2018年12月10日月曜日

12/9「暗黒と死の陰にさえも」ルカ1:67-80


                     みことば/2018,12,9(待降節第2主日の礼拝)  192
◎礼拝説教 ルカ福音書 1:67-80                      日本キリスト教会 上田教会
『暗黒と死の陰にさえも』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
1:67 父ザカリヤは聖霊に満たされ、預言して言った、
68 「主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。
神はその民を顧みてこれをあがない、
69 わたしたちのために救の角を僕ダビデの家にお立てになった。
70 古くから、聖なる預言者たちの口によってお語りになったように、
71 わたしたちを敵から、またすべてわたしたちを憎む者の手から、救い
  出すためである。
72 こうして、神はわたしたちの父祖たちにあわれみをかけ、その聖なる
  契約、
73 すなわち、父祖アブラハムにお立てになった誓いをおぼえて、
74 わたしたちを敵の手から救い出し、
75 生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださ
 るのである。
76 幼な子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう。
主のみまえに先立って行き、その道を備え、
77 罪のゆるしによる救をその民に知らせるのであるから。
78 これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。
また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、
  79 暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くで
    あろう」。            (ルカ福音書 1:67-80)

  ザカリヤとエリサベツ、年老いた一組の夫婦の姿に目を凝らしつづけてきました。ずっと長い間、心の底から願いつづけてきた大切な願いがとうとう神さまの恵みによって叶えられると告げられて、けれどザカリヤはそれを信じることも受け取ることもできませんでした。「私たちはずいぶん年を取っている。だから、こんな私たちには出来るはずもない」(1:18)と。それでザカリヤは、約束の赤ちゃんをその手に抱くときまでは口が利けなくされてしまいました。それはただの罰や懲らしめではありませんでした。では何? 本当に大切なことを語りはじめるために、そのための準備の時間を与えられたのです。
  ザカリヤはあのとき神殿で、「その子をヨハネと名付けなさい」(1:13)と命じられていました。だから、エリサベツも彼も、「ヨハネとする。それは好き嫌いの問題ではなく、しきたりや作法や社会常識に倣って決めることでもなく、皆がどう思うかどうしたいかと周囲の人々の意見に従って決めることでもない。なにしろ神さまがそうせよとお命じになるで、だから私たちは主なる神さまにこそ従って、ヨハネと名付ける。そう名付けなければならない」。ヨハネという名前は、《主は恵み深い》という意味です。神さまからの恵み、贈り物、憐れみという意味です。その一人の人が地上に生命を受けて生きることも、その人そのものも、神の恵みであり、神からの贈り物であるということです。一個のキリスト教会がその地に根を張って伝道をしつづけ、群れが養われつづけてきたことも、私たちが神を信じて生きる者とされ、そのようにして一日一日を暮らし、職を得てそれぞれの働き場で働き、家庭を築きあげてきたことも、健康を支えられ、幸いと喜びを与えられつづけてきたことも、それら一切は、ただただ《主は恵み深い》という現実によったのです。さて、68-79節の讃美の歌を味わいましょう。主は恵み深い、という歌です。
 68-75節。あの赤ちゃんの父であるザカリヤは、「聖霊に満たされ、預言して言った」;聖書66巻全体がそうであるように、ザカリヤというごく普通の、どこにでもいるいような生身の人間の口を用いて、神ご自身が、ご自身を明らかに示しています。また、その御前に、この私たちがどういう者たちであるのか。その幸いと祝福の内容を、神さまご自身が、この私たちに告げようとしておられます。
 69節。「救いの角」は、救い主ご自身であるイエス・キリストのことです。「ダビデの家に」。そして73節、「すなわち父祖アブラハムにお立てになった誓い」;ダビデの家系・血筋から、救い主が起こされる。それはアブラハム契約へとさかのぼる旧約聖書、新約聖書を貫く同じ一つの契約です。《神さまと神の民との間に交わされた救いの契約》です。「救ってあげますよ」と神さまが招き、手を差し伸べてくださり、先祖と私たちは「はい。どうぞ、よろしくお願いいたします」とその招きに応え、差し出されたその手を握り返したのです。これが救いの契約、そこで神と先祖との間に、またその同じ神さまと私達との間にも同じ一つの契約が結ばれました。70節、「古くから、聖なる預言者たちの口によってお語りになったように」;旧約聖書の証言そのままに、それが神ご自身によって成し遂げられました。その聖なる契約の本質は『主の憐れみ』です。「憐れみ。憐れみ。憐れみ」(72,78)と執拗にクドクドと3回繰り返されていることを、私たちはよくよく肝に銘じねばなりません。救い主によって成し遂げられるこの救いの御業の全体は、主の憐れみによってこそ貫かれ、すっかり覆われているのです。
 71節「私たちを救い出すためだ」と断言しています。72-73節、主は我らの先祖を憐れみ、また私たちをも憐れみ、その憐れみをもって誓ってくださった救いの約束をちゃんと覚えていてくださるというのです。それならば、私たちもまた、「神さまが先祖と私たちを憐れんでくださって、だから」という肝心要をはっきりと心に刻み、よくよく覚えておく必要もありますね。74-75節、「私たちを救い出し、生きている限り、みまえに恐れなく仕えさせてくださる」。ここです。私たちが現に確かに救われたこと、救われつづけて今日ここにあるを得ておりますことには、はっきりした目的があったのです。あるいは、その確かな恵みには、はっきりとした、誰にでもすぐ分かるはずの実りが伴ってあるのです。《恐れなく主なる神さまに仕える》ことこそが目的であり、救いと恵みの結果です。神さまに仕えつづける中で私たちは救われ、罪深さや自分勝手さ、心細さ、心が頑固になってしまうことから解放され、いつの間にか根深く抱えつづけてしまったそれぞれの《恐れ》から解き放たれつづけます。