2019年12月2日月曜日

12/1「切り株からの希望」イザヤ書6:1-13


     みことば/2019,12,1(待降節第1主日の礼拝)  243
◎礼拝説教 イザヤ書6:1-13                     日本キリスト教会 上田教会
『切り株からの希望』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
6:1 ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。2 その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、3 互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。4 その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。5 その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。6 この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、7 わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。8 わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。9 主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。10 あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。
11 そこで、わたしは言った、「主よ、いつまでですか」。主は言われた、「町々は荒れすたれて、住む者もなく、家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、12 人々は主によって遠くへ移され、荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、こうなっている。13 その中に十分の一の残る者があっても、これもまた焼き滅ぼされる。テレビンの木またはかしの木が切り倒されるとき、その切り株が残るように」。聖なる種族はその切り株である。     (イザヤ書 6:1-13)

 まず1-7節。「ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。その上にセラピムが立ち、……互に呼びかわして言った。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ』。その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。その時わたしは言った、『わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから』。この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、わたしの口に触れて言った、『見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた』」。およそ2760年ほど前。預言者イザヤが神と出会い、主なる神に仕えて働く働き人として立てられたときのことです。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」と神に仕える生き物たちが互いに呼び交わしていました。神が聖であられますことを、まず彼は知らされました。だからこそ直ちに彼は自分自身の汚れと罪深さを思い知らされて、恐れにとりつかれます。5節、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」と。その通りです。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者である。ここに彼が預言者であり、一個の伝道者であることの本質と中身が言い表される。くちびるとそこから出る言葉が汚れているのは、心の中にとても汚れた悪いものが積み重なっているからである(ヤコブ手紙3:9-12。しかも私がそうであるだけでなく、私の民、同胞たちも皆が皆、汚れたくちびるの者たちであり、罪と悲惨をそれぞれの腹の中に溜め込んでいる者たちです。では、どうしたら、その彼らに神の言葉を届けることができるでしょうか。神ご自身が燃える炭火を持ち運んできてくださって、私にも仲間たち一人一人にも、そのくちびると心に炭火の炎をジュージューと押し当てて、焼き清めてくださるほかありません。そのようにして伝道者が立てられ、神の民の一人一人もまた神に従って新しく生きる者たちとされていきます。くちびると心に押し当てられる燃える炭火の炎。それこそが聖霊なる神のお働きであり、私たちそれぞれのあの最初の洗礼のときから注がれつづけ、私たちのくちびると心に押し当てられつづけています(ローマ手紙6:1-23,12:20参照)
8節、「わたしはまた主の言われる声を聞いた、『わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか』。その時わたしは言った、『ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください』」。兄弟姉妹たち。心を鎮めてどうぞお聴きください。彼もまた神さまと一対一の対話をしています。『わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか』。『ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください』。神に仕えて働く働き人たちは、一人の例外もなく、皆この通りです。牧師、長老、執事、何かの係、どんな働きの場合にも、それは誰に無理強いされてでもなく自発的な、感謝と願いのささげものでなければならなず、自分自身を神にささげて生きるしるしです。「そのことが自分や家族にとっても、とても幸いである、そこにこそ私のための幸いがある。ああ本当にそうだ」と分かった者たちこそが、その務めに用いられねばなりません。もし、そうでなければ、主なる神さまに対して大変に申し訳ないことです。それは、ただただ自由で自発的な信仰の判断であり、誰かに押し付けられて嫌々渋々することではなく、また神ご自身は「道端の石ころからさえアブラハムの子らを必要なだけいくらでも生み出すことのできる神だ」と弁えていましょう。ささげものが乏しくても、主に仕えて働く働き人がほんのわずかしかいなくても、神はほんの少しも困りません。なぜなら兄弟姉妹たち、生きて働かれる神であり、先頭を切って進んでいかれる神であり、いけにえを喜ばず、ただただ砕けた悔いた心を喜んで受け入れてくださる神だからです。
