2018年11月7日水曜日

11/4「神には何でも出来る」ルカ1:26-38

                        みことば/20178,11,4(主日礼拝)  187
◎礼拝説教 ルカ福音書 1:26-38                      日本キリスト教会 上田教会
『神には何でも出来る』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC



1:26 六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。27 この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。28 御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。29 この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。30 すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。31 見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。32 彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、33 彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」。34 そこでマリヤは御使に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。35 御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。36 あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。37 神には、なんでもできないことはありません」。38 そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。(ルカ福音書 1:26-38)

 28節です。主の御使いがマリアさんの前に現れて、「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます」と告げました。でも、どうして、私やあなたではなく、あのマリアさんだったのでしょう。私たちの周りにも、「この人は素晴らしい。この人は、他の誰よりも気立てがよくて、誰よりも親切で働き者で、やさしい心を持っていて。神さまのことを、誰よりもよ~く信じているらしい」と見える人たちがいて、私たちは感心したり、誉めたり尊敬したりします。確かに。「それに比べて、こんな私は」と自分を振り返ってガッカリしたり、羨ましくなったり、惨めな淋しい気持ちになっていじけたりします。「いいなあ、マリアさんは。羨ましいなあ、とても恵まれていて、神さまがマリアさんと一緒にいるんだって。私なんか、ほんのちょびっとしか恵みをもらってないし、神さまは私なんかと一緒にいてくれたためしがない。いつも他の人たちと一緒にいてくださるだけで、こんな私のことなんか、神さまも他の人たちも見向きもしてくれない。ああ、がっかりだ」と、うっかりして勘違いしている人たちがいます。けれど、なぜ、あのマリアさんだったのか。聖書は、《ただ恵みによって。ただただ憐れみによって。他には何の理由もない》と答えます。けれど、いくら繰り返し繰り返し聞いても、ほとんどの人々は納得しません。「またァ。やっぱり元々、何かがその人にはあったんだろう。見所や、心の清さや、謙遜さや素直さが。とびっきりの信仰深さがあって、だから、あの格別な人たちは」と、今でもほとんどの人たちがそう思っています。《ただ恵みによって。ただただ神さまの憐れみによって》という答えに納得できず、その答えをなかなか受け入れることができない。その理由は、私たちの育ちや受けてきた躾にあります。また、もって生まれた私たちの性分にあります。だって私たちの多くは、そんなふうには育てられず、そんなふうには扱われて来なかったからです。思い出してみてください。例えば中学校や高校の学級委員や生徒会長は、どういうふうに選ばれましたか。また例えば、教会の長老や執事たちは、どういうふうに選ばれていますか。お勉強がよくできて、先生の話をよく聞いて、人前で堂々とスラスラ話せて、皆に信頼される頼りになりそうな人が選ばれた、かも知れません。私たちは子供のころ、家の手伝いをよくして、ハキハキと返事や挨拶ができて、すると「まあ。とても良い子ね。大好きよ」と頭を撫でられました。グズグズしていると、「まあ、役たたずな悪い子ね。シッシッ」と追い払われました。大人になってからもそうです。上司に気に入られ、職場で大切に扱われ、認められて出世するためには、何かが出来なければなりませんでした。何か、素敵な所を、なんとしても人に見せなければなりませんでした。