2021年9月1日水曜日

8/29「失われた者を探し出して救う神」ルカ19:1-10

             みことば/2021,8,29(主日礼拝)  334

◎礼拝説教 ルカ福音書 19:1-10              日本キリスト教会 上田教会

『失われた者を

探し出して救う神』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

19:1 さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。2 ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。3 彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。4 それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。5 イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。6 そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。7 人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。8 ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。9 イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。10 人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。                  ルカ福音書 19:1-10

                                               

34:11 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。12 牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。……15 わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。16 わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。                        (エゼキエル書 34:11-16)

1-4節、「さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである」。主イエスと弟子たちの一行を待ち構えているこのザアカイという男は、取税人の頭であり金持ちでした。この当時、この社会の中には、『取税人』と名付けられた一種独特な立場と境遇の人々がいました。今日の国税局や税務署職員などとはだいぶん違います。そもそも、この国はヨソの国に侵略され植民地にされていました。税金を侵略者であるローマ帝国に納めて言いなりにされる。人々は、自分たちのためではなく、ヨソの国の人々のための税金を嫌々渋々と納めつづけ、だからなおさら、その税金を取り立てる取税人を「罪人」と言って軽蔑し、「税金に不当に上乗せして取り立てて、汚い金を儲けている」などと非難し、憎みました。実際にそのように不当に儲けている者たちもいたかも知れませんが、けれど彼らの憎しみの大部分は八つ当たりです。本当は、侵略者たちに対して腹を立てていたのですし、その支配者の言いなりにされ、踏みつけにされている自分自身のあり方を軽蔑し、憎みたかった。面と向かって「それは嫌だ。間違っている」と言いたいのに言えない彼らは、その代りに、支配者の手先にされている取税人を軽蔑し、憎みました。ですから当時の取徴税人は、他の人たちから軽んじられ蔑まれ、片隅に退けられていた人々の代表格でした。ところが、その軽蔑されている取税人の中から、すでにレビという名前の1人の人が主イエスの弟子とされていました(ルカ5:27-)。主の弟子として迎え入れられたとき、そのレビは他の取税人仲間や友人たちを食事に招いて、彼らと主イエスを引き合わせました。この方に従って生きることの格別な幸いを、自分の仲間や友人たちにも告げ知らせ、できることなら分け与えてあげたかったからです。主イエスはその後も取税人たちとの親しい付き合いを続け、度々一緒に愉快に飲み食いもし、それは多くの人々が知るところとなりました(15:1-2を参照)。それが、ここまでのおよその経緯です。   

「ザアカイは取税人のかしらで、金持だった。彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので群衆にさえぎられて見ることができなかった。それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った」と説明されています。なぜ、わざわざ木に登ってまで、イエスという方を見てみたいと思ったのか。単なる好奇心でしょうか。そうかも知れません。けれど、主イエスが取税人の1人を自分の弟子とし、また他の取税人たちとも親しく付き合っていたことも耳にしていました。主イエスに従う人々の中には、取税人のほかにも例えば片田舎の貧しい漁師たちがおり、無学な普通の人たちがおり、軽んじられ卑しめられてきた無数の人々がありました。重い皮膚病を患う人々にも救いの手を差し伸べ、外国人とも分け隔てなく語り合い、赤ちゃんや小さな子供たちさえ拒まれませんでした。「それなら、もしかしたら、こんな自分にさえも希望の扉が開かれているかも知れない」とザアカイは、ほんの少しは期待したかも知れません。それは、大いにありえます。

5-6節、「イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、『ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから』。そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた」。主イエスはその場所まで来ると、立ち止まり、上を見上げて言われました。「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。この「あなたの家に泊まることにしているから」という言い方は、とても奇妙な不思議な言葉です。主イエスとザアカイは、もちろん初対面で、いま初めて顔を合わして、言葉を交わしています。あらかじめ宿泊の約束をしていたわけでもありません。主イエスがおっしゃった元々の言葉では、「~泊ることになっている。泊まらなければならない」という意味です。つまり、『父なる神がそう決めておられるので、だから泊まらなければならない。神ご自身の決断のもとに、必ず泊まることに決まっている』という意味です。だからこそザアカイは急いで降りてきて、主イエスを迎え入れ、喜びにあふれました。

