2021年8月23日月曜日

8/22「あなたの信仰があなたを救った」ルカ18:35-43

             みことば/2021,8,22(主日礼拝)  333

◎礼拝説教 ルカ福音書 18:35-43         日本キリスト教会 上田教会

『あなたの信仰が

あなたを救った』

 

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

18:35 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道ばたにすわって、物ごいをしていた。36 群衆が通り過ぎる音を耳にして、彼は何事があるのかと尋ねた。37 ところが、ナザレのイエスがお通りなのだと聞かされたので、38 声をあげて、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」と言った。39 先頭に立つ人々が彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」。40 そこでイエスは立ちどまって、その者を連れて来るように、とお命じになった。彼が近づいたとき、41 「わたしに何をしてほしいのか」とおたずねになると、「主よ、見えるようになることです」と答えた。42 そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。43 すると彼は、たちまち見えるようになった。そして神をあがめながらイエスに従って行った。これを見て、人々はみな神をさんびした。              ルカ福音書 18:35-43

                                               

10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。12 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。13 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。                                         (ローマ手紙 10:9-13)


 35-39節、「イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道ばたにすわって、物ごいをしていた。群衆が通り過ぎる音を耳にして、彼は何事があるのかと尋ねた。ところが、ナザレのイエスがお通りなのだと聞かされたので、声をあげて、『ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい』と言った。先頭に立つ人々が彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、『ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい』」。まず最初に、この目の不自由な彼が「ダビデの子イエスよ」と呼ばわったことについて、ご説明します。道端に座っていて、彼は、「ナザレ村出身のイエスという方がここを通り過ぎようとしている」と聞かされました。すると彼は、直ちに、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい』と声をあげて言いました。イエスに対して「ダビデの子よ」と呼びかけることは、救い主イエスに対する信仰のはっきりしたしるしです。旧約聖書の預言者たちのいくつもの証言によって、「ダビデ王の子孫の中からやがて救い主がこの世界に遣わされる」(イザヤ9:7,エゼキエル34:23,37:24,マタイ1:1,9:27,ローマ1:3と預言されており、人々はそれをはっきりと信じ、その時を待ち望みつづけてきたからです。主イエスの力ある御業の数々や、神の国の福音についての教えを噂で聞き及び、この彼もまた、「このイエスというお方こそ、預言者たちの口を通して約束されていた、神から遣わされた救い主に違いない」と信じる者とされていたのです。「ダビデの子」と主イエスに対して呼びかけたのは、権威あるお方という尊敬の表現や単なる称号ではなく、はっきりと『このお方こそが神から遣わされた救い主であり、その方を救い主だと信じる私である』と言い表しています。

さて、目の不自由な一人の人が道端に座って、物乞いをしていました。救い主イエスが通りかかると、彼は救い主イエスに向かって呼ばわりつづけ、この方からの救いを受け取り、目が見えるようにしていただきました。神をあがめ、感謝し、救い主イエスに従って生きる者とされました。そのとき、救い主イエスはたしかに、「あなたの信仰があなたを救った」と仰いました。ここが、踏みとどまるべき、今日の最重要のポイントです。その人の信仰が、その人自身と家族を救う場合があり、そうではない場合もあるということでしょうか。「あなたの信仰があなたを救った」(ルカ7:50,8:47,17:19,マタイ9:22,マルコ5:34,10:52,使徒3:16,14:9とわざわざ語られ、その言葉がこれでもかこれでもかと何度も記録されつづけているということは、そういうことです。そうであるなら、せっかく神を信じて生きることをしはじめた私たちです。自分自身と家族を救うほどの確かな信仰を、信じて生きる甲斐があるほどの十分な信仰を、私たちもぜひ受け取りたい。あの彼のように。

 目の不自由なその彼は、道ばたにすわって、物ごい(=十分な収入も、生きる手立てもない貧しい人が、「なんでもいいから恵んでください」と他者に頼むこと。「新明解国語辞典」)をしていた。自分自身の苦しく惨めな境遇に誰かが目を留め、心にかけてくれそうな場所を彼は探しました。そして、その道端を自分で選んで座り、物乞いをし始めました。自分から進んでその場所に出てきて、その道端にわが身を置きました。道行く人たちが彼の姿を見て、助けの手を差し伸べてくれることを期待して。「あなたがた貧しい人たちは幸いだ。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20と別の時に主イエスは仰いました。その貧しさは、施しを受けようとして道端に座っている物乞いの心と姿だと、ある人は思い至りました。そのとおりだと思えます。もし彼が、その道端に座って物乞いをしていなかったなら、ほんの短い生涯の最期の最期まで、心細く惨めなままだったかも知れません。道端に座って、「ナザレのイエスがお通りなのだ」と聞かされたので、声をあげて、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」と言いました。迷惑だし邪魔だから静かに黙っていなさいと他の人々に叱られても、彼はますます激しく叫びつづけました、『ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」。ぜひとも私は救い主イエスからの憐れみを受け取ろう、なんとしても受け取りたいと心に堅く決めていたからです。あの彼は、神からの憐れみを求めていました。邪魔されても、叱られても、人から嫌な顔をされても、それでもなお求めることを止めませんでした。「ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」と、彼はますます激しく、熱心に、本気になって求めつづけました。彼のこの姿を見てください。

