2021年9月6日月曜日

9/5「良いしもべと悪いしもべ」ルカ19:11-27

           みことば/2021,9,5(主日礼拝)  335

◎礼拝説教 ルカ福音書 19:11-27        日本キリスト教会 上田教会

『良いしもべと悪いしもべ』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

19:11 人々がこれらの言葉を聞いているときに、イエスはなお一つの譬をお話しになった。それはエルサレムに近づいてこられたし、また人々が神の国はたちまち現れると思っていたためである。12 それで言われた、「ある身分の高い人が、王位を受けて帰ってくるために遠い所へ旅立つことになった。13 そこで十人の僕を呼び十ミナを渡して言った、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』。14 ところが、本国の住民は彼を憎んでいたので、あとから使者をおくって、『この人が王になるのをわれわれは望んでいない』と言わせた。15 さて、彼が王位を受けて帰ってきたとき、だれがどんなもうけをしたかを知ろうとして、金を渡しておいた僕たちを呼んでこさせた。16 最初の者が進み出て言った、『ご主人様、あなたの一ミナで十ミナをもうけました』。17 主人は言った、『よい僕よ、うまくやった。あなたは小さい事に忠実であったから、十の町を支配させる』。18 次の者がきて言った、『ご主人様、あなたの一ミナで五ミナをつくりました』。19 そこでこの者にも、『では、あなたは五つの町のかしらになれ』と言った。20 それから、もうひとりの者がきて言った、『ご主人様、さあ、ここにあなたの一ミナがあります。わたしはそれをふくさに包んで、しまっておきました。21 あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかったのです』。22 彼に言った、『悪い僕よ、わたしはあなたの言ったその言葉であなたをさばこう。わたしがきびしくて、あずけなかったものを取りたて、まかなかったものを刈る人間だと、知っているのか。23 では、なぜわたしの金を銀行に入れなかったのか。そうすれば、わたしが帰ってきたとき、その金を利子と一緒に引き出したであろうに』。24 そして、そばに立っていた人々に、『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナを持っている者に与えなさい』と言った。25 彼らは言った、『ご主人様、あの人は既に十ミナを持っています』。26 『あなたがたに言うが、おおよそ持っている人には、なお与えられ、持っていない人からは、持っているものまでも取り上げられるであろう。27 しかしわたしが王になることを好まなかったあの敵どもを、ここにひっぱってきて、わたしの前で打ち殺せ』」。  

*20節「ふくさ」;上等で小さめの風呂敷    (ルカ福音書 19:11-27

 まず11節、「人々がこれらの言葉を聞いているときに、イエスはなお一つの譬をお話しになった。それはエルサレムに近づいてこられたし、また人々が神の国はたちまち現れると思っていたためである」。このたとえ話を語らねばならなかった理由と目的が最初にはっきりと告げられました。①「エルサレムに近づいている」ことと、②「人々が神の国はたちまち現れると思っていたため」であると。救い主イエスが地上に降りて来られた目的と使命が間近に迫っている。つまり、十字架の死と復活の御業とこのたとえ話が深い関りがあるということ。また、『神の国』について、弟子たちも含めて、人々が抱いている誤解を解いて、はっきりと教えておきたいと願ったからです。