よい成績をあげなければなりませんでした。「愛されるためには、何かがなければならない。人様から認められるためには。良いモノを受け取るためには」と、私たちは必死に努力を積み重ねてきました。それがこの世界のルールです。当然、そのルールどおりに、自分が判断され扱われてきたやり方のままに、あなたも他の人や友達を同じように扱ってきたでしょう。「私が愛し、尊重し、認めて受け入れるためには、その人にふさわしい何かがなければならない。さあ。あなたの資格と条件と十分な働きを見せてごらんなさい」と。そうしたモノの考え方ややり方が染みついているあなたや私たちには、《ただ恵みによって》という答えは、あまりに難しく、分かりづらく、受け入れがたい。しかも、そんな答えは、私たちの性分に合わず、正直言って、私たちはあまり好きではありません。だからです。だから私たちは、しばしば神さまの現実を見失い、神が生きて働いておられることなど思いもしなくなりました。それこそが、私たちに対するサタンのいつもの策略です。その罠にかかって、私たちは、神さまのことをほんの少しも思わず、「この人が。あの人たちが。それに比べて、こんな私は」と人間のことばかり思い煩いつづけました(マタイ16:23参照)
 もう一度申し上げましょう。何度でも何度でも、申し上げましょう。私たちの主なる神さまは、生きて働いておられます。その神さまにできないことは何一つありません。一個のキリストの教会が建っていることも、一人のクリスチャンが立っていることも、その信仰も、信仰をもって生きることも、そのすべてが、この《ただ恵みによって》という一点にかかっています。一人のクリスチャンを誕生させること。心を迷わせていた一人のクリスチャンが《私は、神を信じて生きるクリスチャンである》という中身をもう一度見出し、回復させること。とても難しいことです。けれども神さまになら、できます。人との関わりの中で傷つき、心を痛めてガッカリし、神の恵みのもとから立ち去って行った兄弟を、もう一度、恵みとゆるしのもとに立たせることも、そんなとてもとても難しいことだって、神になら出来ます。もし、憐れみと慈しみの神さまがその人を顧みてくださるならば。その人が、「私が悪かったです。ごめんなさい」と神さまからの憐れみとゆるしを受け止めることができるならば。神ご自身が、その人を、がっちりと捕まえていてくださるならば。
  主の御使いはマリアさんに言いました。「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます」(28)と。さて、あのマリアさんがヒイキされて、特別扱いされているんでしょうか。ほかの誰彼に比べて、彼女は2倍も3倍も恵まれていたのでしょうか。それなら、あなたに対する神の恵みは、どの程度でしょう。《主が、マリアさんと共にいてくださる。聖霊が、彼女に下り、いと高き方の力が彼女を包む》;だから、あの彼女は恵まれている。はい、分かりました。それなら、その同じ主は、あなたと共にはおられないのでしょうか。神さまの霊は、あなたにはさっぱり降らないのでしょうか。いと高き方の力は、あなたを包んだことがなかったのでしょうか。一人の私は、同じ一つの関門の前に、繰り返し立たされました。《できないことは何一つもない神さまが、あなたに対しても、恵みの出来事を起こそうとして準備し、待ち構えておられる。あなたは、これを信じるか?》。
  ……「はい信じます。なぜなら私は主人ではなく、あなたこそがご主人さまです。この私がどう思うか、私に何ができるかが肝心要なのではありません。あなたこそ、ただお独りのご主人さまです。私は主のしもべにすぎません。しかも、下っ端の下っ端の下っ端の。どうぞ、お言葉どおり、この身になりますように」。難しい関門をなんとか乗り越えたと思って、しばらく旅路を進み、また同じ関門です。《できないことは何一つもない神さまが、目の前に置かれたこの一つの事柄に対しても、この一人の小さな人のためにも、恵みの出来事を起こそうとして準備し、待ち構えておられる。あなたは、これを信じるか?》。「……はい信じます」。しばらく進むと、また同じ関門です。生涯の間に、いったい何回、私たちは問われることでしょう。何回、「はい信じます。お言葉どおり、この身になりますように。どうぞ、よろしくお願いいたします」と答えるでしょう。「はい信じます」と、ぜひ、この私も答えつづけたいのです。