 これは、神に願い求める祈りの、この私たちのための手本です。なぜなら、「ナザレのイエスがお通りだ」と聞かされて、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」と自分自身で声をあげたからです。迷惑だし邪魔だから静かに黙っていなさいと他の人々に叱られても、咎められても、なお口を閉ざそうとしなかったからです。「ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」と、ますます激しく求めつづけたからです。あの彼は、自分がとても困り果てていることを、つくづくと感じ取っていました。助けを求める言葉も、自分で見つけ出していました。彼の惨めさや心細さや苦しみなど少しも知らない人々が迷惑がったり、叱りつけて黙らせようとしても、そんなことで黙り込みはしなかったからです。自分がどんなに惨めで、悲惨で心細い日々を過ごしてきたかをよく覚えているので、だから彼は求めつづけました。そのしつこさ、粘り強さは、たっぷりと十分に報いられました。あの彼は、探し求めていたものを見つけ出しました。その日に、あの彼は光を与えられ、目が見えるようにされました。このように、あなたも神に願い求めるようにと私たちは促されます。もし、あなたが願っているのなら、それを、あなたが本気になって求めればいいじゃないかと。

 40-42節、「そこでイエスは立ちどまって、その者を連れて来るように、とお命じになった。彼が近づいたとき、『わたしに何をしてほしいのか』とおたずねになると、『主よ、見えるようになることです』と答えた。そこでイエスは言われた、『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った』」。救い主イエスは、十字架の死が待ち受けるエルサレムの都に向かって旅路を歩んでいます。とても重たい問題や課題を頭の中にいくつも抱えておられます。それでもなお、もちろん、この小さく貧しい一人の人のために立ち止まり、その人と向かい合い、親切に声をかけてあげる時間はあるのです。とても心優しい、憐み深いお方であるからです。「わたしに何をしてほしいのか」とおたずねになり、『主よ、見えるようになることです』と彼が答え、そこでイエスは言われました、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。あなたの信仰があなたを救った。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(1コリント手紙12:3と聖書によって証言されています。他の人からいくら熱心にていねいに教えられても、だからと言って、「イエスを神から遣わされた主であり、救い主である」などと信じることも認めることも誰にもできません。神ご自身がその人の心に教えてくださるのでなければ、「イエスを救い主、私の主」と信じることは誰にもできない。つまり、神ご自身がその人に、また私たち一人一人に、イエスを主であると信じる信仰を与えてくださいました(ヨハネ福音書6:37,44「父が引き寄せてくださらなければ」,1コリント12:3「聖霊によらなければ~」)

けれどなおその信仰は、弱々しいのです。また、多くの不完全さや思い煩いや、自分勝手な思いや、不信仰やかたくなさをも含んでいるでしょう。それでもなお、その弱々しくいたらない信仰であっても、なおその信仰によって、彼は救い主イエスに向かって呼ばわり、周囲の人々から叱られても咎められても、迷惑がられても、呼ばわりつづけました。信仰によって。そのように主イエスへと向かってきた彼を、救い主イエスは追い払ったりなど決していたしません。そんなことをなさるはずがないのです。ご自身が、こう証言しています、「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない」(ヨハネ福音書6:37。そのとおりです。あの彼の心からの願いは受け入れられ、直ちに、その人は光を受け取り、見えるようにされました。

43節、「すると彼は、たちまち見えるようになった。そして神をあがめながらイエスに従って行った。これを見て、人々はみな神をさんびした」。救い主イエスからの憐れみを受け取った者たちの、その歩みや生き様、振る舞いについて、はっきりした実例が示されています。ここに報告されているとおりです。光を与えられ、見えるようにされたこの人は、「神をあがめながらイエスに従って行った」。神への感謝と喜びが、彼の魂に深々と刻まれたからです。『救い主イエス。このお独りのお方に聞き従って生きるに値する、私自身のための主人である』。その彼も、私たちもまた、そのことの生きた証人です。私たちもこう証言することができます。「ただ一つのことだけは、はっきりと分かています。私は以前には目が良く見えないものでした。けれど今は、見るべきものを見えるようにしていただいたということをです」(ヨハネ福音書9:25

 神への感謝と信頼こそが、信仰のたしかな泉です。そこからだけ、主イエスに従って生きることが湧き出てきます。神に逆らう罪をゆるされたこと、神との平和、生きる希望。それらを私に贈り与えてくださったのは救い主イエスだと、それをはっきりと実感するのでなければ、誰も自分のために用意されていた十字架を背負うことも、『イエスは私の主である』と人々の前で告白することもできるはずがありません。救い主イエスがまずこの私を愛してくださり、私の罪をあがなうために十字架につけられ血を流してくださった。そのことをはっきりと知らされ、私たちは神を信じて生きる者たちとされました。救い主イエスが私たちの病いを癒し、私たちのそれぞれの重荷を取り去り、それぞれの飢え渇きを満たしてくださいました。だから、そのようにして、私たちは救い主イエスに聞き従って生きる者たちとされました。「いったい誰が神の国に入れられ、だれが救われるでしょうか」(ルカ18:26-27。それは、私たち人間にできることではなく、神しか出来ません。神ご自身こそが、この私たちのためにも成し遂げてくださいました。