2021年9月14日火曜日

9/12「主が用いてくださる」ルカ19:28-40

            みことば/2021,9,12(主日礼拝)  336

◎礼拝説教 ルカ福音書 19:28-40            日本キリスト教会 上田教会

『主が用いてくださる』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 19:28 イエスはこれらのことを言ったのち、先頭に立ち、エルサレムへ上って行かれた。29 そしてオリブという山に沿ったベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、ふたりの弟子をつかわして言われた、30 「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい。31 もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」。32 そこで、つかわされた者たちが行って見ると、果して、言われたとおりであった。33 彼らが、そのろばの子を解いていると、その持ち主たちが、「なぜろばの子を解くのか」と言ったので、34 「主がお入り用なのです」と答えた。35 そしてそれをイエスのところに引いてきて、その子ろばの上に自分たちの上着をかけてイエスをお乗せした。36 そして進んで行かれると、人々は自分たちの上着を道に敷いた。37 いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた、38 「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」。39 ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。40 答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。ルカ福音書 19:28-40                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       3:11 モーセは神に言った、「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」。12 神は言われた、「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう」。 (出エジプト記 3:11-12,創世記28:18-22)

 28-31節、「イエスはこれらのことを言ったのち、先頭に立ち、エルサレムへ上って行かれた。そしてオリブという山に沿ったベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、ふたりの弟子をつかわして言われた、「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい。もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」。まず、救い主イエスがすべてをすっかり全部見通しておられることに気づかされます。主イエスは2人の弟子をまず先に村に遣わし、「そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい。もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」と指図なさいます。そのとおりになりました。救い主の眼差しの前には、すべてがすっかり明らかであり、例えば別の時には、敵対する人々が心に思っていることさえも見抜き、誰が信じるか信じないか裏切ろうとしているのかさえも承知して、語りかけもしています(マタイ12:25,ヨハネ2:25,6:64。たとえ人間同士が欺きあうことがありえても、「神がキリストイエスによって人々の隠れた事柄を裁かれるその日に、あきらかにされるであろう」(ローマ2:16と聖書は証言します。それは、私たちクリスチャンに深い慰めを与え、同時に、戒めと慎みを与えます。私の主人がいつもどこで何をしていても、私を見ておられる。救い主イエスの眼差しの下に生きて、しかも、そのことをはっきりと心に覚えつづけて生きる私でありたい。ほんの少し前に紹介したばかりですが、名前も知られない一人のクリスチャンがこう語りかけました、「主イエスは、わが家のご主人さま。食卓にいつもおられる、目に見えない大切なお客さまでもある。私たちの毎日の、いつもの、何気ないすべての会話に耳を傾けていてくださるお方です」(「主イエスは我が家のご主人さま」作者不明)。Christ is the  HEAD  of our house.The UNSEEN Guest at every  meal,The Silent  LISTENER  to  every  Conversation.Unknown(作者不明)」。そのとおりです。

32-35節、「そこで、つかわされた者たちが行って見ると、果して、言われたとおりであった。彼らが、そのろばの子を解いていると、その持ち主たちが、「なぜろばの子を解くのか」と言ったので、「主がお入り用なのです」と答えた。そしてそれをイエスのところに引いてきて、その子ろばの上に自分たちの上着をかけてイエスをお乗せした」。聖書は、やがて救い主がどんな姿でどのようにやって来るのかを、繰り返し繰り返し予告していました;「やがて時が来て、私たちの王が私たちの所へ来てくださる。すくいと解放をもたらすために。その方は高ぶることなく柔和に謙遜に、低く身をかがめて、そのとおり子供のロバの背にまたがってやってくる」(ゼカリヤ書9:9)。子供のロバを手に入れて、そのロバの背に乗り、主イエスはエルサレムの都に入っていかれます。聖書に親しんできた人々は、誰もが皆気づきました。「ああ、聖書に書いてあったとおりだ」と。聖書に書いてあった救いの光景そのままだ、この方こそ待ち望まれていた救い主だ、と。

 36-40節、「そして進んで行かれると、人々は自分たちの上着を道に敷いた。いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた、「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」。ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。人々は道の両側に立ち並んで、旗を振るようにシュロの枝を振り、神様を誉めたたえて叫び、自分の衣服を主が通っていかれる道に敷き詰め、そのようにして主イエスを喜び迎えます。主イエスを快く思わないパリサイ派の人々にも、そこで何が起こっているのかが、もちろん分かりました。だからこそ、見過ごすわけにはいきませんでした。「自分は神から遣わされた救い主だと嘘をついて、あのイエスという男は皆を騙している。皆は騙されている。これは神への冒涜だ。止めさせなければ」と。先生、あなたのお弟子さんたちを叱ってください。集まって騒いでいるこの人々を静かにさせてください。あんなことを言わせないでもらいたい。40節。主イエスは答えます;「言っておくが、もし、この人たちが黙れば、その代わりに、道端の石っころが叫び出す」。