 さて、9-13節。預言者イザヤに託された神の言葉は、『心を頑なにさせるメッセージ』です。あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。なんということでしょう。くりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。くりかえし見るがよい、しかしわかってはならない。神ご自身が先祖と私たちの心を鈍くさせ、耳を聞こえにくくさせ、目を閉ざす。それは先祖と私たちがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためであると。「主よ、いつまでですか」と預言者は問いかけます。主は言われた、「町々は荒れすたれて、住む者もなく、家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、人々は主によって遠くへ移され、荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、こうなっている。その中に十分の一の残る者があっても、これもまた焼き滅ぼされる。テレビンの木またはかしの木が切り倒されるとき、その切り株が残るように」。
 すべての預言者たちが同じ一つのメッセージを語りつづけてきました。主イエスご自身こそが、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と。「悔い改めて、神のもとへと立ち戻れ」と主イエスのすべての弟子たちも。すべての預言者たちは、「切り株、切り株、切り株」と一途に切り株からの希望をこそ語りつづけます。世の罪を取り除く神ご自身の切り株を。わたしたちは切り株からの若枝である救い主イエス・キリストを信じました。他のどんな人間や被造物に聴き従ってでもなく、自分の腹の思いやその時その時の気分に従ってでもなく、ただただイエス・キリストにだけ聴き従いはじめました。しかもなお、私たち自身の古い罪の自分が、まるで古い大きな大きな木のように残っている。切り倒されもせず、地面に深く根を伸ばしたままで。そこで私たちは、いったいどんな慰めと救いを聞き分けることができるでしょう。キリストが確かに十字架につけられ、死んで復活なさったからには、このわたしたち自身の内にある古い罪の自分もまたキリストと共に十字架につけられ、滅ぼされ、そのようにして新しいいのちに生きる。それ抜きにして、どんな慰めや救いがありうるでしょう? いいえ。そこには、どんな慰めも救いもあるはずがなかった。このイザヤ書6:9-13こそがこの最後の秘密を打ち明けていました。「主よ、いつまでですか?」「大きな木が切り倒され、切り株からの若枝が芽生えて伸びるまで」と。これが聖書自身からの唯一の答えです。世界と私たち自身の罪を取り除く神の切り株。切り株からの若枝。そこにだけ、救いと平安があります。レバノンの大きな木が根元から切り倒されたように、神ご自身の手にかかって、救い主イエスが切り倒されてくださったからです。
 木の根元に斧が置かれています。その斧によって、この私たち一人一人もまた自分自身の古い罪の木を根元からバッサリと切り倒していただくためにです。そこから、いよいよ新しい若枝が生え伸びてくるために。しかも親である神、その子供としていただいた私たちです。あなたは父さん母さんからどんなふうに育てられましたか。あるいは、自分自身がやがて子供の親になってどのように育てて来ましたか。何をしても、どんなに道を踏み外しても「いいよいいよ、愛しているからね」とただニコニコしているなら、その父さん母さんは子供をあまり愛していません。ときには厳しく叱りつけ、「悪いことだからしてはいけない。帰ってこい」と諌め、必死になって諭すではありませんか。たとえ、あなたの子供が親に背き、放蕩のかぎりを尽くす子であっても、なおその子を愛することを決してやめられない親です。親である神です。可哀想で可哀想で、滅びるままに捨て置くことなど決してできないと。いのちと慰めへと連れ戻すために、道に迷ったわが愛する子を必死に諭しつづける親。親であってくださる神です。
どうか聴いてください、神の民イスラエルよ。主イエスの弟子たちよ。一個のキリスト教会は何をもって揺るぎなく立ち、支えられつづけるでしょう。一人のクリスチャンとその家族は、どのように救われるでしょう。救われ、揺るぎなく立ち、支えられつづけるためには、神からの新しい生命を受け取りつづけるためには、この私たちには、どんな慰めと希望が必要でしょう。「もっと慰めの言葉を聞きたい」と言われつづけます。「もっと人を活かす喜びの言葉を」と。奇妙なことです。キリスト教会と伝道者たちはそうした要望に応えようと慰めと癒しの言葉を何十年も何百年も語りつづけてきました。いいえ神ご自身こそが私たち人間を癒し、人間とすべての生き物を活かそうとしてきたのではなかったでしょうか。聖書をとおし、また主の働き人たちを用いて、慰めと癒しの言葉を神ご自身が語りつづけてきたはずではありませんか。それなのに、今日の私たちの苦しみと行き詰まりはどうしたことでしょう。立ち止まって真に問うべきだったのは、いったい誰からの、どんな慰めなのか。どこから出てきた癒しなのか。神ご自身からの慰めと救いなのか。神ご自身からのいのちと平安なのか。あるいは、別のところから出てきた、別の慰めと救いなのか。わたしたちが思い描き、それぞれに願い求めている「慰め」や「癒し」は、どこへと向かわせる慰めなのか。偽りの預言者たちがかつても今も、神を忘れさせようとして、神から離れ去らせようとして虚しい慰めをささやきつづけているからです。「悔い改めて癒されることがないため」と主なる神が預言者に語りかけたその真意は、『ぜひ、なんとしても悔い改めさせ、この人もこの人もぜひ癒してあげたい』という神ご自身の熱情です。しかも悔い改めは、腹の思いと在り方をグルリと180度向け直し、神へと立ち返ることです。癒しを必要とする私たちですが、それはこの私たちが死に至る重い病いにかかっているからです。その真実な癒しは、良い医者である神ご自身を渇望させ、神へと立ち帰らせるはずだからです。もしここで、「いいよいいよ、自分の望むまま、自分が願うとおりに好きなように暮らしていきなさい」とゆるされてしまうなら、私たち自身もまた虚しいものに成り下がり、信じたことすべて一切が水の泡となります。主から懲らしめを受けることは罰ではなく、むしろ生命を回復させ、主のもとにある慰めを私たちに取り戻させるためです。救いと平安は主のもとにあるからです。主イエスはご自分の弟子たちの口を用いて、それを主の口から出る主ご自身の言葉として語りかけつづけます。ローマ手紙6章です。「恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。・・・・・・すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」。

「もし、わたしたちが死んだのなら、~生きることになる。もし、わたしたちがキリストと共に死んだのなら」とクドクドと語りかけます。つまり、「もし、死ななかったのならば、~生きることには決してならない」と。聖書自身が告げるところの『救い』の中身は、罪のゆるしです。罪あるままにいいよいいよと放置することではなく、平安平安と気安めを告げるのでもなく、罪の奴隷状態からの解放でありつづけます。罪から解放された者が神への従順に、具体的に現実的に新しく生きはじめることです。主の言葉は決して虚しくは語られない。語られたからには必ず成し遂げられます。主の言葉を信じることこそ、私たちのための慰めと希望の出発点でありつづけます。しかも、救い主イエスご自身が仰います。繰り返し、何度も何度も。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。「神の国は今やあなたがたの只中にある」。それは、いったいなぜでしょうか。この私たちのためにも、救い主イエスが、そこにおられるからです。