もし一回の礼拝が、そのことを兄弟らと共々に味わう格別なときとなるなら幸いです。これこそが、その一回の礼拝の根本の目標・願いとなり、一つ一つの営み、その人の生活の目標や願いとなります。例えば、来年1月末の定期総会の日に、私たちは長老や執事をどのように選挙すべきでしょうか。「これもまた、我らの神の憐れみの心による」し、その憐れみを心底から本気で受け止めながらの選挙でなければならないと弁え、心得ながら、その一つ一つの選挙に取り組むのです。この私が一票を投じようとするあの相手は、「この一つの働きをもってさえ、恐れなく主に仕える」と、そのことをこそ願い求め、神さまこそがきっとそうしてくださると確信する中でこそ、その投票用紙にその人の名を書きしるすべきです。「はい。喜んで、主に仕えさせていただきます」(ヨシュア24:1-22)と、その人はきっと晴れ晴れして応えるだろうと。また、私もその人に対して精一杯に自分の責任を果たしてその人を支え、慰め、その人が苦境に立つとき、私はその人の傍らに立って、一緒に、精一杯にその重荷をその人といっしょに担おうと。こうしたことを心底から受け止めることができるかどうかが、キリストの教会にとって、私たち一人一人のクリスチャンにとって、決定的な分かれ道となります。「これは、我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって」という福音の宣告を、私たちは決して建前や単なる形だけ名ばかりのスローガンとしてはなりません。共々に、恐れなく主に仕える。今ここで、それをしている。いつどこにいても、誰と何をしていても、教会でも家にいても道を歩いていても、あなたのいつもの職場でも、そこでそのようにして恐れなく主に仕えることであり、それへと私たちを向かわせると目を凝らしながら。75節で、「御前に、恐れなく仕えさせてくださるのである」と語られました。「主に仕えることは、義務・使命・努力目標であることを遥かに超えて、軽々と飛び越えて、ただただ恵みの贈り物」だったのです。
  75節。主なる神さまに仕えることは、生涯、生きている限りつづきます。それは、御前に「清く、正しく、恐れなく」成し遂げられつづけます。「清く、正しく、恐れなく」という三つの在り方は、「神さまの御前に」という前提をもちます。主なる神さまの御前にあって、だから、そこでようやくと。しかも、正しくて完全無欠な人間など独りもいないのです(ローマ3:9,創世記8:24-。高潔で清らかな者などただの一人もなく、正しいものもなく、けれど、にもかかわらず清く正しく。どういうことでしょうか。77-79節「罪のゆるしによる救いをその民に知らせるのであるから。これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くであろう」。罪のゆるしという、決して欠くことのできない大前提がありつづけます。罪のゆるしあってこそ、その上に足を踏みしめてこその私たちです。「どうぞゆるしてください」とゆるしを請い求め、「ありがとうございます」と受け取り、ゆるされつづける中でこそ、そこでだけ、「清く、正しく、恐れなく」という在り方がかろうじて成り立っています。決して清いわけじゃなく、正しいわけでもなく、恐れるほかない私たちです。強がって見せても、やせ我慢して取り繕っても、本当は誰でも皆とても心細いのです。じゃあ、私たちはどうしたらいいでしょう。だからこそ私たちはみな神の憐れみの計らいの只中に置かれている。
 78-79節。「私たちの足を平和の道へ導くであろう」;平和の道も、ここまで味わい確認してきたこととまったく同様です。神さまからの憐れみと、そのようにして成し遂げられる「罪のゆるしによる平和の道」です。神の憐れみの計らいの只中にある「平和の道」です。十字架におかかりになる前の晩に、主イエスは弟子たちにおっしゃいました。「父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」と。また、弟子たちが人々を恐れて家の中に閉じこもっていたとき、復活の主があらわれて、「安かれ」と語りかけ、手と脇の傷を見せてくださいました。さらに「安かれ。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもまたあなたがたを遣わす」(ヨハネ福音書14:26-27,20:19-21と。弟子たちが二人ずつ組にして町々村々へと遣わされたときにも、彼らは「平安がこの家にあるように」と言うように命じられました。聖書は証言しました、「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい」(コリント手紙(2)5:17-20平和の道。安らかであること。それはもちろん、第一に神さまとの平和です。だからこそ、お互いどうしの平和や安らかさともなったのです。神さまに敵対し、逆らっていた私たちとこの世界が神と和解させられ、神さまとの平和のうちに生きる者とされます。それは救い主イエス・キリストにおいて成し遂げられました。しかも私たちは、その平和の使者とされています。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。つまり、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任を世界にも私たち自身にも負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。私たちの罪過の責任を私たち自身に負わせることをしなかった。それは、神に背く罪と反逆のすべて一切を救い主イエスが十字架の上で担ってくださったからでした。だからこそ、その十字架のしるし、てのひらの釘跡、脇腹の槍で刺された傷跡を見せられて、そこでようやく弟子たちは主イエスの平和を受け取り、その格別な平和によって喜びにあふれました。そのようにただ恵みによって、ただ憐れんでいただいて、神との平和の中に招き入れられた私たちですから、その神さまからの平和を携えて出てゆき、その平和を持ち運びながら生きる者たちとされました。それが、私たちが平和の使者とされていますことの中身です。神との平和、人々との平和。それを差し出す前にまず私たち自身がそれをよくよく受け取り、味わい、魂に深々と刻みつづけねばなりません。だからこそ、すでに救い主イエス・キリストを信じて生きてきた私たちに対して、改めて、新しく命じられます。「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。まず、あなた自身こそが受け取りなさい」と。