2019年12月9日月曜日

12/8「一人の男の子が生まれる」イザヤ書7:10-17


       みことば/2019,12,8(待降節第2主日の礼拝)  244
◎礼拝説教 イザヤ書7:10-17                       日本キリスト教会 上田教会
『一人の男の子が生まれる』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
7:10 主は再びアハズに告げて言われた、11 「あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ」。12 しかしアハズは言った、「わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません」。13 そこでイザヤは言った、「ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。14 それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。15 その子が悪を捨て、善を選ぶことを知るころになって、凝乳と、蜂蜜とを食べる。16 それはこの子が悪を捨て、善を選ぶことを知る前に、あなたが恐れているふたりの王の地は捨てられるからである。17 主はエフライムがユダから分れた時からこのかた、臨んだことのないような日をあなたと、あなたの民と、あなたの父の家とに臨ませられる。それはアッスリヤの王である」。         (イザヤ書 7:10-17)
                                               

1:20 彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。22 すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。    (マタイ福音書1:20-23)

まず10-14節。「主は再びアハズに告げて言われた、『あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ』。しかしアハズは言った、『わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません』。そこでイザヤは言った、『ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる』」。まず、冒頭の10節。「主は再びアハズに告げて言われた」。再び、2回目にです。では1回目にはアハズ王に対して何とおっしゃったのか? 4節、「気をつけて、静かにし、恐れてはならない」と。気をつけて、静かにし、恐れない(イザヤ書30:15,14:13-14,申命記31:8,列王記上19:11-12,ヨハネ福音書19-23参照)。神さまにちっとも信頼できないアハズ王は、まわりの国々と人々のことが恐くて恐くて、アタフタビクビクしつづけます。まわりの強そうな人々を恐れないで、静かに安心しているためには、神さまにこそよくよく信頼している必要があります。では、どうしたら神さまによく信頼できるでしょうか。どんな神さまだろう、神さまはどんな御心で、なんて仰っているかと耳を傾け、語られるその言葉によくよく気をつけていることです。もし、気をつけることも静かにしていることもできずにアタフタソワソワしつづけるなら、小さくなって、ビクビクビクビク恐れ続け、いつまでも臆病で心細いまま、惨めに淋しく暮らすことになります。主なる神さまはアハズ王の心があまりによこしまで、ねじ曲がっており、神の救いの約束を信じようとはしないだろうと分かっていました。そこで預言者イザヤに命じて、しるしを与えることによってアハズ王が神の言葉を信じることが出来るように手助けさせようとしました。ですから神を信じて生きる私たちは、『しるし』がどのように用いられるのかをよくよく注意して見ておかねばなりません。主であられます神は先祖と私たちのために、数々のしるしを差し出し続けました。私たちが神に十分に信頼を寄せて、聞き従い、信じて心安らかに生きることができるためにです。それこそが、神が多くの奇跡を行ったことの理由です。それら一つ一つは、先祖と私たちが神ご自身とその言葉に堅く信頼を寄せて生きるためのしるしです。先祖と私たちが神の言葉をなかなか信じられず、ためらい迷うとき、神の力が私たちの前に現わされ、なされて、この目で見た出来事の一つ一つが私たちの疑いを取り除きます。神の言葉に添えられて現わされた神の驚くべき奇跡の御業は、しるしとなり、私たちが神を信じて生きるための封印とされます。
11節、「あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ」。心を貧しく鈍くしてしまったアハズ王に対して、神はどんなしるしでも奇跡でも見せてあげようと招きます。それによって、信じられないあなたではなく、神を信じることのできるあなたとならせてあげようと。天にあるものでも、この地上にあるものでも、どんなものでも。とくに、「陰府のように深い所に」と語りかけながら、「私の支配はこの世界のなによりも高くあり、どんな深みにさえも及ぶのであり、墓穴にくだった者たちをさえ喜んでそこから連れ戻すこともできる」と。私たちが何をどう疑っても、神さまは疑う私たちを受け入れ、その疑いや迷いから連れ戻すことができる神です。言葉だけでなく、出来事をとおしても私たちの疑いや迷いを取り除いてくださいます。神を信じて生きようとする人々ばかりでなく、アハズ王のようなあまりに不信仰な者に対してさえ、「信じるあなたにならせてあげよう」と。
