2021年8月3日火曜日

8/1「なすべき、ただ1つのこと」ルカ18:18-27

              みことば/2021,8,1(主日礼拝)  330

◎礼拝説教 ルカ福音書 18:18-27                日本キリスト教会 上田教会

『なすべき、ただ1つのこと』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

18:18 また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。19 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。20 いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。21 すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。22 イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。23 彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。24 イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。26 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、27 イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。         ルカ福音書 18:18-27

                                               

1:26 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。31 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。

                      (1コリント手紙 1:26-31)

 マタイ、マルコ、ルカ、この3つの福音書が同じ一つの出来事を報告しています。なぜ、そうなのか。とても大切な報告であり、それぞれよく心に留めて、よく覚えておく価値があるからです。まず18-21節、「また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。救い主イエスは、この彼の心の中身をよく分かっておられました。彼の魂に強い光を当てて、その魂がいまどんな状態にあるのかを彼自身にも私たちにもはっきりと知らせようとして、神からの十の戒めを思い起こさせます。あの彼も私たちもよく習い覚えているはずの神の律法をどうとらえ、どう理解しているかが、私たちの心を知るためのよい目印になるからです。十戒の後半部分、「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え」(出エジプト記20:1-17,申命記5:6-21。すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。これです。これこそが、この人の自尊心の中心部分です。なにしろ神の律法に従って、正しく適切に生きてきた私であり、誰に恥じることもなく、小さい子供の頃から今に至るまで何の落ち度も後ろ暗いこともない。神を愛し尊び、隣人を自分自身のように愛し尊んできた私である。つまりこの彼は、見るべきことを何一つ見えておらず、暗闇の中に置かれ、自分自身がいったいどんな人間であるのかもまったく分かっていませんでした。自分自身についても、神についても、その御心や律法が指し示している中身についても、何一つも分かっていませんでした。

 さて、この人は滅多にいないような、ごくまれな例外的な人間でしょうか。今日では、この人のような人間はほとんどいないと思うでしょうか。いいえ。世界中に、とても大勢います。神の律法は、なによりまず自分自身の罪深さを自分に気づかせるためにあり、それが第一の役割です。けれどこの人も神の律法を詳しく学んで、よくよく習い覚えていながら、どうしたわけか、神の御心と律法の要求とは正反対の『自分自身の正しさや、ふさわしさ』をこそ律法から学び取ってしまいました。それを、堅く信じ込んでしまいました。せっかく学んできた神の律法はその人にとって何の役にも立ちませんでした。間違った教わり方だったために、かえって、それはその人のつまずきの石となり、大きな災いのタネとなりました。それゆえ、自分自身の罪深さや傲慢さや心の頑なさもまったく知らずに暮らしつづけてきました。もちろん聖書も、私たち自身の罪深さや傲慢さや心の頑なさを告げ知らせつづけてきました、「神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました」。また主イエスご自身も、「昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう」(詩51:1-4,マタイ5:21-22と。さらに宗教改革者はこう説き明かしました、「神は、殺人を禁ずることによって我々に、嫉妬、憎悪、怒り、復讐などを『殺人の根』として憎み、これらはみな神の御前においては『ひそかな殺人である』ことを教えておられる。悪意を抱かないだけでなく、その人に対して忍耐と平和と柔和と慈悲と友情とを示し、その人の受ける危害や痛手を自分の力の及ぶかぎり取り除き、われわれの敵に対しても善を行うことを、神は望んでおられます」(「ハイデルベルグ信仰問答 問106107」)。これらが、神の律法に関して習い覚えておくべき最低限の内容です。そして、自分自身の内面を清くすることは、まず第一に、「ほんのわずかも清くない、とても罪深い、神の憐れみの御心に背きつづけている私だ」と気づくことからはじまります。それが、神に従って生きることのそもそもの出発点です。その人も私たち自身も、「それらのことはみな、小さい時から守っております」ではなくて、「ああ。私の中には何一つも善いものが宿っていないことを私は知っています」(ローマ手紙 7:14-18参照)と心底から嘆くことが出来たなら、どんなに幸いでしょう。

