2021年8月17日火曜日

8/15「三度目の受難予告」ルカ18:28-34

           みことば/2021,8,15(主日礼拝)  332

◎礼拝説教 ルカ福音書 18:28-34             日本キリスト教会 上田教会

『三度目の受難予告』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

18:28 ペテロが言った、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。29 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、30 必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。31 イエスは十二弟子を呼び寄せて言われた、「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう。32 人の子は異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、33 また、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえるであろう」。34 弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった。              ルカ福音書 18:28-34                        

8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。16 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。

(ローマ手紙 8:13-16)

 救い主イエスは弟子たちに、ご自身の十字架の死と復活をあらかじめ知らせつづけました。とても大切なことなので、何度も繰り返して語りかけました。これが、その三度目の、最後の受難予告(ルカ9:21-27,9:44-45,当箇所)です。

 まず、28-30節。「ペテロが言った、『ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました』。イエスは言われた、『よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである』」。三度目の、最後の受難予告です。最初のとき、主イエスはご自身の死と復活の予告と共に、予告に添えて、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」(ルカ9:21-24と弟子たちに命令なさいました。「自分の十字架」とは、神さまから与えられ、それゆえ自分で引き受けなければならない苦しみや試練や悩みなどです。また、捨てるべき、失うべき「自分。自分の命」とは、自分が抱えてしまった肉の思い、自己中心の欲望、自分を誇ろうとする欲求などです。よく見ると、それは自分ではなく、自分の命でもなく、かえって自分を貧しくし、自分を損なわせる、無いほうがよい邪魔な障害物です。けれど、ここでは、捨てるべき「偽りの自分。自分の偽りの命」、また背負うべき「自分の十字架」つまり、神から与えられた試練や悩みについては触れられていません。

 さて、その代わりに、とても難しく悩ましいことが語られました、「だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。ごく表面的に受け取るなら、「神を信じて生きるためには家族を皆、捨てなさい」と命じられているようにも聞こえます。もし、神を信じて生きるために自分の妻や夫、両親、兄弟、子供たちを捨てなければならないのなら、本当にそうだとすれば、この信仰も神も虚しいものではないでしょうか。神を信じて生きることにどんな価値があるのかと、疑わしく思えるでしょう。いいえ、決してそうではありません。このときには言葉の意味が隠されていて、弟子たちは皆、何も分からず、少しも理解できませんでした。けれど今では、その意味ははっきりしています。

どうぞ、お聞きください。まず、聖書からの決定的な第一の証言です。使徒16:31。やがて復活の主に出会った後で、牢獄の看守に向かって、弟子たちはこうはっきりと証言します、「救われるためにどうしたらいいでしょうか」「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなた自身も、あなたの家族も救われます」(使徒16:31。ここで語られた言葉の意味も中身も、これです。「捨てなさい」と語られていた真意は、「神に信頼して、家も妻も夫も、兄弟姉妹も子供も孫もなにもかもすべてを神に委ねなさい。委ねることができる。そうしたら、あなた自身も、あなたの家族も救われる」という意味です。ここまで分かって、それでようやく私たちは、大切な家族に、連れ合いや両親、兄弟、子供たちに安心して、この信仰を伝え、神の恵みと祝福のもとへと、心をこめて、精一杯に招いてあげることもできます。私たちが大切に思っている家族や、連れ合いや両親や子供たちを軽んじる神ではなく、そういう信仰ではないのです。他にも、いくつかの大切な証言を並べます。例えばアブラハムとサラ夫婦が神に招かれたとき、主であられる神は「あなたを祝福する。あなたは祝福の土台、出発点となる」と約束しました。また、ヨシュアが同胞たちに神を信じることと神への従順へと招いたとき、彼は、「わたしと、わたしの家は、共に主に仕えます」と信仰を言い表しました。また例えば救い主イエスは、弟子の一人のしゅうとめが高い熱を出して寝込んでいるのを見舞って、熱を下げて起き上がらせてあげました。これらのことを覚えて、よくよく魂に刻みつけている必要があります。このように私たち自身と共に、私たちの家族一人一人をも慈しみ、顧みつづける神です(創世記12:1-3,ヨシュア記24:15,ルカ4:38-39

 救い主イエスを信じ、この方に従って生きてゆくために捨てなければならないのは、家族ではなく、もっぱら「自分が抱えてしまった肉の思い、自己中心の欲望、自分を誇ろうとする欲求」などです。それは、かえって自分を貧しくし、自分を損なわせる、無いほうがよい邪魔な障害物だからです。冒頭の28節。だから、最初にペテロが誇らしげに言っていました、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」と。自分のものを捨てて、あなたに従ってきたと口では言いながら、うぬぼれて自分を誇ろうとする「虚しい自分」が根強く残って、「ごらんなさい。わたしたちは」と虚しく自己主張しつづけているからです。その姿は、「神の律法のすべてを小さい頃から守ってきました」と胸を張りながら、富や財産や自分自身に執着していた、あの「ある役人」(先々週の箇所、18:18-27とそっくりです。その執着とこだわりのせいで、「あの役人」も弟子たちも、だから心を鈍くされつづけ、主イエスが繰り返し語っていることの意味も中身も分からず、少しも理解できずにいました。多くの財産を持ち、裕福であり、また自分はとても信仰深く正しく生きてきたと思い込んでいた「あの役人」とまったく同じに、「ごらんなさい。わたしたちは」と虚しく自己主張していたあの弟子たちが神の国に入れていただくよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっと簡単なのです。その両方の悪い見本を眺めながら、この私たち一人一人も、「それでは、誰が救われるでしょうか」と主であられる神に向かって本気になって問うべきです。まったく同じ答えが救い主イエスから差し出されます、「人間にはできないことも、神にはできる」18:27と。