 罪人をあわれむ神である、とキリストの教会では何度も何度も語られてきました。耳にタコができるほどです。この2000年もの間、キリストの教会の伝道者たちは繰り返し語ってきました。前任の牧師もそうです。私も生涯語りつづけます。やがて私の後から来る牧師も、その次の牧師もそのまた次の牧師も、「罪人をあわれむ神である」と毎週毎週語り続けるでしょう。「聞き飽きた。そんなことは、もうよく分かっている」と言いたくなるほどにです。それでもなお今日も同じくまったく語らざるをえません。罪深い、恵みを受けるにふさわしくない、値しない惨めな者たちに対して、神のあわれみは注がれる。まったく自由に注がれつづけて決して止むことはないと。このザアカイの出来事は、それを、はっきりと告げます。「立ち止まってください」と求められたわけでもないのに、主イエスは立ち止まりました。「ぜひ語りかけてください」とは求められなかったのに、なにしろ主イエスは彼に語りかけます。「私の家に泊まってください」とも願い求められなかったのに、主イエスは、神ご自身はすでに決めておられました。この小さな男を神の国へと迎え入れることを。あわれみによって神の子たちの1人とすることを。それらすべては、ただ神のあわれみによったのです。

ザアカイばかりではありません。何かをしたからというのではなく、何かに値するからではなく、ふさわしかったからでもなく、誰もが、ただ恵みによって探し求められ、ただ恵みによって救われました。そうでなかった者など、誰一人もおりません。

7-8節、「人々はみな、これを見てつぶやき、『彼は罪人の家にはいって客となった』と言った。ザアカイは立って主に言った、『主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します』」。「もし、だれかから何かだまし取っていたら」とザアカイは言い始めます。もしかしたら、そういうことを私もしていたかも知れない。もし、そうだったらと。ですから、ここで早合点してはいけません。「取税人の頭で金持ちだった。だから当然、他人から不正に騙し取って財産と地位を築いたのに違いない」などと軽々しく決め付けてはいけません。彼は私たちと同じに、どこにでもいるようなごく普通の人間です。何の後ろ暗いこともない正しい人間のつもりで、この私たちと同じようにごく普通に生活してきました。ところが、ここで突然に神の憐れみというまぶしい光に照らされて、自分というものをつくづくと振り返らされてしまいました。福音の光が、彼の魂の暗がりを明るく照らし始めた。すると、「それまで当たり前のようにごく普通のつもりでやってきたことによって、けれど知らないうちに、他の人たちを押し退けたり傷つけたり、悲しませたりしてきたんじゃないか。気づかないままに、誰かから大切なものを奪い取ったり、誰かを辱めたりしてきたかも知れない。もしかしたら、この私も」と。「私の財産を貧しい人たちに施してあげたい」と思い至ったのも、受け取ってきた神の恵みの大きさと豊かさにここで直面させられたからです。それまでは、《自分で稼いだ自分の財産だ、自分が好きなように使って何が悪い》と思っていました。けれど、そうではなく、《神さまこそが貧しい私にこの財産を施してくださった、元々全部が神さまのものだった》と気づき始めたからです。神さまから私がとてもとても親切にしていただいたように、私も、他の人たちに親切に慈しみ深くしてあげたいと。そんなこと、今まで考えたこともありませんでした。まったく新しい福音の眼差しをもって、あの彼もまた、自分自身と周りの人やモノを新しく見つめることをし始めました。《否応なく、ついついそうさせられた》というのが適切でしょう。神のあわれみの御前に、こうして一人の新しい人間が誕生しました。

9-10節、「イエスは彼に言われた、『きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである』」。主イエスは、しばしばご自身のことを「人の子」とおっしゃいます。つまり、ここで主イエスは、「私は失われた者を尋ね出して救うために来た」とおっしゃいっています。ザアカイは、神の救いの領域から迷い出て、失われつづけていた者たちの1人でした。失われたまま、さまよい続けている者たちが他にも大勢います。

 主なる神はこう言われます;(エゼキエル書34:10-16)「『主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。……わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う』」。神がご自身でその民を探し求め、連れ戻し、世話をしてくださるというのです。ザアカイの目の前に立っていた方が、その方です。私たちがそれぞれ出会った方が、このお独りの方でした。ナザレの人イエス。「わたしは。この私こそが」と断固としておっしゃる主なる神ご自身、この方こそが、約束されていた救い主である神です。

それまで神を知らなかった、神を信じることのなかった1人の人が、あるとき立ち返って、神を信じて生きることをし始めます。この私もそうでしたし、ここにいる者すべて全員がかつては神を知りませんでした。あるとき、何かのきっかけがあって、それぞれに主イエスと出会いました。この主は、取税人のザアカイにしてくださったとまったく同じことを、他の誰に対してもすることができ、また、喜んでそうしてくださいます。神さまは、私たちと出会おうとしてすでに準備万端です。