12-19節、「それで言われた、「ある身分の高い人が、王位を受けて帰ってくるために遠い所へ旅立つことになった。そこで十人の僕を呼び十ミナを渡して言った、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』。ところが、本国の住民は彼を憎んでいたので、あとから使者をおくって、『この人が王になるのをわれわれは望んでいない』と言わせた。さて、彼が王位を受けて帰ってきたとき、だれがどんなもうけをしたかを知ろうとして、金を渡しておいた僕たちを呼んでこさせた。最初の者が進み出て言った、『ご主人様、あなたの一ミナで十ミナをもうけました』。主人は言った、『よい僕よ、うまくやった。あなたは小さい事に忠実であったから、十の町を支配させる』。次の者がきて言った、『ご主人様、あなたの一ミナで五ミナをつくりました』。そこでこの者にも、『では、あなたは五つの町のかしらになれ』と言った」。救い主イエスはご自分がどういうお方で、これから何を成し遂げようとしておられるのかを、彼らと私たちに知らせようとしています。「ある身分の高い人」とは、救い主イエスご自身のことです。つまり救い主イエスは、ご自身が「遠い所へ旅立ち、やがて王とされ、彼自身の王国を受け取って、この世界へふたたび戻って来られる」。はっきりと話します。「救い主イエスは、復活し、天に昇っていかれ、御父の右の座に座り」と使徒信条で証言されていますが、その「御父の右の席」とは、助言者や補佐官の席などではなく、「王様の席」です。「彼自身の王国を受け取って、戻ってくる」と。つまりその王国は父の国であり、救い主イエスの王国でもあるということです。だからこそ聖書は、「すべての事は父からわたしに任せられています」「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに」「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡される。それまでは(神の国の)支配を続ける」(マタイ11:27,28:18,1コリント手紙15:24-25とはっきり証言しています。14節で、不吉で忌まわしいことが報告されています。「ところが、本国の住民は彼を憎んでいたので、あとから使者をおくって、『この人が王になるのをわれわれは望んでいない』と言わせた」。この世界には、救い主を憎み、『この人が王になるのをわれわれは望んでいない』多くの人々がいつづけるということです。キリスト教会と私たちクリスチャンの中にも、彼を憎み、軽んじて退けようとする悪い心・罪の思いが残りつづけます。『キリストが王であることを望まない』。それは、自分自身が王様であろうとする傲慢であり、自己中心の思いです。だからこそ救い主イエスは、「誰でも、わたしに付いてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい」(ルカ9:23とお命じになったのです。キリストを王として迎え入れるためには、自分自身はその王に仕えるしもべとならなければなりません。自分自身の肉の欲望とかたくなさと傲慢とを退けつづけてです。

さて、主イエスを信じて生きる私たち弟子たちには、ふたたび主が戻って来られるまで果たしつづけるべき使命と役割を授けていかれました。ここが、今日の箇所の最重要ポイントです。救い主イエスはご自身を信じる弟子たちに、つまり、すべてのクリスチャン全員に、分け隔てなく公平に全員一律に、「1ミナ」ずつ貸し与えました。1ミナは100デナリ、つまり100日分の労働賃金です。『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と指図を与えて。これが、クリスチャンの使命であり、主人から与えられた役割です。主人である救い主イエスから貸し与えられ、あるいは贈り与えられている『良いもの、財産、富』とは何でしょうか。第一の根本の意味としては、私たちが生きてゆくために必要なすべて一切、『日毎の糧』です。霊的なものも、物質的なものも、すべて一切。そこには、もちろん神さまからの愛、ゆるし、平和も含まれます。少し前に、民数記の説き明かしで、このことに関わって、「救い主イエスに導かれ、クリスチャンはみな王、祭司、預言者という三つの務めを担って働くからです。『神のものである供え物の一部をあなたに与える』と告げられました。これが『神から与えられる日毎の糧』であり、全収入であり、衣食住、生活費、一日ずつの健康、命、家族、居場所など必要なすべて一切を神から感謝して受け取ります。牧師の謝儀も、それぞれの家の収入も年金も子供たちの月々の小遣いもみな同じ。神からのその分け前を、『給料。給料』などと神を侮ってはなりません」(家庭礼拝歴「民数記18:8-19」)と説き明かしました。

