2018年12月28日金曜日

12/23「大きな喜びが与えられる」ルカ2:8-20


                 みことば/2018,12,23(クリスマス礼拝)  194
◎礼拝説教 ルカ福音書 2:8-20                          日本キリスト教会 上田教会
『大きな喜びが与えられる』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


2:8 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。9 すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。15 御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。16 そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。17 彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。18 人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。19 しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。20 羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。  (ルカ福音書 2:8-20)

  今から2000年も前のことです。遠い外国の片田舎の家畜小屋のエサ箱の中に、1人の赤ちゃんが生まれました。クリスマスの季節だけではなく、私たちが生きる毎日の普通の生活の只中に、この方こそが格別な平和と幸いをもたらす。と聖書は語ります。さて、それならこの嬉しい知らせを、誰が真っ先に耳にしたでしょう。8節。それは羊飼いたち、そして羊たちです。羊って、どういう生き物でしょう。他の動物と比べてみると、羊がどういう生き物なのかが少し分かります。生き物には、それぞれ自分の身を守って生き延びてゆくための武器や道具が与えられています。けれど羊には、熊のような強い腕もなく、するどい角や牙があるわけでもなく、逃げ足が速いわけでもなく、ウサギのように何でも聞き分ける良い耳があるわけでもありません。とても弱くて、あまりに無防備な生き物です。それで強い腕や角や牙や良い耳や速い足の代りに、羊には愛情深い良い羊飼いがいてくれます。羊が安心して晴れ晴れとして生きてゆくためには、ただただその羊飼いだけが頼りです。さて、弱くて心細いのは羊ばかりではありませんでした。その世話をする羊飼い自身は社会の一番底辺に暮らす貧しい人たちです。生活もとても不安定て、先の見えにくい心細い暮らしです。彼らはしばしば疲れ果て、がっかりして落胆しました。羊たちに草を食べさせながら、山や谷をめぐって旅をするように生きる。悪天候の日々があり、野の獣たちが羊を狙って襲いかかってきます。羊ドロボウも闇に紛れて忍び寄ります。羊飼いたちは羊を守って寝起きを共にし、寒空の下で野宿もし、眠い目をこすりこすり夜通し番をして生きるのです。実は私たちも、彼らの労苦や心細さを知っています。小さな子供たちも若者も、家族を養って暮らす父さん母さん達も年配の人たちも。危険な旅をしつづけて野宿をするように、夜通し寝ずの番をするようにして、私たちは家庭を守り、家族や自分自身を養って生きてゆきます。「山の向こうの次の土地には良い草がたくさんあるだろうか。うちの羊たちときたら『この草はまずい。固くてスジっぽい。少なすぎる。食べ飽きた。ほかの、上等な草を。もっとうまい水を』などとブツブツ文句ばかり言う。さあ困った。今日は、あの羊たちに何を食べさせてやろうか。熊や狼は襲ってこないだろうか。これから、どうやって私たちは暮らしていこうか」と心を砕いて、しばしば深く思い煩いながら生きています。私たちと、この羊飼いとは、すると、なんだかよく似ていますね。
 天使たちは「恐れるな」と告げました。恐れつづけてきた彼らでしたし、恐れるべきことが山ほどあります。「恐れるな」;それは、《恐れないあなたとしてあげよう。最初のクリスマスの夜に家畜小屋のエサ箱の中に生まれた1人の赤ちゃんによって。あの小さな、裸の赤ちゃんによって、恐れないあなたとしてあげよう》という神さまからの招きです。神さまからの約束と招き。この救いの約束を私たちは信じて生きることをし始めました。だから、私たちはクリスチャンです。
 10-12節。民全体に与えられる大きな喜び。大きな喜びというのは、けれどどれくらい大きいのでしょう。ほんの一握りの何人かが喜ぶだけでは、その喜びは大きくはありません。片隅に押し退けられた人が淋しい惨めな思いをしているようでは、喜びは大きくはありません。置き去りにされた人たちが「どうせ私は」といじけて下を向いているようでは、その喜びは安っぽすぎます。「すべての民に与えられる、みんなのための喜び」。しかもそれは、あなたのためにも用意されている、というのです。《神を知ること》は、もはやただユダヤ人だけの専売特許ではなくなり、すべての人々に差し出され、それまでは神を知ることもなかった人にも明け渡されます。それで教会の入口脇の案内板には、『誰でも自由に来てみてください』と、いつも書き添えられています。教会の人々がそのように招いているというだけではなく、実は、神ご自身がそのように招いておられます。誰であれ、どんな職業の、どこに住んで何をしている人であっても、救い主を受け入れることができるほどに低い心の持ち主なら、あなたもぜひ、と招いておられます。なにかの条件や資格が必要なのでもなく、体裁を取り繕うこともいらず、そのままで来なさいと招きます。