22-25節、「イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。誰にでも「全財産をみな売り払って施しなさい」と仰るわぇではありません。人を見て、その人に必要な導きをなさる救い主です。この人は財産や自分の正しさにとても執着し、こだわり、それにガンジガラメに捕らわれていた人でした。だから、この人には、ここまで言ってあげる必要があったのです。彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。この人は良い願いを抱いていました。「神から永遠のいのちを受け取りたい」と。神を信じ、神との親しい交わりの中に生きて、そこで幸いと祝福を受け取りつづけて生きていきたいと。それなのに、なぜ、神に聴き従って生きる生き方を教えてもらえなかったのか。なぜ、この人は主イエスの弟子にしていただけなかったのか。けれど残念なことに、この人は『神から贈り与えられる永遠のいのち』よりも他に、もっと大事に思って、もっと心魅かれるものがあったからです。彼の財産です。地上に蓄えた財産をみな手放して、天に宝を探して生きるようにと招かれたとき、彼は、その招きを断る他ありませんでした。財産と富を愛する心こそが、彼の心を支配する大きな強い主人となって、彼を縛りつけていたからです。もちろん財産や富ばかりを言っているわけではありません。さまざまなものが私たちの心を虜にし、引きつけ、誘惑し続け、神を第一として生きることを邪魔します。『神から贈り与えられる永遠のいのち』よりも他に、もっと大事に思って、もっと心魅かれるものが、私たちの目の前に立ち塞がりつづけます。例えば、ロトの妻を振り返らせたソドムの町と暮らしと親しい人々のようにして。

「財産のある、豊かに飛んでいる者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう」。そのとおり、しかも、あの人にとっては、『自分自身の正しさや、ふさわしさ』もまた、手放すことのできない、あまりに大きくなりすぎた、邪魔で厄介な財産でした。自分自身の罪深さや、「律法のすべてをみな小さい頃から守ってきた私である」という自負と傲慢さもまた、手放すことのできない大きな富であり、宝でした。しかも自分自身の罪深さ、傲慢さ、心の頑なさ、自分の肉の思い、情、様々な欲望という罪の中に死んでいた私たちであり、以前にはそうだったというだけでなく今も、死んでいた状態へとサタンによってたびたび連れ戻されつづけてしまう私たちです。「神の恵みによるのでなければ、罪に死んでいた者は誰も神の国に入ることはできない」と、世々の教会は習い覚えてきました(エペソ2:8,ヨハネ3:5,使徒4:12,ローマ5:6-12,8:11。私たち自身の心とその普段の生活の只中で、なお罪が力を発揮し、私たちを『罪の中に死んでいる人間』へと連れ戻そうと狙いつづけます。だからこそ神の恵みによって、新しく御心にかなって生きる者であらせていただきたいのです。御霊の働きによって生かされ、その御霊によって進んでゆくことができますように。しかも、キリストに属する私たちであるので、そのように生きることができるからです。神ご自身が、そうさせてくださるからです。

26-27節、「これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。しかも私たちは、それぞれすでにとても豊かであり、賢く、優秀であり、力を持った強い者とされています。悲しみながら立ち去っていったあの役人のように。そのとても豊かすぎる私たちが、自分自身の富や豊かさや力や賢さや知恵によってはなく、ただただ神の憐れみによってこそ罪をゆるされ、神の国に入れていただく。それは至難の業です。自分自身の豊かさや偉大さと神の恵みとは、連れだって歩むことが決してできないからです。聖書は証言します、「主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。また、「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである」(ルカ1:51-55,1コリント手紙1:26-31

 しかも、救い主イエスは罪人を救うためにこの世界に来られたのです。罪人を憐れんで、その罪をゆるし、罪から救い出して、神の国へと迎え入れてくださるために。私たちこそが、その罪人の中の最たる者たちであり、憐れんでいただいた者たちです。律法をみな正しく守って、隣人を自分自身のように愛し、精一杯に尊び、ふさわしく暮らし、だから、あなたは救われたですか。いいえ、とんでもありません。ただただ神の恵みと憐れみによってだけ、神を信じる者とされ、神の国に入れていただきました。だからこそ、憐み深い神さまがどこまでもどこまでも私たちの味方です。