  神は、どんな神だったのでしょう。人間の目に見えない隠れている事柄にも目を向け、人間の心の中にあるものを知り、先にある出来事のすべてをも見通す神でした。人間が生まれる前から、その人を知る神であります。ここにいるこの私たちに対しても、まったくそうです。《主なる神こそが知っていてくださり、ちゃんと分かっておられる》。この私たちのためにも、神様が生きて働いておられます。「ああ、そうだった」と目覚めさせられます。教会の頭であり、世界の王である方は、私たちを見ておられます。いつも、どんな時にも見ているのだし、すべてをすっかり見つめておられます。あなたは、どんなふうに感じるでしょうか。ある人は、なんだか居心地が悪いような、牢獄できびしい看守に監視されているようで、「放っておいてもらいたい。息が詰まる」などと思います。けれど、《主なる神こそが知っていてくださり、ちゃんと分かっていてくださる》。それこそが、私たちの慰めであり、喜びであり、心強い支えであり確かさであったのです。天の主人の慈しみ深い眼差しが、この私にも注がれ、あなたにも注がれている。例えば、誰かから誤解されるとき、誰にも分かってもらえないとき、不当な扱いを受けるとき、非難されるとき、ただ独りで恐れと不安の只中に置かれるとき、けれどなお私たちは心強い。なおそこで、私たちは勇気を与えられ、そこで辛うじて踏み止まる。なおそこで、晴れ晴れとして顔を上げます。なぜでしょうか。なぜならば、主が分かっていてくださり、主こそが私の味方であるからです。

  兄弟姉妹たち。ここにいる私たちはいったい何者でしょうか。『主がお入り用なのです』と答えて、それをするようにと命じられたあの2人の弟子たちです。見知らぬ村へと主に先立って遣わされ、そこに繋がれている子供のロバを連れてきます。あるいは別のときには、疲れ果てたおじいさんおばあさんの姿形をしたロバかも知れません。お父さんお母さんの姿形をしたロバ、中学生高校生、もしかしたらもっと若い子供の姿形のロバかも。病気がちで、この頃は歩くのもやっとのロバかも知れません。とても貧弱で貧相な、誰にも顧みられないような小さな弱々しいロバかも知れません。柵に繋がれている彼らを見つけ、ロープを解こうとして、「何をするつもりか」と問い詰められるかも知れません。「止めなさい。勝手なまねはするな」と厳しく叱られるかも知れません。どうしましょうか。『はい。主がお入り用なのです。主が、このロバを、ご自分のご用のために用いてくださいます』と答えましょう。聞き入れられず、跳ね除けられるかも知れません。馬鹿にされ、罵られ、恥をかくかも知れません。それでもなお私たちは、『主が、これを用いてくださるのです』と答えましょう。1度だけでなく、3度4度5度6度と、繰り返し答えましょう。私たちは皆、あの貧弱な子供のロバでした。主が、こんな私をさえ用いてくださる。「ぜひ使いたい」と仰った。主の御前へと連れ出され、それ以来、背中に主をお乗せして歩いている私たちです。それがクリスチャンの姿であり、実態であり、それがキリスト教会の姿です。もし、すべての人たち皆が押し黙るときが来るとしても、そのとき、道端の石っころのような私たちが叫び出します。主を誉めたたえて。感謝と喜びの歌を、大きな声で歌い出すでしょう。魂に刻んできた主への感謝が、主への驚きが、信頼が、喜びが、主への確信が、私たちを駆り立てて止まないからです。なにしろ、私たちを救うために《神の子羊》として救い主イエス・キリストが遣わされました。十字架の上で引き裂かれた主の体と、流し尽くされた主イエスの尊い血潮を注がれて、それで、だからこそ、私たちはここにいます。今日こうしてあるを得ております。

 

     《いのり》

なんでもおできになる全能の神さま。どうか、あなたの慈しみと福音の光が見える目を私たちにください。私たちは明るい日の日中でも目がよく見えないからです。「自分はよく見える。よく見える」と虚しく言い張ってしまう私たちだからです。偽りの光を捨て去らせて、あなたご自身の御言葉の光にこそ、私たちを導いてください。

    この世界に生きるすべての生き物を顧みて、憐れんでください。身を屈めさせられ、心細く貧しく暮らすものたちが大勢いるからです。食べるもの着るものにも不自由し、安心して体を休める場所も与えられない人や生き物もたくさんいるからです。あなたのお顔に、この顔でお目にかかるその日まで、今あなたから贈り与えられています知識に、慎ましく満足していられますように。私たちを、あなたの似姿に合わせて、日毎に新しくお造りください。そして、私たちの主イエス・キリストにあなたがお授けになった完全な栄光に、この私たちと家族と隣人たちをも入らせてください。

    主イエスのお名前によって祈ります。    アーメン