 12-14節、「しかしアハズは言った、『わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません』。そこでイザヤは言った、『ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる』」。わたしはしるしを求めて、主を試みることをいたしません。なんと皮肉なことでしょう。「いいえ、結構です。わたしは主を試みることを決してしませんから」(ルカ福音書4:12,申命記6:16参照)。賞賛すべき気高く信仰深い言葉を用いて、彼は神の申し出を跳ねのけます。これこそが、アハズ王の不信仰と心の鈍さの中身です。信仰深く敬虔なふりを装いながら、神の憐みを拒み、神に逆らいつづけ、薄暗がりの中に頑固に居座りつづける。サタンが彼の心を鈍くさせ、彼の目を曇らせつづけています。なぜなら、大事なのは主を試みないことではなく、主なる神に必要なだけ十分に信頼を寄せ、神に聴き従うことだからです。「しるしを求めなさい」という神の招きを跳ねのけたアハズ王の不信仰は、先週読んだ預言者イザヤの姿と見比べてみる中で、さらに明らかです。万軍の主なる神の聖なる御姿の前に恐れおののき、自分自身の罪と汚れとつくづくと思い知らされ、「ああ、わざわいだ。私は滅びるばかりだ。この私は死ぬほかない」と自覚させられたイザヤに対して、主なる神は一方的な恵みを差し出します。祭壇の上から取った燃え盛る炭火をイザヤの口に触れさせ、罪のゆるしを宣言し、彼を新しく生まれさせられました(イザヤ書6:1-7参照)。「しるしを求めなさい」とアハズ王に迫る神は、ここで預言者イザヤに対してしたのと同じことをしています。「神に信頼せよ」と求める言葉は、両刃の剣であって、罪と汚れに満ちたアハズに悔い改めをこそ激しく迫っています。「古い罪の自分」とキッパリ死に別れることを。けれどアハズは、信仰深いふりを装って、のらりくらりと不信仰の中になお居座ろうとし、神を押しのけ、神に背を向けて、罪を悔い改めようとしない頑固な心にどこまでもしがみついています。ああ。
 また例えば士師記6章のギデオンは、「本当ですか、本当ですか。確かに神を信じられるというしるしと証拠を私に見せてください。もう一度、もう一度もう一度」と言い募ったではありませんか。岩の上に置いたパンと肉を焼き尽くしていただいたり、羊の毛を地面の上に置いて羊の毛だけが濡れて地面が乾いているようにしてもらったり、逆に羊の毛が乾いていて地面を濡れさせていただいたり、もう一度もう一度と。また例えば、復活なさった救い主イエスは疑い深いトマスのためだけに、わざわざもう一度来てくださって、「さあ、あなたの指を私のてのひらの釘跡に差し入れ、わたしの脇腹の槍で刺された跡に差し入れて、気のすむまで何度でも何度でも、よくよく確かめてみなさい。信じないあなたではなく、信じるあなたとなりなさい」と彼に詰め寄ります。そこでようやく十分でした。手を伸ばしててのひらとわき腹の傷跡に差し入れてみるまでもなく、トマスは救い主イエスの御前にひれ伏して、「わが主よ、わが神よ」と喜びにあふれました(士師記6:17-40,ヨハネ福音書20:24-29。私たちの信仰を堅く強いものにしてくださろうとして神ご自身が支えの手を差し伸べてくださろうとするとき、その神の配慮を軽んじたり、侮ってはなりません。なによりも、私たちが主をこそ信じて生きるためには。
 主であられます神は弱く不確かである私たちを憐れんで、信仰のうちに堅く守り支えてくださるために、支えと助けの手段をいくつも用意しておられます。例えば、洗礼と聖晩餐という二つの礼典は、私たちを神のもとに据え置いて養い支えるための憐みの手段です。一人一冊ずつもっています聖書、讃美歌が恵みの手段の一つです。信仰の友が傍らに置かれていることが恵みの手段の一つです。キリストの教会自体もまた、私たちを神の恵みのもとに据え置いて守るための手段であり、恵みの道具とされています。神の救いの約束を信じるために差し出されようとした神からのしるしをアハズ王が拒んで退けたとき、あの彼は、自分が神に対してどんなに強情を張って恩知らずになっているのか、神の恵みをどんなに侮っているのかを、これでもかこれでもかと見せつけていました。
ですから、神はアハズ王が拒んでも、先祖と私たちが度々神に背くとしてもなお、憐みの手を差し伸べつづけます。13-14節、「ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」と。
 15-17節、「その子が悪を捨て、善を選ぶことを知るころになって、凝乳と、蜂蜜とを食べる。それはこの子が悪を捨て、善を選ぶことを知る前に、あなたが恐れているふたりの王の地は捨てられるからである。主はエフライムがユダから分れた時からこのかた、臨んだことのないような日をあなたと、あなたの民と、あなたの父の家とに臨ませられる。それはアッスリヤの王である」。少し説明します。小さな子供が悪を退け、善を選ぶ能力、つまり物心つくのがおよそ2、3歳頃なので、預言者はごく近い将来にその男の子の誕生を考えていたと思えます。「凝乳」は酸っぱくなりかけた乳で、しばしば皮袋の中で振って製造されました。「凝乳」と「蜂蜜」が幼いこどもたちの主食となるのは、戦争や略奪が横行して国が荒れ果て、人々がとても貧しくなった結果です。やがてこの数年後にシリヤが、次いで北イスラエル王国が滅ぼされます。他の何によってでもなく、神ご自身の手によってです。預言者は、神の御言葉のとおりに救いのときがすぐ目前に近づいたと実感しました。他方でアハズ王は、預言者の言葉が成就しようとしているとはまったく考えませんでした。かえって、自分がアッスリヤの王に使いをやって助けを求めたことがうまく運んで、危うい状況をまんまと切り抜けることができたと思い込み、ますます神の言葉からも神ご自身からも遠く離れ去り、周囲の人間たちや強い国により頼む姿勢を強めます。ますます心を頑なに頑固にして、不信仰と愚かさの中に座り込みつづけます。けれども神は、アハズ王が信頼するそのアッスリヤの王によって南王国ユダに大きな災いを及ぼします。やがて長い長い年月をへて、ヨセフと婚約していたマリヤが身ごもり、ヨセフがマリヤとひそかに離縁しようと思い巡らしていたとき、主の使いが夫ヨセフに現れてこう語りかけます。「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。福音書記者は預言者イザヤに告げられていたあの預言がここにこうして実現していると語りかけます。つまり、「すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』」(マタイ福音書1:20-23。それについては、来週ごいっしょに読み味わうことになります。