さて、ようやく31-33節です、「イエスは十二弟子を呼び寄せて言われた、『見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう。人の子は異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、また、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえるであろう』」。救い主イエスはご自身の十字架の死と復活を、何度も何度も繰り返し弟子たちに予告しつづけていました。異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえることの1つ1つが、ご自身にとっても、また主イエスに従って歩んでいこうとしている弟子である私たちにとっても、とても大切なことであるからです。罪人をその罪から救い出すために、引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、また、むち打たれてから、ついに十字架につけられて殺され、そして三日目に死人の中からよみがえること(1テモテ手紙1:15を参照)。それこそが、神であられる救い主イエスがこの地上に降りて来られた目的であり、救い主として果たすべき使命であったからです。救い主イエスは、多くの者の罪のあがないとして、その身代金としてご自身の生命をささげてくださいました。神に対する私たちの背きの罪をあがなうために、十字架の上でご自身のからだを引き裂き、ご自身の血潮を流し尽くしてくださいました。聖書は証言します、「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。……まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである」(ローマ手紙5:6-11。神の愛が、このようにして罪人であり神に背くものであった、この私たちにも注がれました。

ふたたび34節です、「弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった」。心が鈍くされ、その十字架の言葉を分からなくされ、理解できずにいるのは、あの彼らも今日のこの私たちも同じようなものです。救われるに値しない罪人である私たちを救うために、その身代わりとなってあがないの死を成し遂げてくださった救い主イエスの死は、今なお、私たちの前に大きなつまづきの石となって立ち塞がりつづけます。罪人である私たちを救うために、救い主イエスは、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、自分自身を虚しくして、しもべのかたちをとり、人間の姿になられました。自分自身を低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられました(ピリピ手紙2:6-11を参照)。その真実に背を向け続けて、私たちは、「ごらんなさい。この私は」と虚しく自分の正しさや賢さやふさわしさを言い張りたくなります。自分自身の心の中を見てみましょう。そのかたくなな心を打ち砕くことは人間には出来ません。憐れみ深い神が、この私たちのためにも、そうしてくださるのでなければ、誰にもできません。救い主イエスこそが、正しくふさわしい大きな大人であろうとすることを私たちに止めさせます。大人の心ではなく、まったく正反対に小さな子供の心を私たちに差し出します。それは、いつのことでしょう。十字架にかかる前の晩、ゲッセマネの園で。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ福音書14:36と。「アバ」、お父ちゃん、おっとうと、救い主イエスは小さな子供の言葉と心で御父への信頼と従順を言い表しています。「わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と。さらに聖書は証言します;「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」(ローマ8:14-16と。「その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶ」。聖霊なる神によって、この私たちも『アバ父』と呼ぶことができる。アバ父、ゲッセマネの園での救い主イエスの、あの幼な子の心です。その同じ一つの心を贈り与えられて、だから『神の子』とされています。その御父に十分に信頼を寄せ、聴き従って生きる神の子です。このように、私たち人間にできないことを、けれど神が私たちのために成し遂げてくださいます。神の国に入り、そこで幸いに暮らすために授けられる、幼な子であることの身分と中身はこれです。

 

 《平和を慕い求める祈り》

神さま。私たちが平和を思い、あなたから与えられる平和を受け取るために、先祖と私たち自身のよこしまさと罪深さをはっきりと分からせてください。先の第二次世界大戦で先祖と私たちは、神さまに対しても隣人たちに対しても、はなはだしい罪を犯しました。今なお、自分自身を正しいとするばかりで、その恥じ入るべき罪を認めようとせず、つぐなおうともしていません。侵略戦争をしかけてアジアの同胞たちを踏みつけにし、虐殺し、不当に奪い取りつづけた私たちです。その罪を、私たちの国家としても国民としても、よく分かることができますように。今なお、国家としても日本人としても私たちが、日本に暮らす外国人を不当に差別し、排除し、憎んで追い払おうとしつづけています。そのことを恥ずかしく、とても申し訳ないことだと私たちに感じ取らせ、私たちの心に痛みを覚えさせてください。なぜなら、救い主イエスが「私の平和をあなたがたに与える」と仰ったからです。その約束に、この国と私たちは、はなはだしく背いているからです。

また私たち自身も、普段の暮らしの中で小さな争いやいがみ合いの中にしばしば巻き込まれて暮らしています。この私たち一人一人もまた、生まれながらの怒りの子でであるからです。自分を正しいと強く言い立てる性分を強く抱えるものたちだからです。どうか神さまご自身の恵み、憐み、平和を私たちに思い起こさせてください。私たちの出会いを通して悲しみの中に慰めを、痛みの中に癒しを、 疑いの中にあなたへの信仰を、主よ豊かに注ぎ込んでください。私たちを新たにし、 あなたの示される解放と平和への道を歩む者としてください。

主イエスのお名前によって祈ります。アーメン