 キリストの教会とは、何者でしょう。クリスチャンとは、いったい何者でしょうか。もちろん、何者でもありません。ただ、「恐れるな」という神様からの呼びかけを聞いた者たちです。「恐れるな」と告げられて、恐れている自分に気づかされ、恐れるほかない山ほどの事柄に取り囲まれた、とても心細い自分であることを突きつけられ、「恐れることのないあなたとしてあげよう」というその神様からの約束を信じた者たちの集団です。「大きな喜び」と語りかけられ、そこで、自分がそれまで拘っていた喜びや恐れが案外にちっぽけな安っぽい、コロコロと移り変わってゆくあまりに不確かな喜びや恐れだったじゃないかと突きつけられた者たちです。例えば1人の小さな人はつぶやきます、「私には価値がない。なんの取り柄もなく、特別何かの役に立つというわけでもなく、目を引くような長所もない」と。淋しい一人の人は言います、「ほかの人が何を考えているのか、さっぱり分からない。私の思いを誰も分かってくれない。誰も私のそばにいてくれず、支えてくれず、私は独りぼっちだ」と。貧しい一人の人は言います、「私は嫌われてしまいそうだ。居場所をなくし、みんなから見捨てられるかもしれない。それが恐ろしくて仕方がない私だ。うわべを必死に取り繕い、愛想笑いを浮かべ、自分を隠してビクビクして生きている」と。上がったり下がったりし、満足したり不満に思ったり、安心したり心配になったり、一喜一憂しつづけてきた私たちです。「恐れることにないあなたとしてあげよう。自分が恐れないばかりか、他の誰をも恐れさせたり、恥じ入らせることのない晴れ晴れとしたあなたとしてあげよう」「自由な、広々とした世界に連れだしてあげよう」「朽ちることのない、虫に食われたり、泥棒に盗まれたり、しぼんだりしない平和と喜びとを与えよう」と告げられて、その招きに応えて生きることをし始めた者たちです。差し出されつづけてきた、その招きの声を腹に収め、差し出されつづけていた神さまの御手を握り返す者たちがいます。「どうぞよろしくお願いします」と。そのようにして、世界中のあちらこちらで、1人また1人と、クリスチャンが生み出されていきます。新しくクリスチャンとして生きることをしはじめようとするその人をご覧ください。彼は、いったい何者でしょうか。『誰でも自由に来てみてください』と招かれ、その招きを受け取った人です。誰であれ、どんな職業の、どこに住んで何をしている人であっても、救い主を受け入れることができるほどに低い心の持ち主なら、あなたもぜひと招かれ、なにかの条件や資格が必要なのでもなく、体裁を取り繕うこともいらず、そのままで来なさいと招かれ、「はい。どうぞよろしくお願いいたします」と、ワクワクしながら、喜び勇んでその手を握り返した人です。その人の、その願いはかないます。神さまが、その人のためにも成し遂げてくださるからです。
  天使たちは言いました、12節、「あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」と。それがあなたがたのための救い主であり、幸いな暮らしのためのしるしだというのです。今日は、この1人の赤ちゃんについて思い巡らせるための日です。御使いたちとともに天の軍勢が神を讚美して歌います。14節、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。他の何よりも高いところで、神に栄光がある。そのことと、地上の私たちが毎日の生活を生きるこの世界に平和があること。それは1つの出来事です。世界のすべてをお造りになった神にこそ信頼が寄せられ、神さまこそがほめたたえられ讚美され、神の御心にかなってぜひ生きていきたいと願う者たちが一人また一人と起こされてゆく。やがてこの赤ちゃんが、救い主イエス・キリストが、弟子たちにどのように神に祈るのか、どのように毎日を暮らしてゆくことができるのかを教えました。救い主イエスがおっしゃいました。こう祈りなさい、「天におられます父なる神さま。願い求めます。あなたの御名をあがめさせてください。あなたの国をこの地上に来らせてください。あなたの御心にかなうことが天の高いところで成し遂げられるばかりではなく、この地上に、世界中に、私たちが生きる毎日の暮らしの只中にさえも着々と成し遂げられてゆきますように。この私自身も、自分や他誰彼の考えや思いに従ってではなく、ただただ神さまの御心に聞き従って生きることができますように」(「主の祈り」前半3つの願い。ルカ福音書11:1-4参照)。だからこそ、そこで生み出されていく喜びはほんの何人かのものたちだけの喜びではなく、分け合ったり、手渡されたり、差し出されたりしつづけて、多くのものたちのための大きな喜びとされてゆきます。だからこそ、その喜びの知らせは恐れつづけて生きてきたもっとも貧しい心細い者たちに、羊たちを守って暮らす羊飼いたちに真っ先に告げ知らされました。そこから、大きな喜びの知らせが告げ知らされつづけ、末広がりに広がってゆくように。なぜなら、強がって見せても、誰もがみな心細く暮らしているからです。互いに恐れたり恐れさせたり、恥じたり恥じ入らせたりしつづけて暮らしているからです。恐れない私たちとされ、何者をも恐れることなく、誰かを恐れさせることもなく、互いを喜び合って心安く生きる私たちとならせたいからです。それが、神さまご自身の願いです。