            ◇

さて、「インマヌエル」は「神が私たちと共におられます」、あるいは「神が私たちと深く結びついてくださった」という意味です。この言葉こそ、疑いもなく救い主イエス・キリストを指し示しています。神の独り子であられる神ご自身が低くくだって来られました。私たちの肉体を身にまといました。私たちの人間性を受け取って本当に人間となることによって、私たちとご自身とを深く堅く結び付けてくださったのです。まことの神であり、同時にまことに人間でもある救い主となられたことをもって、救い主イエス・キリストこそがインマヌエル、私たちと共におられる神であられます。
私たちの教会の信仰告白は、「われらが主と崇むる神の独子イエス・キリストは、まことの神にして、まことの人」と信仰を言い表します。まことの神であり、同時にまことに人間でもあられるという二つの本質が、私たちの主イエス・キリストという一個の人格の中に結びついてある。このことによくよく注意を傾けつづけなければなりません。「インマヌエル」、神が私たちと共におられます、神が私たちと深く結びついてくださった。「罪は犯されなかったが、それ以外のすべてのことにおいて、私たちと同じように試練に会われた」(ヘブル手紙4:15と聖書は証言します。私たちと同じ人間の肉体と血をもって私たちと共におられ、しかも同時に、このお独りのお方はまことの神であられます。福音書を読むとき、私たちの救い主イエス・キリストは弱り果て、喉をカラカラに渇かせ、空腹に耐えたと知らされます。私たちと同じように、涙を流して悲しみ、呻き、苦しみや痛みを味わいました。彼は私たち人間の心を知っておられ、私たちの弱さ、惨めさ、心細さを思いやることができるお方です。
しかもなお、それだけでなく、ご自身のためにもこの私たち一人一人のためにも、悪魔のあらゆる誘惑や攻撃を退けることができるお方です。弟子のトマスがご自分に、「わが主よ、わが神よ」と呼びかけることをお許しになり、「アブラハムの生まれる前から私はいるのである」と、また「私と天の御父とは一つである」(ヨハネ福音書8:58,10:30,20:28と断言なさいました。このお独りの方こそ万物の上にいます神であり、御父から天と地のすべて一切の権威を授けられた永遠の神の御子です。彼の御手の中から私たちを奪い取ることのできる者など誰もおらず、もし、この救い主イエスを信じて生きることができるなら、私たちは、もはや誰をも、またどんな困ったことをも恐れなくてよいし、だから晴れ晴れと暮らして、生きて死んでゆくことさえできるのです。