2021年8月9日月曜日

8/8「天の都を目指す旅路」へブル11:10-16

         みことば/2021,8,8(召天者記念の礼拝)  331

◎礼拝説教 ヘブル手紙 11:10-16               日本キリスト教会 上田教会

『天の都を目指す旅路』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 11:10 彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。11 信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。12 このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。14 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。15 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。16 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。(ヘブル手紙 11:10-16

                                               

14:2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。4 わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。5 トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。  (ヨハネ福音書 11:2-6


 10-12節、「彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである」。まずアブラハムとサラ夫婦の生涯、そしてその子供たち、孫たち、イサク、ヤコブら私たちの信仰の先祖たちの歩みが思い起こされています。とくに12節で、アブラハムとサラ夫婦について、「死んだも同然の人から」「死んだと同様な人から」「死にかけていた人」(新共同訳、口語訳、新改訳など)と、決して穏やかではない危うい言い方がなされています。説明します。ごく表面的には、ずいぶん年老いて子供を産めないはずの体力の衰えた人たちだという意味でもあります。しかしそればかりでなく、むしろ、その人の魂の在り方、生き方について、聖書は、神に背いて生きる人々を『罪の中に死んでいる人間』と言い表してきました。つまり誰も彼もが皆、神の憐れみの眼差しによって見るならば、死んだ人間だったわけです。「先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者だった。わたしたちもみな、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かしキリスト・イエスにあって、共によみがえらせて下さった」。また、神のもとを離れてさまよって者が戻ってきたとき、「死んでいたのに生き返った。死んでいたのに生き返った」(エペソ2:1-6,ルカ15:24,31と喜び祝います。アブラハムとサラ夫婦も実際には、神を信じて生き始めた後も、生涯ずっと、信仰と不信仰の間を揺らぎ続ける罪深い人々でした。何度も繰り返して不信仰と傲慢に陥り、神を疑い、心を頑なにして裏切り、神の恵みから遠く離れ去る度毎に、けれどなおその罪をゆるされ、連れ戻され、信じる心を与えられ、希望と喜びを贈り与えられ続けて生きた生涯でした。この私たち皆と同じようにです。

13-14節、「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している」。神によって用意されている天の都を目指して旅をするように生きる私たちです。「旅人であり、ほんのひとときそこに身を寄せ、旅立ってゆくもの(=寄留者。きりゅうしゃ。一時的にそこに身を寄せている者)」だと言っています。そのとおりで、やがて時が来て、この世界を立ち去ることになっている私たちです。だからこそ、地上を生きるつかの間のときを惜しみつつ、魂に刻みつつ、一日ずつ精一杯に生きる私たちです。

さて、1人の人が、神を信じる信仰のうちに生きて死ぬことが出来た。それは、本人の意思や決心などによったのではなく、私たちの信仰が弱まる度毎に強くし、私たちが迷い出る度毎に連れ戻しつづけてくださった神ご自身の憐れみによりました。もし、神を信じる信仰のうちに一人の人が生きて死ぬことが出来たとするならば、それらは皆すべて、神の憐れみによったのであり、みなすべて神の贈り物であったといえます。

「まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした」。「まだ約束のものは受けていなかった」とは、約束されたもののすべて全部を受け取ったわけではなかった、という意味です。すべてではありませんが、それでもなお先祖と私たちも、神からの祝福と幸いの十分な手付けを、あふれるほどに受け取りつづけています。はるか遠くからその祝福を眺めているだけではなく、すぐ近くで見て、手に触れ、味わい、はっきりと確信し、折々に何度も何度も喜ばせていただきました。だから信じ続け、待ち望みつづけることもできました。同じように、神殿で救い主であられる幼子イエスと出あったシメオンもまた、その手に幼子イエスを抱き、神をほめたたえました。喜びにあふれて、「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救を見たのですから」(ルカ1:29-32

