せる嵐の夜にも。月日が移ろっていき、不自由さと物淋しさに悩まされ、年老いてすっかり衰えたとつくづく思い知らされる日々にも、なお私の心よ、安らかであれ。どうしたら安らかでいられるでしょう。何がどうであれば、私たちは満たされ、平安であることができるでしょうか。「もっと慰めの言葉を聞きたい」と言われつづけます。「もっと人を活かす言葉を」と。奇妙なことです。キリスト教会と伝道者たちはそうした要望に応えようと慰めと癒しの言葉を何十年も何百年も語り、けれどその言葉は虚しくこぼれ落ちつづけてきたのかも。いいえ神ご自身こそが私たち人間を癒し、人間とすべての生き物を活かそうとしてきたのではなかったでしょうか。聖書をとおし、また主の働き人たちを用いて、慰めと癒しの言葉を神ご自身が語りつづけてきたはずではありませんか。それなのに、どうしたことか。立ち止まって真に問うべきだったのは、どんな慰めなのか。どこから出てきた癒しなのか。人間とすべての生き物を救いと祝福へと招き入れようとする神ご自身からの慰めと救いなのか。神ご自身からのいのちと平安なのか。あるいは、別のところから出てきた、別の慰めと救いなのか。神ご自身も私たちも慰めや癒しを心から願いつづけているとして、けれどわたしたちが思い描き、願い求めている「慰め」や「癒し」は、どこへと向かわせる慰めなのか。偽りの預言者たちがかつても今も、神を忘れさせようとして、神から離れ去らせようとして虚しい慰めをささやきつづけているからです。だからこそ主の働き人たちは「主のもとへと立ち帰れ」と呼ばわりつづけ、「悔い改めて、福音を信ぜよ」と告げつづけてきました。心を鎮めて、よくよく見定めねばなりません。
そういえば、キリスト教の根本的な希望と慰めを告げるローマ手紙6章は、「もし、わたしたちが死んだのなら、~生きることになる。もし、わたしたちがキリストと共に死んだのなら、また彼と共に生きる」とクドクドと語りかけます。つまり、「もし、死ななかったのならば、~生きることには決してならない」と。洗礼を受けてクリスチャンとされ、2ヶ月たち3ヶ月たち、3040年たって、けれどいっこうに新しい生命が始まる気配もない。どうしたわけか。もしかしたらずっと何十年も、古い罪の自分と死に別れ損なっているのかもしれません、この私たちこそが。死と滅びへと至る罪の奴隷状態のまま、罪と肉の思いにがんじがらめに閉じ込められつづけているのかもしれません、この私こそが。聖書自身が告げるところの『救い』の中身は、罪のゆるしです。罪あるままにいいよいいよと放置することではなく、罪深さにふかく囚われたまま平安平安と気安めを告げるのでもなく、罪の奴隷状態からの解放でありつづけます。罪から解放された者が神への従順に、具体的に現実的に新しく生きはじめることです。キリストが確かに十字架につけられ、死んで復活なさったからには、このわたしたち自身の内にある古い罪の自分もまたキリストと共に十字架につけられ、滅ぼされ、そのようにして新しいいのちに生きる。それ抜きにして、どんな慰めや救いがありうるでしょう。癒しを必要とする私たちですが、それは私たちがはなはだしく病んでいるからです。死と滅びに至る重い病いに。すると他のどの医者でもなく、格別に良い医者である神ご自身へと、私たち自身こそが大慌てで本気になって立ち戻らねばなりません。喜びと感謝にあふれて、晴れ晴れと生きるためには。主イエスは仰いました、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ福音書2:17