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 20節です。見聞きしたことがすべて語られたとおりだったので、あの彼らは神をあがめ、讃美しながら帰っていきました。帰っていった。どこへでしょう。自分の家へです。自分のいつものあの働き場所へ。一緒に生きるべき人々の所へと。つまり、あの羊たちの所へ。「なんだ。帰ってしまったのか」と馬鹿にしてはいけません。見くびってはなりません。帰っていったそれぞれの場所で、そこで、いよいよ神をたたえて生きるための悪戦苦闘がはじまります。ただお独りの主に仕えて生きるための、月曜から土曜日までの働きが。ゆるされがたい多くの背きをゆるされ、受け入れがたいふつつかさを、身勝手さやかたくなさを、けれどなお受け入れていただいた私たちです。それで、だからこそ、こんな私たちさえここにいます。貧しさもいたらなさも、それはお互い様でした。貧しく至らない者同士です。確かに。また、だからこそ恵みとゆるしのもとにある平和を積み上げ、築き上げていくための悪戦苦闘が、今日ここから、いよいよ始まっていきます。私たちも、安心して神さまに向かって呼ばわります。「助けてください。どうか支えてください」と。一緒に生きるあの小さな羊たちと共にです。神様に向けて「ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」と感謝や願いを噛みしめます。あの大切な羊たちと共に。
 山や谷を巡り歩く旅路は、まだなお続きます。ここで忘れてはならないことは、この旅路は主が群れの先頭を進み、しんがりをまもって共に歩んでくださる旅路であるということです。「主は羊飼いとしてその群れを養い、その腕に子羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」(イザヤ書40:11,52:12参照)