15-16節、「もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである」。アブラハムの孫であるヤコブのことを思い起こしましょう。あるとき実の兄ときびしく争い、兄に殺されることを恐れて弟ヤコブは夜逃げをしました。そのヤコブに、「あなたの祖父であるアブラハム、またあなたの父であるイサクと出会い、その彼らに対して主となり神として彼らを支え、守り、導きつづけた神である」。ヤコブも、「自分のおじいちゃんやお父さんにとっての神である」と、そのことは十分に承知していました。けれども私自身はまだ、この神をよく知らないし、まだ信じているわけではない。この私にとってはまだ何の関係もない相手だと。けれど、ここで、兄を恐れて夜逃げをして、誰もいない淋しい場所で石を枕に眠ろうとしていたこの夜、ヤコブはとうとう神さまと出会いました。どんな神であるのかをはっきりと知らされ、『その神さまを私も信じて生きてみたい』とついにとうとう願いはじめました。ヤコブは、神に申し出ます、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう」(創世記28:20-21。祖父であるアブラハムにとっての主なる神であり、父イサクにとっての神だとは分かっていました。けれど、自分にとっては何者でもなかった神。けれど、このときから、ヤコブはその神を『自分にとっての主であられる神』とし、また自分自身を、『神を信じて生きる私』とさせていただきました。神を信じて生きる1人の新しい人間がそこでそのようにして誕生しました。わたしは、あなたの神である。あなたは、私を信じて、その信仰のうちに生涯を全うして生きて死ぬ私の民であると。

 「事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである」。先祖と私たちが天の故郷を熱望したので、神のほうでもその者たちを神の国の住民として迎え入れてくださる。しかも今日ごいっしょに読んだ箇所の最初に、こう証言されていました、「彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である」。神ご自身が天の都を計画し、それをご自身で建て上げたのだと。いよいよこれで、すべてが明らかになりました。神の国、天の都とは、神が生きて働いておられ、その御心と御力を十分に発揮してくださる世界です。救い主イエスは最初にこうおっしゃいました、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。また、「神の国はあなたがたの只中にある」と。また主イエスを信じる弟子である私たちに、「神の国を来たらせてください」(マルコ1:15,ルカ11:2,17:21と願い求めて生きるようにと教えられました。やがて十字架の死と復活の直前に、最後の食事の席で、「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、また来て、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハネ福音書14:2-3「わたしの父の家」。救い主イエスにとっての父は、私たちにとっても父です。救い主イエスを信じる私たちは、イエスをとおして父であられる神さまの子供たちとしていただきました。だから、私たちの父の家です。そこは私たちにとっても自分の故郷であり、自分たちの家です。この父から決して忘れられることもなく、いつでも大歓迎で迎え入れられ、安心してそこにいることが出来ます。「あなたがたのために、場所を用意しに行く。行って、場所の用意ができたならば、また来て、あなたがたをわたしのところに迎える。わたしのおる所にあなたがたもおらせる」と主イエスは仰る。読むたびに驚きます。主イエスが、父であられる神の家の中に私たち一人一人の場所を用意してくださる。主イエスが迎えに来てくださり、ご自身がおられる所に私たちをもおらせてくださる。なんと何から何まで、至れり尽くせりです。「救い主イエスのもとにこの私たちが行くのを待っている」というのではなく、直々に迎えに来てくださり、連れて行ってくださる。このように、神の国に手厚く迎え入れていただける私たちです。

神さまが私たちの味方です。父であられる神さまがご自身の独り子イエスをさえ惜しまず死に渡し、墓に葬り、三日目によみがえらせてくださったからです。その御父が御子イエスと共にこの私たち一人一人をも新しい生命に生きさせてくださるからです。御子イエス・キリストを贈り与えてくださった父なる神さまが、御子イエスとともに、すべて何でも私たちに贈り与えてくださらないはずがないからです。キリスト・イエスは死んで、いいえ、ただ十字架につけられて死んだだけではなく、葬られ、その三日目に墓からよみがえり、父なる神さまの右にある王様のイスに座り、世界全部、生き物たち全部とともにこの私たちのためにも御力を存分に働かせてくださるからです(ヘブル手紙11:13-16,ピリピ手紙3:20-21,ローマ手紙 8:31-39参照)

  主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ福音書14:6とおっしゃいます。父なる神さまの御もとへと至るためのただ一筋の道がある。『それがこの私だ。だから私にこそ聞け。私を通れ。あなたは私から受け取りなさい』と主は断固としておっしゃる。神と私たち人間の間に、一本の確かな道が開かれました。その引き裂かれた体と流された血潮を通って、私たちは神の御もとへと近づいてゆくことができます。恐れも遠慮もいらず、誰はばかることもなく、誰でも、その一本の道を通って神さまの御もとへと近づいてゆくことがゆるされています。