2019年12月23日月曜日

コラム「プレゼントやケーキやサンタよりも、もっと大切」


コラム
『プレゼントやケーキやサンタよりも、もっと大切』
~罪人を憐み、ゆるして救う神~

                                  金田聖治


















 クリスマスよりも、素敵なクリスマス・プレゼントやモミの木やケーキやごちそうやサンタなどよりも千倍も万倍も大切な、耳より情報、最優先の緊急事態案件がある。だって救い主が何月何日にお生まれになったか、聖書のどこにも記録されていません。どこの戸籍謄本や歴史資料にも一言も書かれていません。けれど祝う必要と都合があったので、キリスト教会が判断して何月何日頃と決めました(古代ローマにあった諸宗教の1つは1225日を「不滅の太陽が生まれる日」とし、太陽神を祝う冬至の祭りがあった。これを転用したのではなど諸説ある。いずれにせよ不明確)。むしろ、神でありながら人として生まれてくださった救い主イエス・キリストが、私たちの救いのために何を、どうやって成し遂げてくださったのか。どういう救いと幸いが約束されているのか。どういう神であり、神を信じて、どのように幸いに生きて死ぬことが出来るのか、それこそが私たちにとっては飛びっきりの肝心要でありつづけるじゃないですか。ねえ。
 聖書は証言します、「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない」(ローマ手紙3:22-27。憐み深く、また正しくある神が、神に逆らいつづける罪人である私たちを神の御もとへと呼び戻し、救おうとなさる。差別も区別も何の条件づけもなく、ただ救い主イエスを信じるという一点で、その罪人を憐んで救う。なぜ差別も区別もないのかというと、すべての人が独りの例外もなく皆、失格だからです。救われるに値しない者たちばかりだからです。だからこそ、「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって」と念を押し、それ以外に何一つ付け加えてはならないと釘を刺します。ただただ神からの恵みであり、だからこそ私たちの誇りも見栄も、体裁を取り繕うことも、すべてすっかり取り除かれたと晴れ晴れして告げ知らされます。誇りとは、「これがあるから私は安心だ」という支えであり、頼みの綱であり、拠り所です。例えば職人は腕一本を誇りとして頼みの綱として生きていきます。大切な腕を大怪我でもして失ってしまったら、その人は絶望して死を願うかも知れません。「誇りが取り除かれたし、そんなものは要らない」と言われたら、腹も立つでしょうし、心細くもなるでしょう。「そんな馬鹿な」と聞き流したくもなるでしょう。自分自身の根性も努力も才能も当てにはなりません。どこまでも支えや頼みの綱とできる確かな安心材料など、どこを探しても誰にも見当たりません。どうしましょうか? 神を頼りとし支えとして、神を頼みの綱として生きることができます。それこそが、神ご自身からの贈り物です。「誇る者は主を誇れ」(1コリント手紙131と聖書に書いてあるとおりに生きて死ぬことができます。それを自分自身の現実とすることができるのです。どうぞ、良い日々を。
               (当教会の機関誌「信濃のつのぶえ」、巻頭言を改題  2019,12,22