10人の弟子(=すべてのクリスチャン)たちに、一律に、それぞれ100日分の労働賃金に当たる活動資金を預けました。十分な額です。もちろんその10人全員に会計報告を求めたはずです。その一例として、3人がその資金をそれぞれどう用いて、どういう結果になったかが紹介されています。1ミナを使って10ミナを儲けた者、1ミナを使って5ミナを儲けた者。そして1ミナをまったく使わずに上等な小型の風呂敷に包んで引き出しの奥深くにでもしまっておいて、厳しく叱られた者と。1ミナをまったく使わずに、ただしまっておいたしもべは1人しかいなかったのか、2~3人いたのかは分かりません。が、「活動資金を使いなさい」と命令されたのに使わなかったしもべはみな、同じく厳しく叱られたでしょう。実は、その1ミナは王となられる私たちのただお独りの主人から、願いと期待と、そのしもべたちを愛して止まない憐みの熱情をこめて差し出されたものでした。ですから大人も子供も年配の方々も皆、全員一律に1ミナずつだったのであり、その1ミナを使いさえすれば、もうけた額の違いは多少はあるにしても、使ったしもべ全員が誰一人も損害をこうむることなく必ず儲けて、よりいっそう豊かになったはずでした。その主人から指し出された富を用いて、それで損をしたり、減らしたり、すっかり無くしてしまうことなど有り得ませんでした。なぜなら、主のしもべであるしるしは、富を分け与えられているばかりでなく、「主イエスが共にいてくださり、必ず助け、支え、その人自身を持ち運びつづける」(創世28:15,3:12,申命記31:8,イザヤ41:10,マタイ1:23,使徒10:38ことであるからです。神から贈り与えられた愛、平和、ゆるしもまた同様です。2人ずつ組にして弟子たちが町々村々に遣わされたとき、「この家に平安があるように」と祈り求めるようにと指図されました。もし仮に、その家に平和の子が独りもいなくても、なんの不都合もありませんでした。「その場合には、願い求めたあなたのところにその平和が戻ってくる」と保障されたからです。また、「多く愛された者はますます多く愛することができ、多くゆるされた者は多くゆるすことができるし、そのようになる。少ししか愛されなかった者は少ししか愛せず、すこししかゆるすことができない」と約束されています。だからこそ、憐み深い神から咎められたり、叱られることがほとんどない私たちですが、ただ一つだけ厳しく釘を刺されています、「あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。人に憐みをかけない者には、憐みのない裁きが下されます」(ルカ7:42-,10:6,ヤコブ2:12(口語訳,新共同訳))。惜しみなく、徹底して、深く憐れんでいただいた私たちだからです。

20-23節、「それから、もうひとりの者がきて言った、『ご主人様、さあ、ここにあなたの一ミナがあります。わたしはそれをふくさ(=上等な小型の風呂敷)に包んで、しまっておきました。あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかったのです』。彼に言った、『悪い僕よ、わたしはあなたの言ったその言葉であなたをさばこう。わたしがきびしくて、あずけなかったものを取りたて、まかなかったものを刈る人間だと、知っているのか。では、なぜわたしの金を銀行に入れなかったのか。そうすれば、わたしが帰ってきたとき、その金を利子と一緒に引き出したであろうに』。この悪いしもべは、むしろ、とても可哀そうです。どんな主人なのかを少しも知らかなったからです。かえって主人についての根も葉もない、デタラメな悪い評判を知らされて、それをよく確かめもしないで真に受けて、鵜呑みにしてしまったからです。「あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかった」。かわいそうに。だれが、そんなでたらめを彼らの耳に吹き込んだのか。

24-27節「そして、そばに立っていた人々に、『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナを持っている者に与えなさい』と言った。彼らは言った、『ご主人様、あの人は既に十ミナを持っています』。『あなたがたに言うが、おおよそ持っている人には、なお与えられ、持っていない人からは、持っているものまでも取り上げられるであろう。しかしわたしが王になることを好まなかったあの敵どもを、ここにひっぱってきて、わたしの前で打ち殺せ』」。救い主イエスが王になることを好まなかったあの敵ども。それは、どこの誰なのか。かつての私たちです。また今でもなおしばしば、神を憎み、軽んじ、神に敵対する心が私たちの中で芽生え、育っていきます。お聞きください。神に敵対さえする不信仰で罪深いその私たちは、けれど、たとえ話の筋書きとは違って、殺されなかったし、追い払われもしなかった。むしろ正反対に、そのとても悪い私たちを滅びから救い出してくださるために、ぜひそうしたいと、救い主は自分のいのちをささげてくださいました。なんということでしょう。聖書ははっきりと証言します、「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。……しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである」(ロ―マ手紙5:6-