2018年10月30日火曜日

10/28こども説教「ユダのこと」使徒1:15-22 +チャーチコンサートでの聖書の話


 10/28 こども説教 使徒行伝 1:15-22
 『ユダのこと』
      +チャーチ・コンサートでの聖書の話10/28

     1:15 そのころ、百二十名ばかりの人々が、一団となって集まっていたが、ペテロはこれらの兄弟たちの中に立って言った、16 「兄弟たちよ、イエスを捕えた者たちの手びきになったユダについては、聖霊がダビデの口をとおして預言したその言葉は、成就しなければならなかった。17 彼はわたしたちの仲間に加えられ、この務を授かっていた者であった。・・・・・・20 詩篇に、『その屋敷は荒れ果てよ、そこにはひとりも住む者がいなくなれ』と書いてあり、また『その職は、ほかの者に取らせよ』とあるとおりである。21 そういうわけで、主イエスがわたしたちの間にゆききされた期間中、22 すなわち、ヨハネのバプテスマの時から始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日に至るまで、始終わたしたちと行動を共にした人たちのうち、だれかひとりが、わたしたちに加わって主の復活の証人にならねばならない」。           (使徒行伝1:15-22

  主イエスの12人の弟子の一人だったユダは、主イエスを捕らえた者たちの手引きをしました。主イエスを裏切ったのです。けれどそれは、聖書に約束されていたとおりで、私たちの救いのために神さまご自身が計画していたとおりでした。ユダの身に起こったことはとても恐ろしいことです。けれど神さまがそのことを決めておられたと、受け止めなければなりません。12人の一人がそのように抜けていったので、抜けていった彼の代わりに誰か一人を12人の働き人たちの中に加えなければなりません。
  私たち一人一人のためには神さまが何を決めておられるのか、「もしユダのようになったらどうしよう。嫌だな、おっかないなあ」と心配にもなります。けれど、それは自分自身にも他の誰にも分かりません。神様しか知らないのです。ですから、「神さまをよくよく信じて、神さまの御声に聞き従って生きることができますように。どうかぜひ、この私にもその御心にかなった歩みをさせつづけてください」と神さまに願い求めましょう。


    【補足/サタンが入った】
罪人の救いのための神ご自身のご計画です。同時に、ユダの裏切りをルカ福音書は「そのとき、十二弟子のひとりでイスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンが入った」(ルカ22:3)と報告しています。そう言えば、ユダやパロやカインだけではなく、主イエスの弟子ペテロの中にもサタンが入り込み、ペテロを思いのままに操ろうとしたことがありました。エルサレムの都に向かう旅の途中で主イエスがご自分の死と復活を予告なさったとき、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」とペテロが主イエスを諌めはじめたときに。主イエスはペテロを厳しく叱りつけました、「サタンよ、引き下がれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:21-23)と。あのペテロ自身に向かって言ったのですし、ペテロの中に入り込んでペテロを思いのままに操っているサタンに向かっても言ったのです。この私たち一人一人も彼らと同じです。



(付録)チャーチ・コンサートでの聖書の話
『何を頼みの綱とできるか?』 イザヤ書40:27-31

40:27 ヤコブよ、何ゆえあなたは、「わが道は主に隠れている」と言  うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか。28 あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。29 弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。30 年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。31 しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。   (イザヤ書40:27-31

  こんにちは。「時間はピューと飛んでゆく弓矢のようで、二度と決して戻って来ない」とか、「少年老いやすく学なりがたし」などと言います。まだピンとこないかも知れませんけど、本当のことなんですよ。実は、ぼくもほんの少し前には高校生でした。そのちょっと前には中学生、小学生、いつもいつも鼻をたらした小さな臆病な子供でした。あっという間に60歳になってしまって、毎朝、洗面所で鏡を見る度毎に「はあ。誰だ、おまえは?」と愕然とします。もちろん皆さんもそうですよ。すぐに大人になり、じいさんばあさんになって、腰が曲がってハゲ頭になって寝たきりになって、あっという間に死んでしまいます。
 この30節で「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れ果てて倒れる」と証言されています。聖書はこういう言葉使いをします、「年若い者。壮年の者」と希望と力にあふれた人間の様子や状態を2つだけサンプルとして取り出して見せています。ほかにも仕事がよくできる、才能と活気にあふれ、とても丈夫で人付き合いも上手で明るく社交的で元気に挨拶ができてとか。年配の人たちは口癖のように「まあ、若くて元気でうらやましいわ。それに比べて私なんかは」などと言います。ええ? 自分だって、ほんの少し前には若くてピチピチして、元気ハツラツとしてたじゃないですか。いいえ、それはあまり当てになりません。若者でも、バリバリの働き盛りでも、手に負えない難題や悩みや苦しみがあり、誰も彼もがそれぞれ弱り、疲れ果てて倒れそうになります。何度も何度も。若さも力も賢さもなにもかも、やがてすぐに失われてしまいます。年老いて、それら生きるための拠り所や頼みの綱にしていた取り柄や長所の一つ一つを手離していかねばなりません。
 ぼくは高校生の半ば頃、神さまを信じることができなくなりました。どうやって生きていっていいのか分からなくて、困りました。できれば神さまを信じたかった。でも、できなかった。教会からも神さまからも背を向けて、これからは自分の力を頼りに生きていこうと決めて、けれど自分の力などなんの頼りにもなりませんでした。30歳のときにどうしていいか分からなくなり本当に困って、神さまのもとに戻ってきました。それから30年たって、神さまのもとに戻って来られて本当に良かったと思います。生きていて嬉しいことも楽しいこともたくさんあります。けれど同時に、厳しく、あまりに過酷な世界でもありますす。何を支えとし、頼みの綱として生きてゆくことができるでしょうか。私たち人間の力をはるかに超えた存在があり、もし、その存在と出会うことができるなら、その人たちは幸せです。誰でも神さまを信じることができるわけではありません。どうしたわけか、いつも大勢の中のほんのひとにぎりの人々が神を信じます。聖書は語りかけます、「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」。