 今こそ、本当のことを告げましょう。主の御使いは、あの時、ガリラヤ地方のナザレの町に送り出されました。確かに。けれど神さまの憐れみを受けた子供たち。気の遠くなるような長い長い長い歳月をかけて世界中いたるところに、主の御使いは送り出されつづけてきました。ノアにも告げられました。「恵まれた方よ、おめでとう」と。アブラハムとサラにも。モーセ、ギデオン、エレミヤ、パウロにも、ペトロにも、トマスくんにも「おめでとう」と。神さまの恵みの計画の中に選び出され、捕まえられ、喜ばしい働きと役割のために用いられたたくさんの信仰者たちがいました。けれど、それだけではありません。やがてとうとうこの山深い長野県にも主の御使いは乗り出し、ついにとうとう霊泉寺地区、佐久平、塩田平、長瀬や上田界隈にまでも送り出された主の御使いが、どこにでもいるような、ありふれたごく普通の人たちの前に立ちました。「恵まれた女よ、おめでとう。恵まれた男よ、恵まれた年配の方々よ、恵まれた小さな子供たちよ、おめでとう。主があなたと共におられます」(28)。その人々は驚いて、戸惑いながら答えます。「どうしてそんなことが有り得ましょうか」。私も妻も年老いて、心細い年金暮らしなのに。あるいは、若すぎて未熟で、社会や人生や人間についてもあまりよく分かっていないのに。私は病気がちで体も心も弱くて、たいしてお役に立てませんから。だって、なんの財産も資格も取り柄もなくて、人様に自慢できるような格別な能力も才能もなく働きも少なく、かえって足手まといになるかも知れませんから、ですから。
  「神には、なんでも出来ないことはありません」と聖書は語りかけます。この箇所ばかりでなく、繰り返し何度も何度も(創世記18:14,エレミヤ32:17,ヨブ42:2,マタイ3:9,19,26,ルカ1:36-37)。なんでもできる神、全能の神。「正直なところ信じられない」という人々が大勢います。「そんなこと考えたこともないし、興味もない」という人々も。他の人たちならいざ知らず、少なくともクリスチャンなら神にはなんでもできると信じているのかというと、案外そうでもない。奇妙なことです。「神さまにほとんど何も期待しないし、本気で願い求めることもしない」というクリスチャンさえ今では大勢いるそうです。ビックリですね。「もちろん神さまを信じてるけど、その神さまはまるで背後霊のように、ただなんとなく一緒にいてくださって、ただニコニコして黙~って見守っている。すると、なんとなく落ち着くしほんの少しは心強いような気もする」などと言うクリスチャンもいるらしいです。実は、「神にできないことは何一つない」という教えこそが、ぼくが高校生の頃に信じるのをいっぺん止めた理由でした。「何でもできる全能の神がいるくせに、どうして戦争や人殺しや、あちこちの悲惨な事件がなくならないのか。飢えて死ぬたくさんの子供たちや民族紛争や」けれど、高校生の僕に誰も納得できるように答えてくれなかった。それで嘘っ八だと思って神さまを信じることを止めました。十数年経って、30歳のころ、ようやく教会に戻ってきました。戻ってくるきっかけも、『神にできないことは何一つない』という同じ一つの教えによってです。とても困ったときに、家族や友人たちは、ある程度なら助けてくれます。お医者さんも、風邪をひいたときなど、ほどほどには役に立ちます。夫婦も親子も。じゃあ、連れ合いは、私の父さん母さんは。子供たちは、必要なことを何でも十分にしてくれるのか。いいえ、できることとできないことがあり、むしろ、してあげたくてもできない場合が多くあります。「最後の最後は自分が頼り」ああ、そうですか。なるほど。じゃあ、あなたはどうですか? 自分自身と家族の生活に対して、あなたは、必要なだけ十分にどこまででも責任を負い通すことができますか。家族や子供たちは、あなたのことを、いつでも何が起こっても、すっかり当てにしてていいんですか。頼り甲斐のあるあなたですか。――30歳のとき、崖っぷちに追い詰められて、ぼくは自分自身を振り返って、必死になってつくづくと考えてみました。当てになる自分か。自分を頼りとして心安く生き抜いてゆくことができるだろうか。いいや無理だ、と思いました。いくら歯を食いしばっても、この自分はあまり頼りになりません。じゃあ、それならば、家族と一緒にいったいどうやって生き抜いていこうか。もし本当に、何でもできる神さまがいるなら、その神さまを頼りとして、その神さまをこそ本気で信じて生きていきたいなあと願いました。ぜひそうしたい。それから30年程たちました。大当たりでした。この神さまこそは、頼りになる神さまでした。聴き従い、一途に願い求め、全幅の信頼を寄せるに足る神さまでありつづけます。
  しかも兄弟姉妹たち。何でも出来る神がこの私たちのために、いったい何をしてくださったでしょう。その中で最も大きく、驚くべき出来事は、救い主イエスがご自分を低くして、どこまでも低く身を屈め、十字架の死に至るまで御父への従順を貫き通してくださったことです。私たち罪人を、ぜひなんとしても救おうとなさって。御父がご自身の御子をさえ死に渡されたことです(ピリピ手紙2:6-11,ローマ手紙8:31-32参照)。「惜しまないで死に渡した」と報告されています。もちろん御子の生命を惜しまなかったはずはありません。惜しくて惜しくて仕方がなかったでしょう。それでもなお、それよりも私たち罪人が滅びるままに捨て置かれることをこそ惜しみ、心底から憐れに思ってくださった。神が渡したたちを愛したとは、このことです(ヨハネ手紙(1)4:10。そのように御子をさえ死に渡した方が御子だけでなく、御子とともにすべてのものを贈り与えてくださらないはずがあるでしょうか。いいえ、決してありえません。なんという恵み、なんという幸いでしょう。